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2023年2月3日金曜日

神仏分離はなぜ引き起こされたのか?~ともに尊崇し、ともに神仏の心を取り戻す世の中に!

ずっと岡山の宗教家や宗教の歴史を訪ねてみて、気になってきたのは明治新政府による神仏分離政策。それまで続いてきた神仏習合の宗教が無理やり分離させられた。児島の新熊野、熊野権現の修験道は停止に追い込まれた。神仏習合が本格化したのは東大寺勧進に際して八幡神(宇佐八幡)が助けたことに始まる。以来、神と仏は互いに尊崇しあう関係を保ってこれが明治になるまで日本の宗教の根幹となってきた。それが突然のように出されてきた「神仏分離令(神仏判然令)であった。合わせて薩摩をはじめ廃仏毀釈が進んだ。札までは徹底的に廃仏毀釈が進み島津家の菩提寺をはじめ徹底的に寺院が破却された。全国各地でも廃仏が進み、身近なところでは讃岐の金毘羅大権現は仏像や仏塔が破却された。その仏像が岡山の西大寺観音院にもたらされ祀られています。いまだ阿仁全国各地にその傷跡が良いく残っています。  子の神仏分離、廃仏毀釈、さらに進んでいた神道国教化政策がなぜかくも甚だしくすすめられたのか?これが今の私の最大の疑問です。 様々な理由が言われてきています。当時の薩摩の経済事情が大きかったとか、平田篤胤などの国学の影響であるとか、薩摩にあった仏教や修験道への敵愾心が問題だっととか、当時のヨーロッパの特にプロイセンンのルター派キリスト教による国教化政策を真似たのではとか様々な理由がいわれているますが、果たして何が真実なのかと思います。それとももっと他に理由があったのか?   この時進められた神道国教化政策に反対して阻止したのが、備前国児島郡山坂村(現在の岡山県玉野市)出身の京都 相国寺の住持だった荻野独園師でした。独園師は、臨済宗相国寺の住持でしたが、新政府の廃仏と神道国教化政策に反対して増上寺に設置された大教院の大教正として臨済,曹洞、黄檗の総管長を勤め神道国教化を阻止した。その後は京都の相国寺に帰り相国寺の再建とともに鹿児島の廃仏毀釈にあった仏教寺院於復興に努めた。また、信教の自由の立場から、相国寺の寺領だった旧薩摩藩邸の土地にキリスト教の(新島襄の同志社)学校用地になることを認めている。伊千広や山岡鉄舟らが師のもとに参禅している。  神道国教化は阻止されたものの、実質的に神仏分離は進み、特に皇室の祭祀は完全に神道化されて今に至ってる。修験道は児島五流が天台宗の一流派として存続してきているが、法人としては神社とは分離されて今に至っている。その他各地に色濃く神仏分離の爪痕が残っているのが今の日本の宗教界の実情である。  私は、宗教史に関心を持って」様々な執筆や講演を重ねてきたが、今の日本於様々な精神的な荒廃を考えるときに、子の神仏分離政策の悪影響が今に続いていいると思うようになっている。神と仏がお互いに尊崇しあって支えてきた日本の国のあっり方を再び取り戻すことが、日本於国の良き伝統を取り戻す最も重要な課題ではないかと考えうようになっている。今は神道と仏教だけではなく、儒教やキリスト教、その他様々な倫理道徳運動なども含めて、宗教的あるいは倫理道徳、精神復興的運動がそれぞれの長所を生かしながら普遍的価値によって一致化しながら、国民精神の向上に努めていくべき時だと強く思わされている。   平和で、すべての人々がもれなく幸福に生き、喜びをもって生きることのできる社会の実現を共通の課題としてすべての人々が家族のような紐帯の心で思いやりや愛情豊かな生き方ができるように導くのがあまねく宗教や様々な道徳倫理運動の目的であるとして努めてくことではなかろうか!間違っても醜い教派争いや他宗批判などは止めなければいけない。宗教心をも他に人々にも温かい思いやりや奉仕が必要だと思います。無神論、唯物論的な人に愛することや普遍的な心の大切さを教えて行くことも大切だと思います。

2023年2月2日木曜日

