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2017年1月14日土曜日

吉備の歴史への取り組み

しばらく更新を怠っていました。
復活します。

岡山人物銘々伝を語る会
吉備歴史探訪会
岡山歴史研究会

主に吉備楽土(山田良三)の活動舞台です。

今年は岡山人物銘々伝を語る会で「児島高徳」を取り上げようと思っています。
現在資料を収拾と読み込みを始めています。

先日児島郷内の井上さん宅に伺い、様々な資料を見せていただきました。
郷内と言えば林の五流尊瀧院と熊野神社、児島山伏の本拠の地、児島高徳誕生の地とされています。五流尊瀧院には児島高徳誕生の地の碑があります。

ブログ主山田の誕生地は現在の倉敷市児島白尾、由加山蓮台寺の檀家に生まれました。由加山まで徒歩で30分くらいのところにあります。小さいことはよく由加山の神社やお寺に遊びに行ったものです。

1月の3日に初詣に由加山に行きましたがすごい参拝客で驚きました。我々の小さい事にはあんなにさびれていたのにと思います。

今は由加神社本宮と言います。宮司が同級生で中学校時代は一緒に通った間柄ですが、その宮司が金毘羅山との両参りの復活をと始めた由加山の火渡り大祭が昨年30周年を迎えたということで知り合いの宗教新聞の編集長と取材に同行して行きました。

この火渡りの大祭も以前何度か行ったことがありますが、ずいぶん参拝者が増えたものです。

昨年は大河ドラマ「真田丸」で、由加山の山上の多宝塔(県の重文、県内一の大きさを誇ります)
の脇に「真田幸村公頌徳碑」があることを紹介しました。
私の生まれ故郷の児島は繊維の街、今はジーンズの街として有名になっています。その繊維産業の起こりが、江戸時代栄えた讃岐の金毘羅山と備前児島の由加山の両参りの参拝客に真田紐を販売したのが始まりです。
児島は古来から綿花の栽培が盛んで、綿糸を製造していました。その綿糸を利用して真田紐を織って参拝者に販売したところこれが評判になり、地元児島の産業になったのです。
真田が九度山に蟄居中内職として始めた真田紐です。だれがどのようにして真田紐の製造技術を児島の人々に教えたのかはわかりませんが、真田紐あっての児島、真田家あっての真田紐ですから、昭和18年ちょうど戦時中ですが地元の繊維業者たちによって建てられたようです。
その由来はともかく「真田のおかげ」で現在の児島ありですので。やはり今でも真田家には感謝しないといけません。

何故児島に真田紐が?実は私の大学時代の先輩に村井さんという方があります。現在山口県の周南市で造り酒屋を営んでおられます。この村井先輩がやはり歴史が趣味でいろいろ地元の歴史クラブに参加して活動しておられるようです。この先輩がしばらく前に由加山に参拝したとの便りをくれました。それからこの先輩の自宅近くに真田の子孫がおられるとの情報でした。

吉備の児島~現在は児島半島となり本州と陸続きですが、かつて源平の合戦やそのしばらく後までは児島は「島」であって、瀬戸内海を航海する船も現在の児島の北側を航行していました。
今でもそうですが、児島は瀬戸内海航路のほぼ中央、瀬戸内海は干満の激しいところですから、東西を航行する船は海の満ち欠けに乗ってすなわち潮の流れに従って航海すれば丁度児島の当りにたどり着くわけです。潮目の代わるあいだ児島の港に船を停めて、そこから児島の名刹由加山に参拝した人たちも多かった模様です。由加山の瀬戸内海側の港が田の口港です。ここには四国は讃岐の金毘羅山からの参拝客や大阪からの商人や瀬戸内海各地の商人や船乗りが船を降り立ち由加山に向かいました。田の口の港には立派な鳥居が建っています。
江戸時代の名浮世絵師広重の画いた全国の名所絵図にも田の口港を描いた絵があります。(岡山県立図書館に5年前に実物が収蔵され、実物を見せてもらいに行きました。)
田の口から由加山までは約1時間の道のりです。当時としてはさほど遠い距離ではありません。
由加大権現は瀬戸内海を航海する商人や船乗りの崇敬を集め瀬戸内海沿岸を中心に全国に今でも52の末社があるそうです。私は九州宇佐八幡宮に参拝の折、そこにも由加神社がまつられているのをみて驚いたものです。
由加山には境内に多くの玉垣が残っていますが多くが大阪の商人の名が刻まれています。
由加神社の手水舎の脇の玉垣に有名な江戸の商人、塩原太助の奉納した玉垣があります。遥か江戸にまでその名の轟いていた由加山大権現だったのですね。

