吉備の国の歴史、その中でも特に宗教史にスポットを当ててみると、忘れてはならないのが「報恩大師」であろう。
以前3月12日の投稿にもあるが
今の岡山市芳賀の生まれで、吉野で修行、称徳天皇の病気平癒に験があったということで取り立てられ、大師号を賜るほどになった。備前四八か寺の開祖と知られ、備中高松最上稲荷の開祖としても知られる。
さて、今回熊山に行って来て、鮮明になったのはやはり[秦氏]との関わりである。熊山遺跡も秦氏が建設した石塔、しかも発起したのは平安京造営に秦氏と深くかかわった和気清麻呂という図式である。
秦氏と言えば、当ブログでも「法然と秦氏」について書いた。今は旧熊山町は赤磐市に合併されたが、そのま反対にあたる、旧吉井町には、物部の宮司さんが祀る「石上神社」がある。その布津美の地をさらに進んだところが、法然上人の両親が祈願したという「本山寺」であり、かの地は「秦氏」が勢力の地域となっていた。
さて、備中はと考えると、現在の総社市秦原に秦廃寺があることは知られていて、何度も行ったことがあるが、その当時かの地が秦氏の勢力地であったことは間違いないであろう。その一世を風靡したと思われる人たちがどこに行ったのだろうかというのが第1の疑問である。
ところで備中と言えば、現在宗教的に栄えているのは「高松稲荷」である。
京都伏見の稲荷は。秦氏の鎮守であったと言われる。山城の秦氏は和気清麻呂とともに平安京造営の有力な豪族となって行くが、空海が東寺を賜り、その鎮守を稲荷社としたことは重要なポイントである。(八幡社も鎮守となっている)
さて、高松稲荷、かって龍王山神宮寺と言われたと、寺伝にある。「稲荷といえば巨岩があるよ。」とある宗教家の方から聞いて確かめに行ったことがある。高松稲荷も確かに巨岩があり、児島の由加山の神社本殿の背後にも巨岩があり、ここも稲荷が祀られていた。
稲荷と言うと「秦氏の氏神様]である。ここ高松稲荷もそうだとすると、高松稲荷を開いたという報恩大師も秦氏ではないのか?という疑問が生じてくる。
報恩大師の生れたのは、現在の岡山市「芳賀」、ハガはハダあるいはハダと通じる。秦氏のハタは[幡多]あるいは「波多」とも書く。「ハガ]というのが「ハダ」から来ているのではないかと、私の今の類推である。
今まで報恩大師が秦氏だった。ということは聞いたことがなかったように思うが、関連性から考えると、当然前秦氏だったのでは無いか?と思われてくる。
報恩大師が秦氏か、あるいは秦氏との密接な関係を持った人物であったことがはっきりしてくれば、備前備中美作の、重要な宗教史に関わった秦氏の果たした役割がさらに鮮明になってくる。
2010年10月30日土曜日
2010年10月24日日曜日
吉備歴史探訪会で熊山に行ってきました。
23日(土)吉備歴史探訪会で熊山に行ってきました。
今回新しい発見がいくつかありました。
朝9時30分上寺余慶寺に集合、まずは、和田一族と児島高徳の供養塔に参拝して、この地が和田一族ゆかりの地であることを確認しました。
その後豊原北島神社に参拝、特にこの地が霊地となる出発となった磐座に深い思いを持って参拝、
舒明天皇の6年(634)に宇佐八幡をこの地の磐座に勧請したのが始まりで、上八幡、あるいは正八幡と呼ばれたとの伝承に、この地の歴史を紐解く、重要なキーポイントかと思いました。
余慶寺が報恩大師開基、慈覚大師円仁中興と言うのが興味深い。慈覚大師は比叡山、天台密教を語る上で極めて重要な人物である。出身の出羽、今の山形山寺に不滅の灯明を残した人物として有名である。
さて、余慶寺を後にして、熊山に向かう途上、香登に立ち寄った。熊山を語る上で、この香登の地は極めて重要な土地である。
まず、香登の鎮守大内神社を訪ねた。実はこの大内神社の摂社に「大酒神社」があると聞いていたからである。神社を訪ねると、お祭りの後始末を町内の方がしておられたが、神社の境内を行くと、社殿に上る階段の右わきに「大酒神社」が祀られていた。大酒は大避と同じで、大僻とも書く。先日行った赤穂坂越の大避神社は祭神が秦河勝であるが、ここは香登の臣と言われた秦大兄が祀られている。
以前、この地域の研究家に聞いた話では、秦大兄は山背大兄の難の時、この地に逃れてきたという。