承久の乱から家康の浄土まで 「厭離穢土 欣求浄土」源信~法然~一遍~徳川に引き継がれた浄土の教え

承久の乱から家康の浄土まで 平安~鎌倉 日本の宗教史を変えた備作の人物Ⅰ・Ⅱ 参照  承久の乱から南北朝の時代を経て家康による天下平定まで長い騒乱の時代が続きます。 岡山人物銘々伝を語る会 令和5年1月20日 ゆうあいセンター 山田良三 承久の乱から家康の浄土まで 栄西禅師と鎌倉殿   頼朝一周忌の導師(1200 正治2) 鎌倉に寿福寺、京に建仁寺を建立(1203 建仁3) 重源没 東大寺勧進職に栄西が就く 鎌倉殿(将軍実朝)と後鳥羽上皇 「鎌倉殿の13人」 将軍実朝と後鳥羽上皇の交流  鎌倉殿(将軍実朝)の後継に 後鳥羽上皇の第4皇子頼仁親王が候補にあがる  尼御台北条政子が京に赴き後継を決めてくる ~公暁による実朝の殺害  建保7年1月27日 鶴岡八幡宮で将軍実朝は義理の甥、鶴岡八幡宮の別当であった公暁に暗殺された  (実朝の首は 不明とも)  承久の変 承久の乱(じょうきゅうのらん)は、1221年(承久3年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱。日本初の武家政権という新興勢力を倒し、古代より続く朝廷の復権を目的とした争いである。承久の変、承久合戦ともいう。 <参考>承久の変で後鳥羽上皇の宮方で戦った代表的人物 山田重忠  治承・寿永の乱では父・重満が墨俣川の戦いで源行家の軍勢に加わり討死したが、重忠はその後の木曾義仲入京に際して上洛し、一族の高田重家や葦敷重隆らと共に京中守護の任に就くなどした。義仲の滅亡後、源頼朝が鎌倉幕府を創設すると尾張国山田荘(名古屋市北西部、瀬戸市、長久手市の一帯)の地頭に任じられ御家人に列する。しかし山田氏の一門は伝統的に朝廷との繋がりが深く、重忠は鎌倉期以降も京で後鳥羽上皇に近侍し、建保元年(1213年)には上皇の法勝寺供養に供奉するなどしている。  承久3年(1221年)5月、後鳥羽上皇が討幕の挙兵をすると重忠は水野高康(水野左近将監)ら一族とともにこれに参じた。同年6月、京方は幕府軍を美濃と尾張の国境の尾張川で迎え撃つことになり、重忠は墨俣に陣を置いた。京方の大将の河内判官藤原秀澄(京方の首謀者・藤原秀康の弟)は少ない兵力を分散する愚策をとっており、重忠は兵力を集中して機制を制して尾張国府を襲い、幕府軍を打ち破って鎌倉まで押し寄せる積極策を進言するが、臆病な秀澄はこれを取り上げなかった。 京方の美濃の防御線は幕府軍によってたちまち打ち破られ、早々に退却を始めた。重忠はこのまま退却しては武士の名折れと、300余騎で杭瀬川に陣をしき待ちかまえた。武蔵国児玉党3000余騎が押し寄せ重忠はさんざんに戦い、児玉党100余騎を討ち取る。重忠の奮戦があったものの京方は総崩れとなり、重忠も京へ退却した。京方は宇治川を頼りに京都の防衛を図り、重忠は比叡山の山法師と勢多に陣を置き、橋げたを落として楯を並べて幕府軍を迎え撃った。重忠と山法師は奮戦して熊谷直国(熊谷直実の孫)を討ち取るが、幕府軍の大軍には敵わず京方の防御陣は突破された。幕府軍が都へ乱入する中で、重忠は藤原秀康、三浦胤義らと最後の一戦をすべく御所へ駆けつけるが、御所の門は固く閉じられ、上皇は彼らを文字どおり門前払いした。重忠は「大臆病の主上に騙られて、無駄死ぞ!」と門を叩いて悲憤した。 重忠は藤原秀康、三浦胤義ら京方武士の残党と東寺に立て籠もり、これに幕府軍の大軍が押し寄せた。重忠は敵15騎を討ち取る奮戦をしたが手勢のほとんどが討ち取られ、嵯峨般若寺山に落ちのび、ここで自害した。重忠の自害後、嫡子重継も幕府軍に捕らえられ殺害、孫の兼継は越後に流され後に出家、僧侶として余生を送った。山田氏は兼継の弟・重親とその子の泰親の系統が継承していった。 長母寺(名古屋市北区山田)の住持を務めた無住国師の『沙石集』は重忠を「弓箭の道に優れ、心猛く、器量の勝った者である。