ちなみに金毘羅山にお参りした話の残る森の石松、彼はどうやら金毘羅山にはお参りしたものの由加大権現にはお参りしなかったようで、彼がその後不運だったのは両参りで由加山にお参りしなかったからでは・・・という話もあるようで~それは定かではありませんが、両参りが盛んだったころの話です。

吉備の児島は古代から瀬戸内海でも重要な島として、古事記日本書紀の国生み神話にも登場します。今でも瀬戸大橋で四国に通じる交通の要衝ですが、古代の瀬戸内海の航海をする人々にとっては何より重要な拠点の島であり。東西い通じ文化も醸成されていったものだと思います。
藤戸の瀬戸を隔てた陸側の吉備国も瀬戸内海航路の児島があればこそ栄えて行ったともいうことができます。

そんな児島が故郷の吉備楽土(山田)です。
その歴史の中で南朝の忠臣として太平記に記された武将「児島高徳」
関心を持たざるを得ません。
地元にいながらあまり多くのことを知らないのが児島高徳です。
それは児島高徳という武将が「太平記」にしか登場しないからだといわれています。明治のころには「不在論」も登場したようです。逆に「太平記」の著者である小島法師は児島高徳その人であるとも言われています。事実はどうなのでしょうか?

「太平記」は江戸の初期多くの大名家においても読まれ、「太平記読み」という職もあったといわれます。備前岡山の池田光政公も太平記を読み、政治の指南とされたそうです。

ちょっと興味がわいてきました。
これから関心をもって読んだり見たりしたことからブログ書いてみようと思っています。

以後よろしくお願いいたします。

2016年2月6日土曜日

東大寺大勧進重源と法然、栄西~備前備中

先史古代研究会(岡山)の機関誌「きび考」に掲載いただいた東大寺大勧進重源に関する記事を紹介します。


東大寺大勧進重源と法然、栄西~備前備中
山田良三

「重源」を取り上げようとした動機
東大寺大勧進の「重源」は備前備中とも深いかかわりのある人物である。重源は東大寺勧進職として備前及び備中に多くの足跡を残している。万富の東大寺瓦窯跡や湯迫温泉、野田荘の開発などが有名である。これは藤井駿先生が纏めておられる。
「備前國に於ける重源遺跡」(藤井 駿)資料参照
その重源について調べてみようという私の動機は重源その人というよりは、岡山に縁の宗教家であった法然と栄西に出会いはあったのか?という素朴な疑問からであった。
法然と栄西はほぼ同年代の日本を代表する宗派の開祖となっている。法然が栄西より9歳年上である。
 同じ年代に生き、しかも同じ比叡山に学んだ両者に何らかの出会いや交流があってもおかしくない。しかし、法然の伝記や栄西の伝記を読んでみてもこの両者が出会って交流したという記述には出会っていない。
 しかし、この両者とともに関係を持っていたという記録に残っているのが「重源」であった。そこで「法然と重源」「重源と栄西」この関係を知れば、「法然と栄西」の関係も見えてくるのではと思ったが、どうやらこの両者がともに深い関係~というほどのことは見いだせなかった。

重源とその時代的背景
 その代わりといってはなんであるが、この「重源」という人物に関する様々な文献にふれているうちに重源という人物の魅力と、この時代の背景が見えてきた。
 「重源」と言えば、平秀衡が南都制圧において大仏殿を灰燼に帰しせしめたものを、大勧進として再建を果たした人物として歴史に刻まれている。学校の教科書にも記載されている事実である。
 ちなみに現在の東大寺大仏は戦国の争乱で再び焼失したものを江戸時代も中期に近くになって再建されたもので、その規模は重源が再建したものの三分の二程度にしか過ぎない。重源の再建した大仏は全身が金箔でおおわれ、大仏殿の巨大さとともにその威容を誇っていたに違いない。それは当初、聖武天皇の時代に建設された最初の東大寺大仏よりも優れたものだった。
 時代は源平の合戦の時代である。平安の貴族社会から武家の時代へと変貌を遂げる時代でもある。この時代に「宗教」という分野を代表して深くかかわったのがこの3人である。
 源平盛衰記には「よのひとのことわざに、智慧第一法然坊、持律第一葉上坊(栄西)、支度第一春乗坊(重源)、慈悲第一阿証坊(印西)といわれけり」とあります。平安末期源平の争乱の続く激動の時代にともに生きた代表的宗教家であった。