續日本紀には文武天皇2年(699)に、侏儒備前国人秦大兄に香登臣の姓を賜ったとある。侏儒とは小柄な人と言う意味だという。この地には大酒殿跡というのもあるということで、この地が秦氏の居留地域で、鉄の加工技術や陶器の製造技術など、その時代の先端技術の地だったことがわかる。
この大内神社を少し行った、所に「千人鼻塚」がある。
朝鮮出兵で、首級の代わりに切り取った鼻を、[敵兵といえども国のために殉じたものなれば粗末には出来ない」と、宇喜多の家臣であった「六助」が塩漬けにされた鼻をもらいうけ、この地に祀り供養したのが始まりで、その後代々子孫が受け継いで供養を続けてきたという。
神社は静かなたたずまいだが、時折登山客がやってくる。我々一行は児島高徳挙兵の跡、腰掛け岩と旗さし岩を見る。腰掛け岩に腰をおろしながら、往時、この岩に腰掛けながら尊氏軍との激戦を闘う決意をなした高徳と一族の決意を思う。
今回初参加の湯浅さん、先祖は南朝方で戦った一族と聞く。南朝方に従った忠臣の家系とか火、さもありなん武勇伝をその後聞いた。
ここから、樹齢1000年の天然記念物の杉の巨木2本を過ぎると、左手に猿田彦神社右手に熊山遺跡が見えてくる。
今回新しい発見がいくつかありました。
朝9時30分上寺余慶寺に集合、まずは、和田一族と児島高徳の供養塔に参拝して、この地が和田一族ゆかりの地であることを確認しました。
その後豊原北島神社に参拝、特にこの地が霊地となる出発となった磐座に深い思いを持って参拝、
舒明天皇の6年(634)に宇佐八幡をこの地の磐座に勧請したのが始まりで、上八幡、あるいは正八幡と呼ばれたとの伝承に、この地の歴史を紐解く、重要なキーポイントかと思いました。
余慶寺が報恩大師開基、慈覚大師円仁中興と言うのが興味深い。慈覚大師は比叡山、天台密教を語る上で極めて重要な人物である。出身の出羽、今の山形山寺に不滅の灯明を残した人物として有名である。
さて、余慶寺を後にして、熊山に向かう途上、香登に立ち寄った。熊山を語る上で、この香登の地は極めて重要な土地である。
まず、香登の鎮守大内神社を訪ねた。実はこの大内神社の摂社に「大酒神社」があると聞いていたからである。神社を訪ねると、お祭りの後始末を町内の方がしておられたが、神社の境内を行くと、社殿に上る階段の右わきに「大酒神社」が祀られていた。大酒は大避と同じで、大僻とも書く。先日行った赤穂坂越の大避神社は祭神が秦河勝であるが、ここは香登の臣と言われた秦大兄が祀られている。
以前、この地域の研究家に聞いた話では、秦大兄は山背大兄の難の時、この地に逃れてきたという。
續日本紀には文武天皇2年(699)に、侏儒備前国人秦大兄に香登臣の姓を賜ったとある。侏儒とは小柄な人と言う意味だという。この地には大酒殿跡というのもあるということで、この地が秦氏の居留地域で、鉄の加工技術や陶器の製造技術など、その時代の先端技術の地だったことがわかる。
この大内神社を少し行った、所に「千人鼻塚」がある。
朝鮮出兵で、首級の代わりに切り取った鼻を、[敵兵といえども国のために殉じたものなれば粗末には出来ない」と、宇喜多の家臣であった「六助」が塩漬けにされた鼻をもらいうけ、この地に祀り供養したのが始まりで、その後代々子孫が受け継いで供養を続けてきたという。
その後平成4年(1992)に韓国から、韓国仏教福祉協会の朴三中と言われる僧侶が来られ、この鼻塚の霊を供養したいということでこの地で、西大寺観音院を始め中国観音霊場会の皆さんも参加し法要が営まれた。その後、韓国全羅北道扶安の地に慰霊碑が建てられ、慰霊の行事が日本からも参加して行われた。実は筆者もその行事に参加したので、この地はゆかりの深い地である。
最初に供養を始めた「六助」さんもすごいが、そのうようを今にまで伝えて、慰霊を続けている一族の方もすごいと言わざるを得ない。悲惨な日本と半島の怨恨の歴史の背後にある美談である。
ここ香登の人々が秦氏の流れをくむ人々だとすれば、秦氏の持つ宗教性から来ているものだと想像できる。この地域は隠れキリシタンの地でもあったと聞いた。その遺跡を見せてもらったこともある。
鼻塚を過ぎて大内地区から熊山に上る山道を登って行くと頭中に、大瀧山福生寺がある。ここも備前48ケ寺に数えられる名刹である。
福生寺本堂前で
寺伝によると天平勝宝6年(754)鑑真和上によって開基されたとある。天長5年(828)史書に名前を残す備前最古の寺でもある。
