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2014年1月30日木曜日

熊沢蕃山の果たした役割

2月21日(金)岡山県立図書館のサークル活動室で岡山人物銘々伝を語る会の例会です。
2月は私が「熊沢番山と陽明学」について語ります。皆様のご見解や情報もお教えいただければと期待しています。

主要テーマは「開明思想としての陽明学」あるいは「熊沢蕃山の思想」です。

藩主池田光政と何故決別するようになったのか?その辺もテーマの一つです。

熊沢蕃山という人物がいなければ、名君池田光政も備前岡山藩の様々なその後の業績も無かったのではないでしょうか。
また、熊沢蕃山という人物が中江藤樹の門下となりその教えである陽明学を学び発展させなければその後の日本における陽明学の興隆も無く、特に幕末の多くの儒学者や志士といわれる人物たちが陽明学や熊沢蕃山の思想に共鳴し、新時代を切り開いていったことを考えると、熊沢蕃山とその思想と行動は、日本の政治思想文化で極めて大きな役割を果たして来たことがわかる。

熊沢蕃山は池田光政の元を去ってのちも様々な著作を通して後の政治や学問に多大な影響を及ぼした。
藩主光政公との行き違いの原因は何だったのか?もしや二人が別れ別れにならなかったらどうなっていたのか?興味は尽きない。

幕末の時代の熊沢蕃山に傾注した学者や指導者は多いが、その中でも最も代表的な一人が山田方谷である。
自らの学問の成果を政治で実現していったことにおいても、山田方谷先生は熊沢蕃山の思想を最もそのごとくに実践した代表的人物であると言えるのではないだろうか。

いま日本は壊滅的な敗戦の中から復興し世界でも有数な大国となった。しかし精神的理念や経済政策外交問題など極めて大きな課題を抱えている。
戦国時代の終演した熊沢蕃山の時代、徳川300年の歴史を閉じて世界に飛躍しようとした幕末から明治の時代、この時代に勝るとも劣らない危機的状況にあるとも言える。
いま日本は世界から注目され多くの国々から期待されているが、最も隣国の中国韓国との深刻な摩擦を抱えている。国内的にも国家財政の赤字や、少子化など深刻な課題が多くある。

当面の危機を打開しようと国家のリーダーも必死だが、抜本的解決の道は提示されていない。

熊沢蕃山の思想とその継承者たちの思想の中に問題解決の道があるのではと思う。

2月21日は皆様の見解やご意見も聞きたいと思っています。
ぜひ都合つけてご参加ください。

吉備楽土 代表 山田良三

2014年1月29日水曜日

関東大震災を描いた和気町出身の画家徳永柳洲~久井勲さんが講師

岡山人物銘々伝を語る会の例会が1月17日(金)午後6時から岡山県立図書館サークル活動室でありました。今月は会代表代行の久井勲さんが和気町出身の画家徳永柳洲の話をしました。
 昨年県立美術館で展示会がありましたのでご覧になった方もあると思いますが、徳永柳洲の代表的な作品は関東大震災の惨状を描いた絵です。これらの絵は全国を回って復興基金を募るなど当時大きな役割を果たしました。
 東京美術学校当時から抜きん出た才能をもっていて、期待されていましたが、当時の美術界の風潮に嫌気が差したのか、パリに遊学して研鑽を積んでいます。その中で歴史画に関心を持ち帰国後も歴史的瞬間を描くことを続けています。関東大震災の時上記にあるように震災の生々しい姿を絵で表し、この絵を持って全国を回ります。「震災画家」という名称を新聞で用いていますが、講師の久井さんはあまり賛同できないとのことでした。
地元の岡山県内、和気町内でも知らない人が多いのでぜひ多くの方にこういう素晴らしい絵を書いた画家のいた事を知ってもらいたいものです。
 講師の久井勲さんは「和気清麿呂」など歴史小説作家としても知られています。また論語に詳しく、ラジオでの論語の時間の担当や「論語かるた」使っての子供たちへの教育など積極的に取り組んでおられます。
 和気町は人口的にも全国の中小都市の代表のように、老齢化や人口の減少など様々課題や悩みを抱えています。そんな和気町を発展と希望ある町に躍進させるべく4月に行われる町長選に立候補する決意を固めておられます。
 和気清麻呂と論語をテーマにサテライト都市を目指し地方都市のあるべきモデルを実現していってほしいものです。

熊沢蕃山~2月岡山人物銘々伝を語る会テーマ

2月の岡山人物銘々伝を語る会は「熊沢蕃山」をテーマに山田が話します。
日本陽明学のそと言われる中江藤樹、その弟子が熊沢蕃山

内村鑑三の「代表的日本人」に中江藤樹に弟子入りした熊沢蕃山の逸話が載っています。
近江の小川村という一農村の先生だった中江藤樹、その下にあるきっかけで弟子入りをするべく訪ねた熊沢蕃山、この出会いがなければ中江藤樹が陽明学の祖として世に知られることもなく、陽明学が日本の開明思想として、幕末から明治にかけての開明思想の隆盛もなく、日本の近代化も無かったかも知れない。