 
法然の伝記には「重源は法然の弟子であった」とか「東大寺勧進職は当初法然に依頼されたが法然が重源を推薦した。」いう記述がある。
 一方栄西の伝記の中には、「栄西は宋で重源と出会い共に帰国した。」「重源が栄西を東大寺勧進職の後任に推薦した。」というような記述が出てくる。
その関係性の事実関係には疑問も残る点があるが、法然と重源、重源と栄西、それぞれかなり深い関係があったことは確かのようである。

重源入宋は無かったのか
 さて、今回「重源」について調べるうちに意外な事実というか、論説に出会った。
重源に関する様々な出版物の中でも代表的な本が、昭和30年に東大寺が、重源上人の750回忌を記念して出版された「重源上人の研究」という本である。(参考資料)
その中の「重源入宋伝私見」 山本栄吾(京都大学建築学教室)で、山本氏は重源の入宋を否定する見解を述べている。
栄西伝には、栄西の最初の入宋に際して宋国において二人が出会い、共に帰国したとなっている。その根拠は法然の庇護者として知られる九条兼実の日記に重源と会って話をした記録があり、その中で重源が自らを「入宋僧」(宋に渡って修行してきた僧。当時は入宋が一つのステータスであったらしい。)と紹介したとある。また、高野山に残る鐘に「入宋僧重源」との銘が残っていることを根拠にしているが、これらはあくまで重源がある限定された場所で語ったことであり、実際に重源が入宋したという確実な資料や本人自身の記述した記録も残っていない。九条兼実に話した話も重源の法螺話であったのであろうというのである。栄西伝の根拠は鎌倉時代に書かれた仏教史書「元亨釈書」が根拠ともされるが、元亨釈書自体が風説を纏めたような内容であるので根拠に乏しいというわけである。
この山本栄吾氏の説にはかなりの説得力がある。ある研究者が山本氏の説に反論しようとしたが「とても君の説では山本氏の説に反論はできない。」と窘められたという。

重源とはどういう人物だったのか
重源上人の人となりを生き生きと描写しているのが、高橋直樹著「悪党重源 中世を作った男」である。この中で描かれる重源は宋の一切経(仏教経典の全集のようなもの、当時の日本の寺院ではこれを備えることがステータスだった。)の宋国で入手して帰国する僧として描かれている。これは直接国交は無かったものの宋に渡ることや宋の文物が宮廷や寺院のステータスになっていたことを言っていることと思われる。重源は自ら自身が入宋して一切経を招来したと言っているが、これは東大寺の勧進としての拍をつけるための法螺だったとしても不思議ではない。

重源という人物は実にユニークである。東大寺の勧進として東大寺の再建を任されて最初にやったのは「宣伝」である。一輪車を作って各地に東大寺の勧進を勧めて回った。まずは東大寺の勧進を広く知らしめることから始めた。
そののち世界最大の木造建築物として建築史に残る大建築事業を進めるにおいて最も肝心なことは資金調達と建築技術であった。
重源は勧進活動(資金調達)を実現するためにありとあらゆる手法を用いた。今の価値観からすればそんなことまでしてというような手法も数多く用いている。
当時の政界、財界、宗教界、一般民衆まで巻き込んで東大寺再建という大事業を進めた。
源平盛衰記には「仕度第一俊乗坊(重源)」とあるが、まさにその姿は僧形をした、一大事業家の姿で、高橋直樹氏が「悪党」と表現しているように、表の顔もあれば裏の顔もある、その目的を果たすためにはあらゆる手法を取る。実に破天荒な人物であったと見る。
まさに当時は政治の世界でもその他あらゆる権威が大きく変換の時代であった。
これまで国家の権力を掌握してきた公家から平家~源氏と武家社会に変貌を遂げて行く。宗教的には南都(奈良)や比叡山・高野山の宗教的権威が薄れて、法然による浄土門や栄西がもたらした禅宗が交流していく。重源がすごいのはこのいずれとも関係を持ち東大寺再建という大事業に協力を取り付けて行くことである。
九条兼実を動かし朝廷や公家の協力を取り付けるかと思うと鎌倉の源頼朝の協力も得て、大佛の開眼供養には頼朝自ら参加を取り付けている。重源は大仏と大仏殿ほかの再建のために周防と備前の国司となりこの両国から上がる税収や産物を利用するのみならず、備前の湯迫や阿弥陀堂に見られるごとく一般民衆動員も抜かりが無かった。
宗教的には南都や比叡山・高野山の協力さらには伊勢神宮にも参拝して神社界の協力も取り付ける。一般民衆に広く人気を博していた法然や西行もうまく取り込んで行く。