心優しく、民の煩いを知り、優れた人物であった」と称賛している。また、信仰心の篤い人物であったと云われ領内に複数の寺院を建立したことでも知られている。(Wikipwdiaより) 承久の変で児島に遷された頼仁親王  承久の変で児島に遷されたのが後鳥羽上皇の第四皇子頼仁親王でした 頼仁親王が遷された児島新熊野 (岡山宗教散歩 熊野神社と修験道  山田良三  宗教新聞令和2年1月号) 法然と熊野神社    このシリーズ(岡山宗教散歩)の最初に法然を取り上げました。その時に引用させてもらった、元中外日報記者山田繁夫氏の「法然と秦氏」の中に、熊野神社に関する記述があります。  浄土宗史の研究家として知られる三田全信氏の「浄土周史の諸研究」の中に「平安中期の熊野に関する勘文を集めた『長寛勘文』の『熊野権現垂迹縁起』には熊野権現の成立に渡来人の関りを暗示していて、そのことの故か(法然上人の)『行状絵図』には法然の熊野信仰に係る話が散見される。」との著があります。その中で、いくつかの法然と熊野神社との関りを取り上げています。  行状絵図20巻には作仏房と言う修験者が熊野証誠権現の神託によって法然のもとに参じて一向専修の行者になったことが記され、「行状絵図」37巻には、法然臨終の様子の中に西山(京の西側の山々)の木こりが駆け付けたことが記されています。この木こりについて三田氏は「西山の炭焼き業者は、熊野の秦氏と同系人で、林産業に従事していた人々であろう」と著しています。  さらに三田氏は(法然の生家)漆間家が仁平元年(1151)に所領の美作国稲岡南荘を熊野坐神社(くまのにますじんじゃ)に奉納した事実を紹介しています。仁平元年というと、「醍醐本」の法然伝の記述によれば、法然の父漆間時国殺害の報を聞き、黒谷に隠遁の志を持った十八歳の年の翌年です。三田氏は「漆間時国の死後、衰微していった漆間家が海運安全に力ある熊野坐神社に所領の一部を寄進したのであろう」と著しています。熊野神社の社領の文献「熊野年代記」に漆間家による所領の寄進の事実があるそうです。  また三田氏は「南北朝期から室町朝期に活躍した浄土宗の学僧聖聡が著した『大原談義聞書抄見聞』の中で引用された『称揚集』という書の中で、法然三十八歳の嘉応二年(1176)に熊野本宮の別当湛増法橋が法然を招請したとの一文が残っていることから、当時は秦氏としての同族意識や、帰属意識が残っていたからであろうと著しています。 熊野詣と行幸山伏     熊野と言うと熊野詣が有名です。現在では熊野古道が人気となり多くの内外の観光客が熊野を訪れています。この熊野詣ですが、平安中期から鎌倉にかけてのころ、実に多くの歴代上皇の御幸が行われていました。最も多く御幸されたのが、源平合戦の時代に生きた後白河上皇です。後白河上皇は実に34回も熊野に行幸されています。その次に多いのが後鳥羽上皇で、その御幸回数は28回に及びます。法然上人伝では、後鳥羽上皇の熊野御幸中、都に残った女御が法然の弟子によって出家したとして、その弟子たちが断罪され、さらに師の法然の讃岐配流やその弟子親鸞の越後配流がなされました。  この頃、上皇の熊野御幸の先達を務めたのが、児島の新熊野(いまくまの)の五流山伏達でした。 五流山伏とは、文武天皇の三年、修験道、山伏の祖とされる役行者が冤罪により伊豆の大島に流された時、義学他5人の高弟たちが熊野権現に難が及ぶことを恐れて、長床坐衆五流八家十 家三十五院三百余人の門人たちとともに熊野権現のご神体霊宝を船に奉じて各地を彷徨い、最後に児島の柘榴浜(現倉敷市児島下の町)に到着、福南山の麓を経て現在熊野神社と五流尊流院のある福岡村林(現倉敷市林)に到着、熊野三山に擬し新熊野三山を造営したのが修験の根本道場五流の始まりです。五流尊流院の由緒沿革などにはその経緯が記されています。  その後役行者が勅許により赦免され、義学なども紀州に帰り全国に散在している役行者の門弟の熊野大峯に参拝入峯するものを監督統理しました。