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2011年9月18日日曜日

鷲羽山に


久しぶりに鷲羽山に行ってきました。
あいにくの曇天、少し蒸し暑い天気でしたが・・
ちらりほらり観光客がありましたが、さすが山頂までは誰も来ていません。
途中のビジターセンター、まだ開いていませんでしたが、掃除をしているご婦人がいて「おはようございます」と挨拶

先回来た時も、地域の方がボランティアでビジターセンターのお世話をしておられました。
新幹線開通や瀬戸大橋開通のころのブームはすっかり去って、観光客はずいぶん減ってしまいましたが、ここの魅力はなんと言っても最高の風景!そして手作りのあたたかさが加わった観光地になるのが一番いいのでは・・・
本当に来てよかったと思われる観光地に整備することが大切・・・
それにしても、下の駐車場から展望台までが遠く感じさせられる・・・第一展望台下のロータリーに駐車スペースの工事をしていたが、ここはどう使うのか?身障者と老人用か?利用者の少ないときは一般もOKにしてほしいが・・
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2011年9月17日土曜日

岡山人物銘々伝を語る会 山田方谷 黒田輝一氏

第3金曜日、岡山県立図書館
岡山人物銘々伝を語る会 第63回例会
会代表の黒田輝一さんが「山田方谷」について、ご自身詠まれた短歌を紹介しながら、その逸話を分かりやすく語ってくれた。
最後は詩吟の披露

山田方谷を大河ドラマに・・・しかし岡山県人は、盛り上がりに欠ける。
姫路は「黒田官兵衛」をと盛り上がっているらしい。

黒田さんの話の後、代表代行の久井さんの司会で懇談。
陽明学はいわゆる革命思想ではないし、「知行合一」の本当jの意味などを教わった。

この会は実に実のある会である。参加人数はそんなに多くは無いが、郷土の人物について掘り下げて探求することができる。


発言力を持たない人々

世の中には発言力を持たない人々が
忘れられて、社会の荒波から取り残されて
苦痛にあえいでいる。

いつに時代にも、そんな人々がいた。
そして今の時代も


2011年9月15日木曜日

驕る平家は久しからず


驕る平家は久しからず
『平家物語』の「驕れる人も久しからず」による表現で、栄えている者も、その力と地位を頼みに勝手なことをしているとすぐに滅んでしまうという意味だが、眼前の成功や勝利への戒めとして用いられることが多く、まさに「平家を滅ぼすは平家」。(コトバンク)
驕り高ぶる者の末路は・・・
いつの時代にも栄える者と、滅び廃れる者と・・・
一時の栄がいつまでも続くものではない。
盛者必衰 じょうじゃひっすい)
盛んなる者は必ず衰える。
即ち世の中が繁栄と衰退の繰り返しであることの意。
平家物語の冒頭にある「沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を顕す」が有名。

いずれも「平家物語」で有名なことば

TVを見ると成功者がもてはやされているが、むなしく思うこともある。
一方で貧困と、行くあての無い人々、経済的な破綻者、あふれる失業者・・・
忘れられた人々があえいでいる。

成功者とそうでない人々が乖離している。
そのあたりが 恐ろしい




2011年9月14日水曜日

奈良町と猿田彦神社 元興寺のまわり

元興寺のまわり、奈良町界隈を回って見る。
猿田彦神社があった。

猿田彦神社は秦氏ゆかりの神社である。
当ブログをごらんの方は「熊山遺跡」のある熊山にも「猿田彦神社」が祀られていたのを覚えておられるでしょうか?
熊山遺跡は和気氏が施主と秦氏が施工者・・・
サルタヒコは秦氏の「王」だ!・・・「猿田彦と秦氏の謎」(清川理一郎氏 彩流社)にはそう書かれている。

