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2014年5月21日水曜日

「池田忠雄と石」岡山人物銘々伝を語る会~杉嘉夫さんが講座

5月16日、岡山県立図書館で、岡山人物銘々伝を語る会の例会でした。
杉嘉夫さんの話、面白かったです。
備前岡山藩藩祖は池田光政になっていますが、その前、鳥取池田家とのお国替えの前が池田忠雄(ただかつ)です。池田忠雄は母親が徳川家康の次女督姫(本名富子)です。督姫は元は北条氏の五代氏直に嫁いだが北条氏が滅ぶことで生家に戻っていたところ三河吉田城主池田輝政に嫁いだ、30歳の時である。池田輝政は関ヶ原の戦いの戦功から播州姫路52万石の城主となり、先妻の子利隆が世継ぎとなった。その後岡山藩主小早川秀秋の死亡により督姫の子次男忠継が岡山城主に、三男忠雄が淡路由良藩城主になる。(伝説の毒饅頭事件で)忠継、利隆が相次いで死亡、忠雄が岡山城主になった。
その池田忠雄が担当大名として築いたのが大阪城の桜門の蛸石ほかの巨石である。
なんと大阪城巨石十傑のうち7つまでが池田忠雄の担当した石垣石だった。・・他に京橋門の肥後石、桜門の振袖石など~。
岡山城にも巨石の石垣を作っています。岡山での忠雄の業績としては御野郡南部の大規模干拓や西川の開削などがあります。
さて、忠雄の嫡子勝五郎(光仲)の誕生の祝宴の行われていた夜、臣下の渡辺数馬のの弟源大夫が河合又五郎に切り殺され、又五郎は江戸に逃れて旗本安藤治左衛門を頼って行った。引渡しを求めるが治左衛門は旗本の応援を得て引き渡さず、伊達家の応援を得た忠雄と対立、大久保彦左衛門が調停に入るが治まらず、旗本と外様大名の対立の様相となった。
さて、忠雄は31歳の若さで亡くなって、その遺言が「死後の読経はやめて河合又五郎の首を墓前に供えよ」というものだった。そうして池田家の墓所龍峰寺に作られた墓がまた巨大な石の墓、その後の鳥取の池田家とのお国替え後も墓の移設はせず鳥取池田家から多くの鳥取池田家から墓守に来ていたそうです。
そして今回の話の最後は忠雄の遺言による仇討。渡辺数馬は光仲の鳥取移封について鳥取にには行かず、大和郡山藩に仕えていた姉婿の荒木又右衛門の加勢を得て仇討の旅に登った。訪ねて2年目、伊賀上野の鍵屋の辻で待ち伏せした数馬と又右衛門はついに又五郎を捉え仇討を果たします。
歌舞伎や講談、浪曲にも取り上げられた仇討話、最後は歌舞伎好きでもある杉さんの真骨頂の話でした。
とかく岡山藩というと名君池田光政やその後の治世のことが取り上げられるが、鳥取と岡山の池田家の移封前の池田家の出来事にとても興味を持たされました。楽しく面白い時間でした。杉さんありがとうございました。
杉さんは自衛隊退官後、後楽園や岡山城のボランティアガイドとしてご活躍中です。これまで池田光政の東部籠城作戦や、池田綱政と後楽園など池田家に因む話題の講座を開いてくれました。また次回に期待したいです。(山田)


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