天平20年になると聖武天皇より全児島(現児島半島一帯)が新熊野の神領として寄進されました。孝謙天皇の世には本殿、長床他の諸堂や鳥居が建造され「日本第一大霊験処」などの額が掲げられました。次いで木見(現倉敷市木見)には新宮諸興寺、瑜伽(現倉敷市児島由加)には瑜伽寺が創建され、合わせて新熊野三山とされたのです。このようにして義学など高弟五人の法統を継承した五流は役行者の験道を継承し行法秘儀を受け継いだ五流長床結衆として、そのもとには八家十二家の公卿山伏衆徒三十五寺の寺院を擁していました。本拠は児島に置き紀州にはそれぞれの別院を置いて往来し、熊野表の役職はすべて児島から任命していました。その故、歴代皇室の尊崇を受け歴代天皇、法皇の熊野行幸や大峯、葛城、金峯などの入峯先達を長床宿老が勤めることとなり兒島山伏は行幸山伏とも称され尊重されていったのです。 頼仁親王により復興された五流    さて、源平合戦の折、児島藤戸の合戦で源氏方が児島に陣取った平家に対して、藤戸の瀬を馬で渡って先陣を切った佐々木盛綱の功により源氏が大勝します。そこで源頼朝が(東)児島の波佐川(現岡山市南区灘崎町迫川)の荘を授けたことに対して熊野の一山がこれに抗議し返還を求めたことが伝えられています。  承久の変においては、北条氏が後鳥羽上皇を隠岐の島に奉遷し、第四皇子の冷泉宮頼仁親王が児島に遷されました。頼仁親王は五流尊流院に庵室を結び、以来その嫡流が尊流院の庵室を継いでいます。以来五流五家の院家として、長床結衆は頼仁親王から出ているのです。頼仁親王の陵は諸興寺のあった木見にありますが、大正七年に宮内省の所管になり、現在は宮内庁の管轄となっています。  また、同じく後鳥羽上皇の皇子桜井宮覚仁親王が熊野三山検校に併せて新熊野検校を兼ねて児島に下向、桜井親王と頼仁親王は隠岐で崩御された後鳥羽上皇のために供養の石塔と廟を建立されました。この宝塔は現在国の重文に指定され、五流尊流院の境内、熊野神社の駐車場となっている北側にあります。  頼仁親王の長嫡道乗上人の子のうち後に尊流院を継いだ頼宴大僧正の三男三郎が外戚三宅範長の家を継いだのですが、これが後醍醐天皇に忠誠を尽くした忠臣として太平記に登場するい児島高徳です。児島高徳は太平記の作者小島法師その人ではとも言われ、高い学識があった人物として記されています。 児島高徳 3.児島高徳のルーツと後裔(「アメノヒボコと後裔たち」より) 児島高徳の家系と先祖  家系図参照(「アメノヒボコと後裔たち」より、 庭田尚三氏による系図)    ・尊龍院系図    ・和田氏(三宅氏)系図   アメノヒボコ(Wikipedia 抜粋参照)    古事記   応神天皇の条 日本書紀  垂仁天皇の条   「ツヌガアラシト」「天日槍」渡来の伝承       神功皇后(オキナガタラシヒメ)もその家系 ・佐々木氏系図  ◆ 「備前軍記」に記された宇喜多家のルーツ(資料参照)  アメノヒボコとは:新羅の王子  第4代新羅王 脱解王 <参考>アメノヒボコの系図(アメノヒボコと後裔の研究より) アメノヒボコ渡来の時代背景:半島と日本列島 ◆児島高徳と和田範長(庭田尚三著)では養父 和田範長に着目  和田三宅範長は佐々木信実5代の裔、三宅範勝に子が無く佐々木を出て三宅を継ぐ 長男 高秀~宇喜多氏   「備前軍記」に記された宇喜多家先祖としての児島高徳とアメノヒボコ  「宇喜多和泉能家入道常玖画像賛」    参照「備前軍記」 次男 高久~幼少のころ姫路の海岸白浜の大庄屋沢田家に預けられる。6代の裔三宅三郎芳高が古海を訪ね墓参後小泉城主の客属になって済んだという。 沢田氏後裔に美保関親方(元大関増位山)親子がいる。   3男 高貞~三河の伊保城に定住。 三河三宅氏の祖  5代清宣の弟清貞の時松平清康の攻略を受け落城。清貞の次子の子梅坪城主正貞が松平元康に降り家臣となる。正貞の子康貞衣藩主となり先祖児島高徳の祠堂を設けた。陣屋内に桜を植えその見事さから桜城と言われた。