奇行も目立つ。大仏開眼供養のあと源頼朝が重源と会おうとするが姿が見えない。突然出奔してしまった事件がある。気づいたら高野山別所に行っていた。現代でも国家的大事業の総責任者が突然姿をくらましたらそれこそ大事件であろう。

実に破天荒とも言える重源~ドラマの題材としても実に面白いのではないか!ぜひ重源を軸にしてこの時代を描くドラマが見てみたい。大河ドラマにしてもいいともうのだがNHKさんいかがでしょう。

2016年2月1日月曜日

岡山人物銘々伝を語る会2月例会 「伝統と革新の作庭家重森三玲」

岡山人物銘々伝を語る会2月例会をご案内します。参加希望は事務局(山田)まで



「岡山人物銘々伝を語る会」2月例会のお知らせ                        
       世話人代行  久井 勲
 1月の第112回例会は、115日、近藤泰宏さんに「岡山の石門心学とその後」と題して語っていただきました。プライベートなことですが、時々行楽で京都へいったときに、錦小路市場で買い物をし、次にイノダコーヒー店にうかがいます。コーヒー屋の近所に、「石門心学講舎跡」という石碑が立っています。石碑だけですが、ウナギの寝床のような町屋の中で、石田梅岩が己が理念に基づいて講釈をしている姿を想像すると、なるほど、これが確実な無形の教育インフラとなって明治以降の教育を飛躍的に有効ならしめた源流だと実感してきます。近藤さんの紹介にあるように、岡山での講舎の数も多くにのぼっています。話は広がって----近藤さんの話はこれが面白い----津山では藩主をも巻き込んで教育熱があがり、しかもそれが修養論からさらに上に立つ人の経済政策論にまで発展し、それが津山洋学の心に結びついて行ったのでしょう。なるほど日本人が明治以降、西洋流の合理主義にすんなり馴染めたのも、心学に発する系譜ゆえかと感じました。情報中心になり過ぎた現代からみれば、教育のあるべき姿のヒントがあるように思われました。
      記
平成28年2月 第114回例会は次のとおり
日時:19日(金)18002000      
会場:ゆうあいセンター(きらめきプラザ 旧国立病院の2Fです) 
  今月は県立図書館休館のため会場が変わります。ご注意ください。 
テーマ:伝統と革新の作庭家 重森三玲
講師:大濱文男氏 
 
 重森三玲  賀陽町吉川(現・加賀郡吉備中央町吉川)の生まれ。日本美術学校で日本画を学び、いけばなと茶道を習う。日本美術学校卒業後は東洋大学文学部に学ぶ。大正6年(1917年)画家を志し上京昭和4年(1929年)京都へ移住いけばなの革新を世に提唱した。 その後日本庭園を独学で学ぶ。全国の庭園を実測調査し、古庭園の調査などにより、庭園研究家日本庭園史のさきがけとな。『日本庭園史図鑑』26巻、息子の重森完途と共に『日本庭園史大系』全33巻(別巻2巻)を完成庭園史研究多大な功績を残した。作庭家としての三玲、力強い石組みとモダンな苔の地割りで構成される枯山水庭園が特徴的であるとされ、代表作に、東福寺方丈庭園、光明院庭園、瑞峯院庭園、松尾大社庭園などがある。
京都の重森三玲旧宅(旧鈴鹿家住宅)は、吉田神社の社家として名高い鈴鹿家の邸宅であったものを、昭和18年(1943)に三玲が譲り受けたもので現在重森三玲庭園美術館となっているまた出身地の吉備中央町の吉川には重森三玲記念館があり重森三玲に関する様々な資料を展示している。(休館日土曜日 入館無料)

大濱氏も重森三玲に関する貴重資料を準備して、重森の人となりや庭園研究家、作庭家としての歩み、華道や画家としての歩みなども紹介していただきます。当日は重森三玲の弟子で最後を看取った岩本俊男氏(岡山市在住    )にも來会いただく予定です。多数ご参加ください。