そして備前岡山藩主池田光政との出会い。中江藤樹のもとで8ヶ月という短い期間であったが、その訓戒を受けた熊沢を藩主光政がその資質を汲んで登用することが無かったら、これまた陽明学の日本における展開も無かったであろう。

残念ながら、藩主池田光政と熊沢蕃山はある時を境に意見の不一致に及び、蕃山の蕃山村への蟄居、その後池田藩から離れるに及び最後古河で蕃山は最期を迎える。

儒教的秩序を藩政に取り入れようとしさらに津田永忠らを登用して新田開発などの施策を行おうとする藩主光政に蕃山は痛烈に批判を浴びせている。蕃山は新田開発や津田永忠の登用に強く反対しているが、それはなぜなのか?
津田永忠による新田開発や多くの施策はこれまで高く評価されてきているようだが、果たしてどうだったのか?熊沢番山の主張は間違っていたのか?

あの当時池田光政公が熊沢蕃山の意見を受け入れて、彼の主張通りに藩政を行っていたらどうなていただろうか?
様々可能性を考える。

皆様の見解や意見もぜひ伺いたいと思います。

岡山人物銘々伝を語る会は毎月第3金曜日の午後6時から8時まで、通常は岡山県立図書館で開催しています。(図書館休館日はゆうあいセンターにて)
どなたでも参加できますのでぜひおいでください。資料の準備の関係上できれば事前にお申し込みください。(090-1033-3327 山田 メールはこちら)

なお、会代表代行の久井勲さんがこのたび和気町長選挙に立候補することになりました。
選挙が終わるまでは毎月楽しみにしていた毎回の例会のまとめもお休みです。残念ですが「論語と清麻呂の町づくりを目指す久井さん応援して行きたいと思っています。



2014年1月8日水曜日

謹賀新年

あけましておめでとうございます
今年もよろしくお願いいたします


吉備楽土       
代表 山田良三 


昨年は当ブログの拙文ながらお読みいただいた皆さんに心より感謝を申し上げます
今年は少しは上質な記事を書けるよう取り組む覚悟で新年を迎えました。
吉備発日本と世界を変えていく原動力の一つになりたいと願い決意ししております。


さて、11月最初の岡山人物銘々伝を語る会の案内ができました。
今月は案内が遅れましたが、御許し下さい。

1月は岡山人物銘々伝を語る会代表代行 作家の久井勲さんの担当です。
以下1月例会の案内です



「岡山人物銘々伝を語る会」第90回例会のご案内

                             代表世話人代行 久井 勲

     90回(平成251220日)の例会は。福田明正さんによる「雪舟」でした。さすが、
   ご出身地の、日本絵画史上の巨星を賛仰されるお気持ちが伝わってきました。枯淡にして哲学的、
   勇壮にしてまた繊細な画風は、日本人の芸術観、自然観に大きな影響をあたえ、むしろ作り上げて
   きたと言えるのではないでしょうか。現存する作品6点が現在国宝に指定されているのは驚きでした。
   中でも「山水長巻図」は、いつの時代も教科書に掲載されており、日本人にはおなじみです。あの
   茫漠とした自然の中で、縦の直線がキリッとした秩序や自然の規則性を感じずにはいられません。
   日本人は、自然を優雅なものとして認識する感覚が昔からあったと思いますが、室町時代以降は、
そのような感覚も混じりあってきたように、私は感じています。
さて1月例会は、次のとおり開催いたします。多数のみなさんのご参集をお待ちしています。              
                   記
     日時:  平成26117()※ 午後68時  (※通例は第3金曜日です)
     場所:  岡山県立図書館 2階 サークル活動室 
     内容: 「徳永柳洲とその時代」
講師: 久井 勲 氏
     参加費:500円 
    【徳永柳洲】
       徳永柳洲は、明治4(1871)、和気町藤野生まれの洋風画家。若くしてパリに学びますが、
     この折、与謝野鉄幹・晶子夫婦と同じ航路でした。それが後々まで、親交を結ぶきっかけと
     なっており、鉄幹の新聞記事に彼自身が挿絵を描いているほどでした。帰国後は自分の画風に
悩みますが、関東大震災の惨状を記録する動機で大作を二十数残しており、徳永はその後数年間
それら作品を全国巡回し復興救済資金に充てましたその後は画壇第一線から離れ、昭和11
(1936)、富山県にて傷害を閉じました。
 昨秋、岡山県立美術館にて「震災画家、徳永柳集展」が開かれました。