その後~4代康勝は渥美郡田原の田原城主に 4男 良覚 長女 徳子 三河で生まれる。古海で高徳を看取ったあと下野の宮下家に嫁す。古海(現 群馬県大泉町) ◇一編上人 時宗の開祖 美作生まれではありませんが美作地方にたびたび訪れ、ゆかりの深いのが一遍上人です。  鎌倉仏教はそれまでの平安仏教が公卿や貴族のための仏教であったものを、広く衆生の救済に道を開き、仏道のルネッサンスともいうべき大改革を実現したものです。法然から栄西、道元、日蓮と様々な宗派の仏教者が続きましたが、それらの鎌倉仏教を締めくくったのが一遍でした。鎌倉新仏教の始まりは。美作国稲岡が出自の法然で、日本の浄土宗の開祖となっています。浄土宗は、阿弥陀仏の極楽浄土に往生し成仏することを説く教える浄土教の一派ですが、一遍の時宗もまた浄土教の教えでした。浄土教の日本における源流は、実践面では平安の中期に、民衆に「南無阿弥陀仏」を説いて回った空也上人であり、教学面では恵心僧都源信とも言えます。法然は源信の「往生要集」に強く影響を受けて専修念仏の教えを説いて教えました。それに対して一遍は「我が先達なり」として空也上人をとても尊敬し、民衆の中に入って行き「南無阿弥陀仏」の教えを広めていきました。「南無阿弥陀仏 六十万人決定往生」の名号札を配る賦算を続け、阿弥陀信仰を広めて回ったのです。  一遍上人は延応元年(1239)伊予国の道後温泉の奥谷の宝厳寺で河野道弘(母は大江氏)の子として誕生しました。ちょうどこの年は後鳥羽上皇が隠岐で崩御した年でした。河野氏は児島高徳の河野氏であるなど備州とはゆかりの深い一族でした。一遍の誕生のころ父はすでに出家していて、法然の代表的な弟子のひとり西山上人と呼ばれた証空のもとで修行していました。その後一遍は出家して証空の弟子から教えを学びます。その後熊野権現詣の時から名号札を配り始めます。   備州には何度か訪れています。一番代表的なのが「備前福岡市」です。その様子を描いた絵は一遍上人絵伝でも代表的な絵で、当時の市場の様子を知る貴重な題材として、歴史教科書にも掲載されています。福岡に来たのは弘安元年(1278)でした。その後祖父の墓を奥州江差に訪ねるなどして、弘安8年(1285)丹後から伯耆を経て美作の中山神社にやってきました。この時の逸話に出てくるのが金森山です。その後弘安10年(1287)に備中石軽部の宿に滞在した記録が残ります。この時安養寺に訪問したであろうと思われます。その後備後吉備津宮に詣でたのち故郷に帰ります。最後の旅路は正応2年(1289)伊予国を出て、法然上人ゆかりの善通寺を訪ね阿波から淡路を経て兵庫に至り、ここで往生したのでした。(詳しくは拙著の「美作に来た一遍」を参照してください。) <「備作に来た一遍」より> 一遍上人の誕生と河野氏  一遍上人(幼名松寿丸)は延応元年(1239)、伊予国道後温泉の奥谷である宝厳寺の一角で生まれました。一遍の父親は河野通広(出家して如仏)、母親は大江氏で、一遍上人誕生の年は後鳥羽上皇が隠岐で崩御した年でした。一遍の生まれた河野氏は後鳥羽上皇と深いかかわりあいを持っていました。  もともと河野家は越智氏の流れをくむ豪族でした。もともと西国の諸豪族はほとんど平家傘下にある中で、源平合戦の折、一遍の曽祖父河野通清が一族を率いて源氏方に付くことにより、平家追討に功があったとして、伊予国における有力御家人となっていました。ところが後鳥羽上皇が西国の武家達に呼び掛け、鎌倉に対抗した承久の変(承久三年 1221)では、祖父通信はじめ一族の多くが上皇方についていたのですが、上皇方が敗北、後鳥羽上皇は隠岐に流され、上皇方の諸武将は各地に流罪となりました。この時一遍の祖父通信は奥州の江刺に流され、貞応元年(1222)に亡くなり、同じく叔父の通末は信濃国佐久郡伴野に流され、やはり彼地で亡くなり、もう一人の叔父、通政も信濃国葉広に流されそこで切られたと伝えられています。後に一遍は諸国遊行中、江刺の祖父の墓や、信州佐久の小田切に叔父通末の墓所を訪ねて慰霊を行っています。  