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2013年2月19日火曜日

寂室元光 岡山人物銘々伝を語る会で語ります

寂室元光禅師
近江の永源寺の祖、寂室元光師は美作高田、現在の真庭市勝山の生まれである。
鎌倉末から室町にかけて活躍した名僧である。元の国にわたり、いわゆる念仏禅をもたらし広めた。元から帰国してから三備一作を遊歴し、その名声は天下に響いていた。
京の天竜寺や鎌倉の建長寺から招かれるもそれを断り、林下の禅行を旨とした。
近江にあるとき、佐々木氏(六角氏)に招かれ、禅庵を営む。それが今の永源寺の元である。
数千人の弟子が集まったと言われる。
生涯、栄達を求めず、林下の禅を好んだ。
残された揮毫や偈頌(ゲジュ)が有名で重要文化財に指定されています

岡山人物銘々伝を語る会で話します
3月15日(金)18時から岡山県立図書館で寂室元光禅師の話をする予定です

寂室師に関心を持った一つの理由 藤樹先生の教えに影響か?
岡山を代表する人物の一人が陽明学者の熊沢蕃山である。熊沢蕃山の師が中江藤樹であるが、藤樹が蕃山に教えた「心法」を見ると禅の影響があるのではと思った。
戦後日本の思想界を代表する陽明学者の安岡正篤氏が「禅と陽明学」と言うテーマで語っているが、やはり禅と陽明学には接点があるのだろうか?少なくとも共通する精神性があることは間違いが無い。

寂室師が教えを説いた永源寺は鈴鹿山脈を背後にした、琵琶湖の東岸、中江藤樹が塾を開いたのは琵琶湖の西岸と地域は違うが、寂室師が教えを説いた永源寺には1000人もの弟子が集まってきていたと言われることを考えると、広く近江を中心にその教えが広まっていたことは想像に難くない。
藤樹先生の孝養の精神も寂室氏の残した教えが地域に残されていたということはあるだろう。
直接の教えではないかもしれないが何かの縁があるような気がしてならない。

永源寺
永源寺は近江佐々木氏の六角氏頼が寂室師に帰依し、その所領を寄進して開かれた近江の名刹です。

浪本澤一元跡見女子大教授の書いた「林下の禅者 寂室元光」
寂室師についての本はいくつかあるが、その中でも最もその風を記しているのが、芭蕉の研究者として有名な勝山出身の浪本澤一元跡見女子大教授の書いた「林下の禅者 寂室元光」であろう。
浪本先生は芭蕉の「幻住庵記」の「幻住」の根源は寂室の参じた中峰の「幻住」に発している。と記している。

渡元し中峰明本師に学ぶ
寂室は元より来朝していた一山一寧(1247~1317)に迎えられたが、中峰明本(1263~1323)の禅道が内外に振るうを聞き、渡元し、西天目山に登り中峰に謁した。日本より渡海して中峰師に参じた僧は20人にも登るとされるが寂室はその最後の一人であったと推察される。
中峰は30年に渡って雲水の修行を積み、あるいは草庵に住し、あるいは船中に起臥し、「幻住」をもって標識とした。日本の臨済僧の間においては、幻住は中峰を表示する名として聞こえ、中峰を幻住老人として敬服していた。
寂室は中峰に謁したのち、南支(南中国)を遊行し在元7年をもって帰国した。

帰国後主に三備一作を中心に韜晦(とうまい)を続ける
韜晦(とうまい)とは才知・学問・地位などを内に包み隠して表に出さない意味の禅語である。およそ25年間である。現在の岡山県から広島県東部に渡って、その教えた禅風が深く残っている。小堀遠州の庭で有名な備中松山(現高梁市)の頼久寺も寂室の開基とつてられているのはこのあたりのことであろう。

天竜寺や建長寺の招きを断る

近江佐々木氏(六角氏)六角氏頼の招きにより現在の永源寺の地に庵を結ぶ。
そのころ集まった修道の徒が1000人と言われる。





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