岡山大学名誉教授で亡くなられた近藤義朗先生が発掘調査をされて、「弥生式墳丘墓」と名前を付けられた、前方後円墳の原型ではないかといわれる墳墓である。
近藤先生は前方後円墳の研究で有名で、その著書の中で「前方後円墳は吉備から始まったのではないか」という事を示唆されている。
この近藤先生の発掘調査で、ここから大量の朱(水銀)が出てきたそうである。
薬師寺慎一先生はこの近藤先生の調査の資料を基に、古墳時代を迎える前の弥生末期の時代に、吉備には「卑弥呼」か、卑弥呼と同等の力を持った女性首長が支配していたのではと推論している。
この後、造山古墳を訪ねた。
薬師寺慎一先生は、この造山古墳は「応神天皇」の陵ではないかと推論している。
それはこの古墳がその造られた時代においては、本邦第1位の大きさの古墳であり。応神天皇が吉備の兄姫を訪ねたとの記紀の記録からして、その可能性を示唆している。
記紀には応神天皇がどこの葬られたとの記録はなく。畿内にある、応神天皇陵もそれが確定されているわけではない。むしろ記紀にその記録がないことが、不思議で、それは吉備にその陵があるとはかけなかったからではないかと、薬師寺先生は推論している。
造山古墳上には荒神様が奉ってあり、そのわきに阿蘇の石でできた石棺がある。この石棺が何を意味するのか?
前方後円墳の成立には諸説あるが、成立の時代、北部九州から畿内に至る諸勢力の連合政権が成立して、その中心地が吉備ではなかったのか、そこで吉備から連合体の象徴的な墳墓として前方後円墳が成立したのではとの考えが通説になりつつあるようである。
神功皇后から応神天皇の時代に北部九州から吉備大和に至る連合体が出来て行ったとすれば、その時代に吉備がその中心地になっていて、巨大な墳墓、造山古墳が作られた意味も分かる。その後畿内、大和にその勢力の中心地が移動していったのであろう。
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