河野本家は通信の子の通久が幕府方に付いていたためかろうじて命脈は保たれていたものの、一遍誕生当時の河野家は、往時の力は失われ、すっかり没落してしまっていたのです。  一遍の父の通広は承久の変の時には出家していて如仏と称し、浄土宗の開祖法然上人の代表的な弟子の一人、西山上人と呼ばれていた証空のもとで修業していました。承久の変の当時は伊予に帰っていたこともあり、変の戦には参戦せず、一族の中では命を長らえることのできた一人でした。一遍の父通広(如仏)が浄土教を学んだ師の証空は法然の重要な弟子であったため建永の法難で遠流が決まっていましたが、当時叡福寺の願蓮のもとにあったため実刑を免れ、師の法然没後に慈円から西山善峰山の往生院を任され、西山の上人、後に西山上人と呼ばれるようになり、浄土宗の中でも重要な西山派の法統を形成していました。証空の教えを伊予で受け継いだのが一遍の父通広(如仏)でした。如仏が故郷に帰り還俗し生まれたのが一遍(幼名松寿丸)だったのです。 河野氏と備前国との密接な繋がり  河野氏は瀬戸内随一の水軍を擁し、伊予国の有力御家人となり、瀬戸内各地の有力豪族と縁戚を結んでいました。中でも備前国の有力豪族との関係は深く、後醍醐天皇に忠誠を尽くした児島高徳の正妻は河野氏の女貞子であったことはよく知られています。また児島高徳の娘は河野氏の一族である越智氏に嫁しているなど、実に深い関係を結んでいたのです。 太平記には児島氏(三宅氏)や高徳が養子となった和田氏などは、河野氏と同族であると書かれています。備前児島はこの頃熊野権現の所領でしたが、河野家とは深い繋がりを持っていたのです。 出家と修道の道  松寿丸が十歳の時に母が病没しました。その時父の勧めで松壽丸は出家します。法名は随縁で、建長三年(1251)十三歳になった時、父と同じ法然の弟子証空の弟子の聖達上人を訪ねて大宰府に行きます。同じく証空の弟子であった肥前国清水の華台上人から浄土宗西山義の教えを学び、華台上人から法名を智真と改められました。建長四年(1252)から弘長三年(1263)まで、約10年間、大宰府を中心に修学を続けました。 父の死と帰郷そして再出家   弘長三年(1263)父通広(如仏)が亡くなったと知らせが届き、故郷伊予国に帰ります。伊予に帰ってからは半僧半俗の生活を送るようになっていました。ところが、そのころ一族間で諍いが起こり、それをきっかけに再度出家を決意するようになりました。この時の諍いの内容については諸説あるようですが、よくわかりません。  文永七年(1270)、やはり出家していた弟の聖戒とともに大宰府の師聖達のもとを訪ね、翌文永八年(1271)32歳の時、再出家したのです。そうして最初に尋ねたのが信濃の善光寺で、ここで参篭し、「二河白道図(にがびゃくどうず)」を模写します。それを伊予に持ち帰り、伊予の窪寺で本尊として3年間、念仏三昧をする中で、「十一不二頌」の悟りを得ます。文永十年(1273)、34歳の時、菅生の岩屋寺で参篭後、伊予を出立し、一切を捨て「捨て聖」としての道を歩み始めたのです。こうして諸国遊行の旅に出立したのです。 「南無阿弥陀仏 六十万人決定往生」賦算の始まり  まず向かったのが熊野権現でした。熊野権現への道は同行三人(超一、超二、念仏房)で、途中の桜井まで弟の聖戒が同行しました。途中、四天王寺で修業し、さらに高野山などで修業、念仏勧進の願を立て、「南無阿弥陀仏」の札を配る、賦算を始めました。ところで、紀州の熊野権現に向かう途上、熊野山中でとある僧と出会います。その僧が「信心が起こらないので受け取れない」というのを無理に札を渡したことを心に悩み、熊野権現本宮に詣でてお伺いを立てたところ、「信不信をえらばず、浄不浄を嫌わずその札を配るべし」とのお告げを受けたのです。ここから「南無阿弥陀仏」に「六十万人決定往生」の八文字を加えて賦算を始めることとなりました。この頃、この賦算札の版木を弟の聖戒に送ったことが絵伝の詞に詞かれています。