ここから、山道を10分くらい登ると、熊山山上の駐車場に着く。さっそく降りて熊山神社に向かう。
今回初参加の湯浅さん、先祖は南朝方で戦った一族と聞く。南朝方に従った忠臣の家系とか火、さもありなん武勇伝をその後聞いた。
ここから、樹齢1000年の天然記念物の杉の巨木2本を過ぎると、左手に猿田彦神社右手に熊山遺跡が見えてくる。
改めて遺跡の姿に、思いをはせる。仙田実氏の著書「霊山熊山」によると、この塔は和気清麻呂が発起し、秦氏が施工したものであろうと言われ、大陸朝鮮半島から渡ってきた石造の塔と、東南アジアの仏塔の技術が融合して作られたものだという。
また熊山に寺院を作った目的は山林修行のためであろうという。この地はその後山伏の修行の場となり、児島の熊野社ともつながり、そのような中で児島高徳一族の挙兵もあったであろうと思うと、歴史の重みを感じるこの地である。
改めて展望台に立ち。かっての豊原庄を眺めると、時代を生きてきた人々の息遣いを強く感じるばであった。
熊山山上から吉井川とかっての豊原郷、現在の瀬戸内市と岡山市方面を望む。ずっと先にかすむのが吉備の児島。(撮影は10月2日)
熊山はかっては[隈山]と書いた。吉備の隅の山だったが、吉備の国の歴史に重要な意味を持つ山であった。そのことを象徴するのが熊山遺跡である。
熊山遺跡を建造したされる、和気清麻呂一族と秦氏は、平安京造営に深くかかわり、その後平安京の宗教的バックボーンとなった天台、真言ニ教との深いかかわりを作って行った。
平安の時代を過ぎ鎌倉~室町の時代になると、特に南朝方に組した児島高徳らを生み出した。
その後戦国時代になると、麓の福岡を中心に時代を担う宇喜多や、黒田の武将が登場する。
明治の神仏分離により、熊山は廃墟のようになってきたが、今再び時代の脚光を帯びようとしている。
この熊山は、新しい未来の時代を切り開く秘密が隠されている地のような感覚を思えて、今回の歴史探訪は終わった。
山を降り、最後に訪ねた福岡の「一文字」のうどんおいしかったですよ。
2010年10月21日木曜日
熊山遺跡を作ったのは? 施主:和気清麻呂 施工:秦氏
岡山文庫に「霊山熊山」という本がある。和気郡史、吉永町史、熊山町史などの編著に当たられた仙田実氏の著である。
書によると、熊山遺跡は和気清麻呂が施主で、秦氏が施工して出来あがったものであろうという。また、この塔の築造には東大寺や堺の土塔、奈良の頭塔などの築造に参加した東南アジア系の技術集団も加わったのではないかと言う。
道鏡事件が769年、その3年前の766年に藤野郡は3郷から9郷1村に拡大され、香登や伊部郷も含まれた。このころ清麻呂と姉の広虫他一族は異例の出世を遂げているのである。
遺跡の中央竪穴から出土した陶製塔形容器とその中に納めてあった奈良三彩賽釉小壺は唐伝来の高貴な宝物で、このようなものを納めることが出来たものと言えば和気清麻呂とその一族以外には考えられないという。
当時多くの寺院が和気や磐梨に作られているが、これらは和気氏の力によるところが大きく、その中でも熊山は山林修行の場として、開かれて行ったのであろう。
仙田実氏は岡山文庫に「和気清麻呂」の本も書いているが、熊山をめぐって香登を中心とした秦氏との関わりと、さらに平安京造営に向けての秦氏との関わりの原点があることを示唆してくれている。
吉備楽土のテーマの一つである、「和気清麻呂と秦氏」のつながりがその後の中世から近世への歴史につながって行く、重要な場所が[熊山]であることがわかってくる。
吉備歴史探訪会の10月例会楽しみにして行きたい。
書によると、熊山遺跡は和気清麻呂が施主で、秦氏が施工して出来あがったものであろうという。また、この塔の築造には東大寺や堺の土塔、奈良の頭塔などの築造に参加した東南アジア系の技術集団も加わったのではないかと言う。
道鏡事件が769年、その3年前の766年に藤野郡は3郷から9郷1村に拡大され、香登や伊部郷も含まれた。このころ清麻呂と姉の広虫他一族は異例の出世を遂げているのである。
遺跡の中央竪穴から出土した陶製塔形容器とその中に納めてあった奈良三彩賽釉小壺は唐伝来の高貴な宝物で、このようなものを納めることが出来たものと言えば和気清麻呂とその一族以外には考えられないという。
