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2011年6月29日水曜日

吉備の秦氏と岡山の人物

8月に「吉備の秦氏と岡山の人物」というテーマで話をすることになっている。
そのための材料をいろいろ集めている最中だが、これが膨大なテーマだということが分かってきた。

吉備の秦氏というが、その全貌はこれまで誰もまとめていない。そもそも日本の歴史の中で、吉備の歴史は古事記日本書紀を始めほとんど記述がない言っていくらいである。
多くの歴史の研究者が、吉備の国、しかも秦氏のことにはほとんど触れていない。
最近幾人かの方が「邪馬台国吉備説」であるとか、吉備に注目する学説を唱えていたりするが、膨大な古代日本史研究の中では「吉備」は無視されてきたといってもいい。

そのような中ではあるが、岡山大学考古学部の近藤義郎先生の研究や、近藤先生の楯築遺跡の研究を基にしながら書かれた薬師寺慎一先生の論文は注目に値すると思っている。
また、磐座や地名の研究をしながら秦氏について言及された佐藤光範さんの研究に注目してみたいと思っている。

岡山からは実に偉大な人がたくさん輩出している。その先駆けとも言うべきなのが「吉備真備」であり「和気清麻呂」であろう。
和気清麻呂が秦氏、特に山背の秦氏と密接な関係を持っていたことはよく知られている。和気氏と秦氏の関係は、和気氏の出身地である備前、美作でもその関係が密接であったことが明らかである。更には宇佐八幡との関係もあり、道鏡事件のとき流された大隅でも秦氏との関係があったのではないかと思われる。

さて、薬師寺慎一先生の書いた、備中中枢部の秦氏に関する論文を読ませていただくと、「吉備氏」=「秦氏」という構図が浮かび上がってくる。応神天皇の妃、兄媛が故郷に帰りたいということで、吉備に帰るが、その兄媛を追って天皇が来られて、兄媛の兄御友和別が歓迎した。その地が葉田(ハダ)である。そして御友別の子達に吉備の国を分けて与えた。それが上道氏や下道氏、三野、香屋、笠臣などであるという。
さらに戦前吉備を代表する歴史家永山卯三郎氏が著わした岡山県通史の中で、「葉田は東は上道郡の可知村、財田村土田(はだ)、幡多村から西は高梁川西岸の秦郷に至るいったいを言ったものか・・」とあることを紹介している。
そうだとすれば下道氏から出た吉備真備もその後賀陽氏から出たという栄西禅師も秦氏の流れをくむ人物と見ることができる。
そして更に、二流れの幡から生まれたという法然上人の誕生につながる。

2011年6月23日木曜日

吉備歴史探訪会6月例会 誕生寺 本山寺

アイアンロード
京大名誉教授で、日本の古代史研究で有名な上田正昭教授が総社市の姫社神社に来たとの話を、姫社神社総代の板倉さんから聞いたが、そのとき上田教授が「鉄産の民が中原から久米南に行った」と講演会で話をしていたとのこと。
法然上人の家系が秦氏とかかわることは明らかになっているが、このあたりのことを今回探ってみる。

久米南町誌を見ると久米南町の北、現在の美咲町に旧錦織村があり、ここには秦氏が祀った「錦織神社」があるとある。欽明天皇の時、秦氏の納める織物の量が山をなすほど多かったとあり、当時の秦氏の繁栄を伝えている。鉄産とともに久米郡の一帯が秦氏の栄えた地域であったのであろう。

今回、誕生寺と、法然上人の両親が、その子を授かるために祈願したと言う本山寺を訪ねる。本山寺に行く途中には「波多神社」がある。もとは畑三社権現と言ったそうだが、ここにも秦氏の名残がある。

探訪会今回は25日土曜日、10時に誕生寺集合です。

2011年6月22日水曜日

阪谷朗蘆、三島中洲と渋沢栄一 岡山人物銘々伝を語る会6月例会

今回講師の高橋義雄氏は岡山の金融史をまとめられた方である。日本資本主義の父と言われる渋沢栄一とゆかりの岡山の人物として興譲館の創始者阪谷朗蘆と山田方谷の弟子であり二松学舎の創立者三島中洲を取り上げた。ともに儒学者でありながら西洋の文化を取り入れ、教育や産業の発展に貢献した。
三島中洲については以前この会でテーマで取り上げられたことがあるが、阪谷朗蘆については今回が初めて、興譲館は最近駅伝で有名になったが、学校創立の背後にこのような人物の、このような教えがあったことを知り、郷土として誇るべきものであると感じた。校訓とその意味なども紹介されたが、実に味わい深い内容であった。

2011年6月1日水曜日

早島で開かれた合唱コンサート コロポーニョと吉備の児島

29日日曜日の午後2時から早島町のゆるびの舎で合唱コンサートが開かれた。
演奏は児島を拠点に3年前に結成された「コロポーニョ」1stコンサートと銘打って、同じく高野敦さんが指揮者を務める「コールゆうぶんげん」が賛助出演、合同での演奏「花に寄せて」には筆者も友情出演させてもらったが、事故のため手も足も不自由になった星野富弘先生が口に筆を含ませながら書いた絵と詩、それに感動して混声合唱組曲に仕上げた作曲家の新実徳英氏、コンサートのプログラムにも新実氏のメッセージが寄せられていたが、突然襲った悲劇にもかかわらず生きる希望を持ち続け、それを絵と詩に描いた星野氏の強い意志と魂の叫びと愛情があふれた曲である。感動的な舞台だった。
最後はアンコールで「吉備の児島」3月に児島で上演された吉備の児島をテーマにした創作ミュージカル「最後の5匹」の挿入歌である。吉備の児島の歴史と風土を表現した、さわやかであたたかな瀬戸の風状の中で伸びやかな希望を感じさせる歌である。作詞は児島在住の江戸川乱歩賞作家の藤原敏弘氏、作曲は同じく児島在住の音楽家亀井由喜子さん、原曲は女声合唱だが今回混声合唱に編曲しなおしての初演奏。亀井女史とミュージカル主演の女の子がゲストとして来場紹介された。

さて、児島の合唱団がなぜ早島でと、少し不思議にも感じたが、私はこう思った。
早島はなんと言っても山陽道と金比羅街道の分岐点、かって児島に上陸した人たちは由加山と熊野社に参拝して早島に出て山陽道を登ったり下ったり、あるいはまた出雲へその道をたどり分かれて行った。今でもそうであるが早島は吉備の児島との接点になる交通の要所。ここに文化が集まりここから文化が開けていく。
早島のゆるびの舎はとても使い勝手がよく、音響もよくて岡山や倉敷の合唱団がよく利用する会場である。
当日は季節はずれの台風で、風と雨の悪天候にもかかわらず300余名の聴衆が集まった。
児島と岡山でかつやくする両合唱団の今後の活躍に期待したい。
コロポーニョ 吉備の児島の記事も見てやってください。