その猿田彦神社が元興寺の境内にあった。しかも買っては規模も大きく、崇敬を集めていたと由緒にもある。

蘇我氏と元興寺と秦氏 そのつながりを考えさせられる神社である。

没落する秦氏と侍の登場

平安朝造営に多大な貢献をした秦氏。
平安京はまさに秦氏の都と言ってもいいくらいに、秦氏の持つ宗教や技術が取り入れられ、さらに多くの秦氏が住んでいた。
しかし、そのような秦氏が、平安の中期を過ぎるようになるとだんだんと没落していくようになる。
職能の民であった秦氏であるが、やはり百済系といわれる藤原氏が全盛を迎えていったように、今来の渡来人である百済系の人々がその勢力を拡大し、秦氏の民の中には賎民化していくものが多くなってきた。
関東武士団は没落した渡来人たちであるとも言われる。製鉄や武器製造にかかわってきた渡来人たちが自ら武装集団化していったのが武士団の始まりであると言う。「侍」と言うのはもともと被差別民を呼ぶ言葉であった。
鎌倉の源氏の武士たちがなぜ鶴岡に八幡宮を勧請したのか?そしてその後武士たちの守護神は「八幡大菩薩」になった。八幡宮の総鎮守は九州豊国の宇佐八幡宮である。八幡宮は秦氏の祀った神である。その秦氏の神様をなぜ、関東武士たちが崇敬したのか?・・・・・・・

2011年9月13日火曜日

蘇我氏は悪者?奈良元興寺に行って

先日奈良に行ってきた。
日本最古の寺、元興寺  世界遺産に登録されている
もともと飛鳥にあった「飛鳥寺」を蘇我氏が移築したものだそうである。
ちょうど地蔵盆の供養の日で多くの参拝客が集まっていた。万灯供養があって参拝者はかわらけに供養の言葉を記して明かりを灯すのである。
夜には万灯の灯りとともに演奏会がある。そのリハーサルの筝の音が響いていた。

さて、すぐ近くに猿沢の池があり、その先は興福寺とのことで行ってみた。
猿沢の池の先、一段高い位置にあるのが「興福寺」奈良を代表する寺院で、多くの修学旅行生が訪れていた。
実はこの興福寺、藤原氏の寺である。
眼下の元興寺は蘇我氏の寺

元興寺はできた当初、広大な敷地を誇っていたそうであるが、いつの間にか無住となり、いつの間にか無住のものが住み着くようになり、「鬼の寺」というようになって行った。

思えば・・・
いわゆる大化の改新以来、時代は藤原の天下、蘇我氏は悪者にされて時代を経過していった。
蘇我氏の寺が寂れるのは当たり前のこと・・・

蘇我氏の名前と言えば、「蘇我入鹿」や「蘇我蝦夷」というように蔑視した名前で伝えられてきた。われわれもそのように教えられてきた。
果たして曽我氏はそのように悪者だったのであろうか?

元興寺:日本最古の寺を創建した蘇我氏
日本は仏教国といわれるがその仏教を日本に持ち込み定着したのが「蘇我氏」である。
聖徳太子も曽我氏の一族であった。
われわれは聖徳太子の王子、山背大兄が蘇我氏に滅ぼされたと学んだが・・本当だろうか?

聞くところによると、藤原氏(中臣氏)は百済からの渡来人が先祖と言う
蘇我氏は新羅系だとも言われる。
後発的に日本にやってきた百済系の渡来人中臣氏が先に来て基盤を作ってきた蘇我氏を打ち倒して政権を奪ったのが大化の改新とも言えるのでは。

元興寺の地域一帯は「奈良町」と言われて、古くからの奈良の町だそうである。
その後の住職の努力で復興してきている元興寺の姿を見ながら、蘇我氏って我々が学んで来たような悪者ではなくて、後発の渡来人集団によって滅ぼされ、あるいはその子孫は差別と蔑視を受けてきたのではとの思いが強くなる。
法隆寺も蘇我氏の怨みを封じるために建てた寺
祀られているのも「聖徳太子」ではなく「蘇我入鹿」ではないかとも聞いた。