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2012年3月28日水曜日

宇喜多の別姓が秦だとすると・・・・


「黄蕨(きび)国と宝木伝説」 http://www.geocities.jp/ki_warabi/
を主宰しておられる丸谷氏の論文によると[宇喜多の本姓は”秦”」であるとのこと。

香川で歴史研究をしておられれる大井透氏からの情報として丸谷氏からいただいた情報です。

以下引用させていただきます。
2月23日に大井 透氏より秦氏関連の情報提供があった。吉備に多くの秦氏が入植していることからみて関係があると思いメールしました。

豊臣家の五大老の宇喜多家は本姓が秦氏です。この情報は観音寺じんねいん神恵院(香川県観音寺市八幡町1-2-7)に伝わる『弘化録』(弘化録 は、空、風、火、水、地の五巻からなり、同寺の第七十四代住職光遍法印が編集。703年(大宝三)から1845年(弘化二)までの寺歴や観音寺周辺の出来 事だけでなく、国家の歴史的な事象を歴代住職ごとにまとめている)に記載されています。この寺の別当には空海や足利尊氏の庶長子もおり、その為西讃では第 一の権勢を誇った寺社です。仙石秀久の讃岐侵攻の際、宇喜多一族は西讃地方で所領を与えられ「宇喜多」あるいは「浮田」と名乗り、大地主として農地解放ま で栄えていました。その宇喜多家の一人が江戸期に琴弾八幡宮(香川県観音寺市八幡町1-1-1)に奉納した際の名簿に載っているのです。ネットでは宇喜多 家は百済の末裔とか載っているのもありますが本当のところはよくわかりません。温羅も百済の王子という伝承も突厥の範疇の一部と理解できるのではないで しょうか。


宇喜多が秦氏とすると・・・・
児島高徳も秦氏・・・?
児島高徳が挙兵した熊山は有名な熊山遺跡の建造に秦氏が係わっていたことはすでによく知られている。そして児島高徳が船坂峠で戦って傷を負って治療のために匿われたのが坂越、ここの児島高徳の墓もある。坂越と言えば秦川勝が最後にたどり着き葬られた生島があり、大避神社がある。坂越は秦氏の故郷のようなところである。
吉備の秦氏と宇喜多家の血統的なつながりが明らかになれば、吉備の歴史の重要な部分がみな解けて来る。

[宇喜多騒動]というのがあった。家臣の中にキリシタンに改宗する者が出てきた。宇喜多秀家が重用した、長船紀伊守がその代表と言われれる。
日本にキリスト教を伝来したと教えられているフランシスコ・ザビエルの日記を見ると、日本人はすでにキリスト教伝来以前から、キリスト教と同じような信仰を持っていたことが伺われる。
秦氏=原始キリスト教徒あるいは景教徒との説がある。ケン・ジョセフ氏の[失われた十字架の国日本]などに明らかである。
丸谷氏は秦氏の元郷は中央アジア、シルクロードにあった弓月国であるとしているが、これは秦氏を率いてきたのが弓月王でるあるという日本書紀や新撰姓氏録に明らかである。
弓月国が原始キリスト教あるいは景教の国家であった可能性はきわめて高い。さらに魏志には秦始皇帝の時代に多くの難民が朝鮮半島南部に逃れ国を作ったとの記録がある。これが辰韓であり、新羅のもととなった。

秦氏の持つ宗教性から見ると、秦氏の少なくとも主力はユダヤ人原始キリスト教とであったとの推論はかなりの確立で正しいと言わざるを得ないであろう。

景教はネストリウス派とも言われ、一時はローマカソリックから異端視されキリスト教として扱われなかった時代があるが、近年和解した。
ある面、もっともキリストの教を忠実に受け継いだのが景教だったとも言われている。イエスの弟子の一人トマスがインドに宣教に行って殉教した話がケン・ジョセフ氏の本にもある。
そうすると、日本にはザビエルが日本にやってくるはるか以前、おおよそ2~3世紀ころには遅くも、その教が伝わっていたとしても間違いないであろう。
京都太秦の広隆寺も元は葛野にあって、それはまさに景教の寺院だったと言われている。秦川勝が側近を務めていたといわれる聖徳太子の伝説にキリストの誕生伝説に似通った話しが出てくるのも不思議ではない。

ザビエルが日本に来て、一挙にキリシタンに改宗したと言われるが、その土台がなければ何十万という人々が一挙に改宗などするはずが無い。それはその以前から名前やスタイルは違っていても同じ教えがこの日本に広まっていたからではないのか?
宇喜多が秦氏とすると、長船紀伊を始め家臣や領民の多くがすでにその以前から、キリストの教えに教化されていた人々であった。それは秦氏であった。と言うことになるのではないだろうか。

それではなぜ、日本は仏教国なのに?
それは、日本に伝わった仏教はすでにキリスト教と仏教が融合した形で伝わっていた。それは弥勒という形で・・・。それと徳川300年の鎖国政策とキリシタン禁教の中で、完全にキリストの教えの本質は外形が仏教や儒教と言う形の中に融合され、外形的なキリシタンと言うものが故意に抹殺され続けられて来た結果であろう。
幕末期から明治初めにかけての新興諸宗教が、その教えの内容に係わりなく神道の形を取らざるを得なかったように、日本に伝わったキリストの教えは仏教の衣を纏わざるを得なかったのである。

このあたりもう少し今後整理していきたい。


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