近現代史を学びなおす必要のある日本

最近関心を持っているのが「近現代史」
「従軍慰安婦」「や「南京大虐殺」など、一方的に日本を悪者扱いする近隣諸国の歴史観にはうんざりする。
日本の近現代史の最大テーマはやはり第二次大戦での敗北である。その結果「歴史観」はかなり歪められた。それまで、過去の日本歴史は否定され、日本を侵略国家と断定した歴史観がこれまで日本を支配してきた。
本当の意味で正しい歴史観とは何なのか?ここではっきりさせないと今後の日本の未来に禍根を残す。
私は日本の役割は極めて重要かつ重大だと思っている。世界の未来に重要な役割を担っていると思う。しかし、日本の国論自体が確立しているとは言えない。

日本政府としては先の安倍総理による戦後70年の談話があるが、これにはさまざまな評価がある。戦後70年の一定の区切りをつけた談話であるとの評価もあるが、今だ整理されていない課題を残しているとも言える。

これは日本人の良識と見識で正しい歴史観を見出さなければならない課題があるということだろう。

今勉強中だが問題やテーマを整理して行きながら記事を書いていこうと思う。


2015年6月8日月曜日

宇垣一成

宇垣一成(うがきかずしげ)
岡山市旧瀬戸町の大内出身のもと軍人政治家の宇垣一成
組閣の命を受けながら陸軍首脳の反対を受けて組閣を断念した宇垣一成について岡山人物銘々伝を語る会で取り上げる予定を計画しています。
戦後は国会議員を目指して立候補しようとしましたが、公職追放にかかり最初の選挙は断念せざるを得ませんでした。しかし続く参議院選挙では全国区で得票率トップで当選しました。
宇垣一成が掲げた軍縮の意図するところはなんであったのか?何故陸軍首脳は反対したのか?組閣断念に至るまでの経過はどのようなものだったのか?宇垣内閣が不成立に終わったその結果の日本の動向をどのように判断するのか?日本の近現代史の中でも歴史的に重要な位置に立っていた宇垣一成という人物だったと思います。
10月ころの例会での発表に向けて講師の依頼など手配中です。
語る会の会員の間でも関心の深いテーマです。
多少なりとも予備知識をもっていきたいと思っているところです。

宇垣一成の生家は旧国道2号線の岡山から行くと備前大橋の手前を旭川の西岸沿いを熊山方面に行く途中にある大内というところにあります。かつては生家は資料館として公開されていましたが今は公開されていません。(外から見ることは可だそうです。)

地元でも顕彰の動きがあるようですが、旧瀬戸町が岡山市に合併になり、旧瀬戸町で文化財保護で担当していた方も移動になり、その活動も弱くなってしまっていると聞きました。

岡山人物銘々伝を語る会でも埋もれていく郷土の偉人の顕彰や、その記録の保存などにわずかでも協力していければいいなと思っています。

岡山人物銘々伝を語る会 事務局 山田良三

2015年6月4日木曜日

「方谷の高弟三島中洲の思想とその影響-渋沢栄一等」~岡山人物銘々伝を語る会6月例会

岡山人物銘々伝を語る会の例会案内ができました



「岡山人物銘々伝を語る会」第106回例会(6)のお知らせ
                       
                              世話人代行  久井 勲
 
5月の第105回例会は、杉嘉夫さんに池田光政 熊沢蕃山三千石登用の謎について語って
いただきました。熊沢蕃山を語るに、人物考察上の学術意見はもとより、史料(学者番付表)
歌舞伎演目(「あさがお日記」)、赤穂藩をめぐる動静、と多面的な分野のアプローチで語っ
ていただきました。歴史を語る時には、特に政治的な人物は、政治の世界の材料だけで語られ
がちですが、熊沢蕃山の場合は、幸いいろいろな領域での事績やエピソードが残っています。杉さんは、それらを一つひとつ細かく拾ってくれました。光政の時代、江戸時代の初期において、これほどの材料がそろう歴史人物は珍しいのではないでしょうか。江戸期には実学の概念が整理されてきて、それは結局、“人の道の助け”になるだけにとどまらず、さらには江戸期四名君(保科正之、徳川光圀、上杉鷹山、池田光政)の事績に見られるように、人の“経済生活”の助け“にまで連なっていくようにも思えます。蕃山はその嚆矢たる意義を果たしたのではないかと私は考えます。
 毎度ながら、杉さんにおかれては、見やすくて簡潔なスライドでご説明をいただきありがとうございました。

以下の予定で6月例会を開催いたします。ご参加お待ちしています。参加お申し込みください。
参加希望の方はこちらにメールください
                   
 