この時から一遍と号するようになります。 九州遊行、伊予国~安芸~周防から備前に  熊野を出た一遍は同行者を一旦伊予に帰し、自らは京に赴き誓願寺に詣り、師聖達の継子顕意を訪ねます。その後西海道を経て文永の役(元寇)後の博多を訪ね、戦死者の供養をなした後、伊予国に帰ります。伊予国では国内くまなく賦算し、巡錫して回りました。  建治二年(1276)、再び伊予を発った一遍は大宰府に師聖達を訪ねます。その後九州各地を遊行して回ります。一遍聖絵には、その時の主な遊行地として大隅八幡(現鹿児島神宮)や、豊後国で、守護の大友氏の帰依を受けたことが詞れています。また豊後では後に有力な弟子のひとりとなる真教が入門しています。聖絵には描かれていませんが宇佐八幡にも詣でたであろうと想像されます。九州各地を巡錫し、弘安元年(1278)同行7~8人とともに伊予国に帰ります。しばらく伊予国にとどまった後、秋に伊予国を出立、最初に安芸厳島に詣で、周防国を回ったのち冬に備前国福岡に到ったのです。  このころ一遍の一行は瀬戸内海の航海を河野水軍の船で移動したのであろうと想像されます。というのは河野氏は承久の変の後、一時落ちぶれていたのですが、元寇の役に、河野水軍が武功を立て著しかったため、鎌倉幕府からその功を認められ、河野氏は勢いを盛り返していたのです。ですから瀬戸内海各地への巡錫は河野の船で移動したことで間違いないでしょう。 ◇日本仏教の改革者 法然とその後の浄土門  法然とその弟子たち 「厭離穢土欣求浄土」 徳川家と浄土宗   戦国時代を終わらせた武将が徳川家康でした。徳川家はその後代々続き、日本の歴史でもっとも長い265年間、戦乱のない平和な時代を実現しました。その徳川家が、戦国の戦いの時代に旗印としたのが、「厭離穢土欣求浄土」です。大河ドラマなどでも目にした人は多いでしょう!ところでその旗印の意味や起源については、あまり知られていないようです。  「厭離穢土欣求浄土」とは、どういう意味なのでしょうか?またどのような経緯から徳川家の旗印として使用されるようになったのでしょうか?愛知県岡崎市大樹寺HPより、大樹寺責任役員 成田敏圀師の「厭離穢土 ~家康公の平和思想~」より。大樹寺は代々徳川家とそのもととなった松平家の菩提寺です。 徳川家のルーツと浄土の教え   徳川家のルーツは、八幡太郎義家の末裔とされる、上州得川出身の時宗遊行僧・徳阿弥が、還俗して三河の庄屋・松平太郎左衛門重信の婿養子になり松平親氏と名乗ったのが始まりです。松平家四代目の親忠が増上寺より勢誉愚底を招いて建てたのが、この岡崎市にある菩提寺の大樹寺でした。徳川の姓の由来は家康が初代の得川(えがわ)の姓の得の字を徳の字に改めたのが始まりです。  後に徳川家康の名を名乗る松平元康は、岡崎城主でした。しかし幼いころから今川家に人質として預けられ、成人してからも今川の家臣団として扱われていました。ところが上洛を目指していた今川義元に従って桶狭間にあった時、織田信長の急襲により敗北し義元も討死にすると、今川勢は敗走して散り散りバラバラになり、元康は城主を勤める岡崎へと逃れ、松平家菩提寺の大樹寺に至ります。桶狭間での敗戦に悲観した元康は、松平家代々の先祖の墓前で切腹しようとします。ところがその元康を、当時の大樹寺住職登誉上人が「厭離穢土欣求浄土」の話をして思いとどまらせたのです。  「厭離穢土欣求浄土」(読みは えんりえど 又は おんりえど ごんぐじょうど)というのは、穢れた世を離れ万民が幸福に生きる世を実現するという意味です。上人は元康に「天下の父母となって万民の苦しみをなくしなさい」と教え諭すのです。南無阿弥陀仏の心でした。  以来家康は旗指物には「厭離穢土 欣求浄土」と掲げ、口には念仏「南無阿弥陀仏」を唱えながら浄土の実現を期して戦国の世を戦い生き抜いてきました。徳川の時代が、265年という世界でも類例のない平和で豊かな時代を実現した背後にはこういう、徳川家の歴史と込められた浄土の教えがあったということです。