当時多くの寺院が和気や磐梨に作られているが、これらは和気氏の力によるところが大きく、その中でも熊山は山林修行の場として、開かれて行ったのであろう。
仙田実氏は岡山文庫に「和気清麻呂」の本も書いているが、熊山をめぐって香登を中心とした秦氏との関わりと、さらに平安京造営に向けての秦氏との関わりの原点があることを示唆してくれている。
吉備楽土のテーマの一つである、「和気清麻呂と秦氏」のつながりがその後の中世から近世への歴史につながって行く、重要な場所が[熊山]であることがわかってくる。
吉備歴史探訪会の10月例会楽しみにして行きたい。
2010年10月19日火曜日
吉備歴史探訪会 10月例会 熊山に行きます
6月例会は坂越に、8月例会は児島熊野社に行きました。
10月例会は、児島高徳のつながりで邑久の上寺余慶寺と熊山に行きます。
1
10月23日(土)9時30分 上寺余慶寺9時30分スタートです。
参加希望の方は、上寺の駐車場にお集まりください。
岡山市内の方は9時ころ待ち合わせて乗り合わせて行きます。ご連絡をください。
上寺で、豊原北島神社と余慶寺、児島高徳、和田一族の顕彰碑をめぐったあと、香登の大内神社と鼻塚、福生寺を経由して熊山山上に向かいます。
[熊山]については様々な事実がわかってきています。秦氏とのかかわりなども明らかになってきています。楽しみにしてご参加ください。
参加費は実費です。
新規参加希望の方は吉備楽土にご連絡ください。
現地に直接参加してくれてもOKです。
10月例会は、児島高徳のつながりで邑久の上寺余慶寺と熊山に行きます。
1
10月23日(土)9時30分 上寺余慶寺9時30分スタートです。
参加希望の方は、上寺の駐車場にお集まりください。
岡山市内の方は9時ころ待ち合わせて乗り合わせて行きます。ご連絡をください。
上寺で、豊原北島神社と余慶寺、児島高徳、和田一族の顕彰碑をめぐったあと、香登の大内神社と鼻塚、福生寺を経由して熊山山上に向かいます。
[熊山]については様々な事実がわかってきています。秦氏とのかかわりなども明らかになってきています。楽しみにしてご参加ください。
参加費は実費です。
新規参加希望の方は吉備楽土にご連絡ください。
現地に直接参加してくれてもOKです。
2010年10月10日日曜日
熊山遺跡
熊山遺跡に行ってきました。
児島高徳出陣の地ということもあり、以前から一度行きたいと思っていたが、ようやく時間が取れ、香登の鼻塚に行ったあと、熊山に登った。
最初、香登の福生寺側からの登り口がよく解からなかったので、旧熊山町に回った。熊山駅から旧熊山町の「和気清麻呂墓」に行き、その後熊山公民館と図書館に寄り、少々情報を仕入れて、熊山山上に向かった。途中わき水のあるところでのどを潤し、山上には15分くらいで到着した。
駐車場から10分くらいと聞いていたので、熊山神社経由で山上に向かった。
熊山神社には[児島高徳挙兵の跡]という、岩がある。
児島高徳出陣の地ということもあり、以前から一度行きたいと思っていたが、ようやく時間が取れ、香登の鼻塚に行ったあと、熊山に登った。
最初、香登の福生寺側からの登り口がよく解からなかったので、旧熊山町に回った。熊山駅から旧熊山町の「和気清麻呂墓」に行き、その後熊山公民館と図書館に寄り、少々情報を仕入れて、熊山山上に向かった。途中わき水のあるところでのどを潤し、山上には15分くらいで到着した。
駐車場から10分くらいと聞いていたので、熊山神社経由で山上に向かった。
熊山神社には[児島高徳挙兵の跡]という、岩がある。
児島高徳出兵の跡
かって熊山山上は「霊山寺」の山上伽藍が広がっていたと言われる。中世の時代は最も栄えた時代であったので、この地で戦勝祈願をして出発したのであろう。
熊山神社から熊山遺跡に通ずる道沿いに天然記念物の巨木がある。1000年の樹齢だそうで、児島高徳の活躍した時代からずっと立っていたと思うと、歴史をこの木も知っているのかと思う。
山上辺り熊山遺跡の反対側に猿田彦神社がある。猿田彦と言えば比叡山の地主神と言われている。ここ熊山は、明治の神仏分離に遭うまでは[霊山寺]とわれ、神仏習合の権現信仰の地であったと言われる。その名残のように思う。
猿田彦神社
いよいよ熊山遺跡、三段の石積みの遺跡が忽然と現れる。誰が何のために作ったのか?