岡山人物銘々伝を語る会1066月例会 
 
日時:619日(金)18002000     会場:県立図書館サークル活動室2 
 テーマ:方谷高弟三島中洲の思想とその影響-渋沢栄一等」
講師:  方谷研究会理事 高橋義雄氏
 参加費:500円 
 
山田方谷先生の弟子として、二松学舎の創設者としても知られる三島中洲は様々な形で日本の精神や文化に多大な影響を残した人物です。今回三島中洲と交友のあった人物との関係、その中でも代表的な人物の一人が日本の産業文化に多大な功績を残した渋沢栄一です。そのほか三島中洲の及ぼした影響と影響を受けた人物について方谷研究会理事高椅義雄氏から話をお聞きします。

当日講演の要旨
『山田方谷の高弟三島中洲の思想と影響-渋沢栄一等』
      方谷研究会理事 高橋義雄
概略:窪屋郡中島村(現倉敷市中島)出身の漢学者三島中洲は、山田方谷の第一の高弟で、幕末に方谷の片腕として、備中松山藩の藩政改革に活躍した。
 明治5年に新政府の命により上京、裁判官に就任、後に大審院判事として民法編纂に参加した。明治10年、漢学塾二松学舎を創設、生徒に嘉納治五郎、夏目漱石、犬養毅等がいた。東京講師、東大等で漢学を講じ、漢学の泰斗として、重野成斎、川田甕江とともに三大文宗と称せられた。明治11年、高梁に第八十六国立銀行を板倉勝静等を株主として設立した。その後、川田甕江の後、大正天皇の侍講となり、漢詩を指導、大正天皇は歴代天皇で最多の漢詩を作詩した。三島は方谷の思想(「知行合一」)を発展させて、「義理合一論」)を唱えた。
 埼玉県出身の渋沢栄一は親交のある三島の思想に感銘して「道徳経済合一説」を唱えるとともに『論語と算盤』を著し、経営に儒教理念を採用した。企業経営から得た利益を教育、福祉、国際、社会活動に投入した。
 長岡出身の外山脩造は河井継之助の学僕であった。江戸末期に三島から昌平黌で漢文を学び、維新後に銀行局職員となり、明治10年に三島の国立銀行設立申請を指導した。後に大阪の大手の銀行再建に活躍し、日銀初代の大阪支店長に就任。退任洋行して帰国。銀行、大阪麦酒、商業興信所、阪神電気鉄道会社を設立し、関西経済界を指導した。三島の思想(「義は利に優先」)は渋沢を通じて広く経済界に影響を与えた。阪神球団は阪神鉄道の子会社。
高梁出身の団藤重光(東大名誉教授、宮内庁参与、文化勲章受章者)は陽明学(熊沢蕃山に私淑)を信奉して、我が国の刑法学を確立した。
その他、大原孝四郎(倉紡設立)、大原孫三郎(大原美術館設立)、守分十(中国銀行第3代頭取)、 川崎祐宣(川崎病院、川崎医科大学設立)等が儒学の影響を受けていた。




今後の予定
月日 テーマ 講師 会場 備考
6
19
三島中州とその影響ー渋沢栄一 高橋義雄 県立図書館
サークル活動室2


7
17
小堀遠州 福田明正 県立図書館
サークル活動室2


8
21
坂崎出羽守(浮田詮家)は伊賀忍者か 坪井章



9月








10 宇垣一成 岡本芳明






岡山人物銘々伝を語る会事務局
山田良三 メールはこちら

2015年5月12日火曜日

岡山人物銘々伝を語る会平成27年5月例会

岡山人物銘々伝を語る会5月例会が開かれます
日時:平成27年5月15日(金)18:00~20:00
ところ:岡山県立図書館サークル活動室(県立図書館2F)
テーマ:池田光政 蕃山三千石登用の謎
講師:杉嘉夫
参加費:500円

江戸時代最も注目された反骨の儒学者が熊沢蕃山です。
池田光政に重用され備前岡山藩の藩政に寄与しますが、晩年は幕府から危険視されて岡山を離れ隠棲生活を余儀なくされました。しかし彼の説いた教え(中江藤樹の影響を受け王陽明の教えを受け入れる)は幕末の変革の思想的原動力になります。山田方谷先生もその一人でした。
それらは、池田光政が蕃山を登用したことに始まります。池田光政は何故蕃山を三千石の高禄をもって登用したのか?興味深いテーマです。

お問い合わせは:岡山人物銘々伝を語る会事務局 山田まで(090-1033-3327)
メールはokayamajinbutsu@gmail.comまで