遺跡脇の看板には奈良時代初期の築造であろうと書かれている。一説によると鑑真和上が、熊山の開基でここにきて戒壇を設けたのではという説もあるようであるが、[戒壇]の意味からして違うのではないか。
墳墓でもないようであるし、どうも同じような石積みの遺跡が32も山中にあるそうである。
それらから考えて、熊山の麓の香登に住んだと言われる「秦氏」が、信仰を捧げるのに築造したのではないかというのが有力である。
本ブログでも紹介してきた。「秦氏」、そして秦氏と密接な関係を持って、平安京を造営した[和気清麻呂]はこの熊山の北の麓に生まれた。今回旧熊山町を訪れ、和気清麻呂の墓も訪れた。熊山は秦氏が開いた信仰の山だったのではとの、推測をする。
南側麓の香登には、秦氏の「秦大兄」についての記録が残っている。また今回香登を訪れ、大内神社の摂社に[大避神社]があることを知った。香登から長船にかけての、陶器や刀鍛冶など、殖産業を秦氏など渡来人が興し、その信仰の山が熊山であったと言えるのではないか。古来熊山は[隈山]と書いたらしい。吉備の国の「隅」の山という意味だろう。
熊山遺跡 三段の石積みの塔
熊山遺跡のすぐそばは展望台になっていて、眼下に吉井川が流れ、香登庄とその先にはかって児島高徳を生んだ和田一族が治めた「豊原郷」が見渡せる。
帰路、香登に降りる山道沿いには、大瀧山福生寺がある。ここも備前では第1の古寺だと言われる。
この地域の宗教性、秦氏との関わり、興味が尽きない。中世以降は[福岡]の市が栄え、そこから黒田家や、宇喜多の一族も出てくる。宇喜多家のお家騒動の元となった、キリシタンの長船紀伊や明石掃部などとの関わりも何かあるのではと、推測している。
2010年10月2日土曜日
WBSで岡山の注目企業を!
今日のテレビ東京系列WBS(ワールドビジネサテライト)は、岡山後楽園から、ライブで中継、
岡山の注目企業の紹介があった。先日は、両備の小嶋社長が[カンブリア宮殿]に登場したが、岡山の企業が、この時期、注目を集めるのは我々にとってもうれしいこと、要は、全国にあるいは世界に通用するブランドをどう育てるか?岡山人の心意気がそこにあることを感じる!
医療先端県として、先端医療技術を育てる企業や、児島のジーンズ、B-1グランプリで上位に入ったB級グルメなど、今全国からも注目の企業が岡山にはある。
根本にある[人間力]
今回はテレビ瀬戸内の開局25周年ということもあるが、日本ビジネス界に注目のWBSに登場、しかも舞台が後楽園からというのに、うれしさを感じた。様々な局面で行き詰まりの日本だが、岡山から元気を発信できるよう、ますます、磨きをかけて行こう!
岡山の注目企業の紹介があった。先日は、両備の小嶋社長が[カンブリア宮殿]に登場したが、岡山の企業が、この時期、注目を集めるのは我々にとってもうれしいこと、要は、全国にあるいは世界に通用するブランドをどう育てるか?岡山人の心意気がそこにあることを感じる!
医療先端県として、先端医療技術を育てる企業や、児島のジーンズ、B-1グランプリで上位に入ったB級グルメなど、今全国からも注目の企業が岡山にはある。
根本にある[人間力]
今回はテレビ瀬戸内の開局25周年ということもあるが、日本ビジネス界に注目のWBSに登場、しかも舞台が後楽園からというのに、うれしさを感じた。様々な局面で行き詰まりの日本だが、岡山から元気を発信できるよう、ますます、磨きをかけて行こう!
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