その浄土の教え、専修念仏の教えの始まりが郷土の生んだ偉大な聖人 「法然」 でした。 浄土教の歴史(Wikipedia) インド  浄土教の成立時期は、インドにおいて大乗仏教が興起した時代である。紀元100年頃に『無量寿経』と『阿弥陀経』が編纂されたのを契機とし、時代の経過とともにインドで広く展開していく。しかし、インドでは宗派としての浄土教が成立されたわけではない。 浄土往生の思想を強調した論書として、龍樹(150年 - 250年頃)の『十住毘婆沙論』「易行品」、天親(4-5世紀)の『無量寿経優婆提舎願生偈』(『浄土論』・『往生論』)がある。天親の浄土論は、曇鸞の註釈を通じて後世に大きな影響を与えた。 なお『観無量寿経』 は、サンスクリット語の原典が発見されておらず、おそらく4-5世紀頃に中央アジアで大綱が成立し、伝訳に際して中国的要素が加味されたと推定される。しかし中国・日本の浄土教には大きな影響を与える。 中国    中国では2世紀後半から浄土教関係の経典が伝えられ、5世紀の初めには廬山の慧遠(334年 - 416年)が『般舟三昧経』にもとづいて白蓮社という念仏結社を結び、初期の中国浄土教の主流となる[要出典]。以後、諸宗の学者で浄土教を併せて信仰し兼修する者が多かったが、浄土教を専ら弘めたのは唐の道綽・善導と懐感の一派であった[2]。これらとは別に慧日(慈愍三蔵)も念仏をすすめ、教団を発展させた。慧日の教団の発展は、仏教を知的な教理中心の学問から情操的な宗教へと転回させるきっかけになった。 山西省の玄中寺を中心とした曇鸞(476年頃 - 542年頃)が、天親の『浄土論』(『往生論』)を注釈した『無量寿経優婆提舎願生偈註』(『浄土論註』・『往生論註』)を撰述する。その曇鸞の影響を受けた道綽(562年 - 645年)が、『仏説観無量寿経』を解釈した『安楽集』を撰述する。 道綽の弟子である善導(613年 - 681年)が、『観無量寿経疏』(『観経疏』)を撰述し、『仏説観無量寿経』は「観想念仏」ではなく「称名念仏」を勧めている教典と解釈する。 こうして「称名念仏」を中心とする浄土思想が確立する。しかし中国ではその思想は主流とはならなかった。 明代には、慧日(680年 - 748年)、善導の浄土教を基盤に、[要出典]株宏が禅と念仏の一致を説いた[2]。その影響で中国では浄土教を禅などの諸宗と融合する傾向が強くなり、後の中国における「禅」の大勢となる「念仏禅」の源流となる。 その他に法照(? - 777年頃)が、音楽的に念仏を唱える「五会念仏」を提唱し、南岳・五台山・太原・長安などの地域に広める。『浄土五会念仏誦経観経儀』、『浄土五会念仏略法事儀讃』を撰述する。 法然は『選択本願念仏集』において、中国浄土教の法義について、慧遠の「廬山慧遠流」、慧日の「慈愍三蔵流」、曇鸞・道綽・善導の「道綽・善導流」と分類する[9]。広説仏教語大辞典によれば、古来から中国の浄土教には慧遠流(廬山流)・善導流・慈愍流の三流があるといわれており、善導流は日本浄土教の基礎となったという。 日本   飛鳥時代・奈良時代 7世紀前半に浄土教(浄土思想)が伝えられ、阿弥陀仏の造像が盛んになる[要出典]。奈良時代には智光や礼光が浄土教を信奉し、南都系の浄土教の素地が作られた。 平安時代   比叡山では、天台宗の四種三昧の一つである常行三昧に基づく念仏が広まり、諸寺の常行三昧堂を中心にして念仏衆が集まって浄業を修するようになった。貴族の間にも浄土教の信奉者が現れ、浄土信仰に基づく造寺や造像がなされた。臨終に来迎を待つ風潮もこの時代に広まる 。空也や良忍の融通念仏などにより、一般民衆にも浄土教が広まった。 平安時代の著名な浄土教家として、南都系には昌海、永観、実範、重誉、珍海がおり、比叡山系には良源、源信、勝範がいるが、彼らはいずれも本とする宗が浄土教とは別にあり、そのかたわら浄土教を信仰するという立場であった。 平安時代初期 円仁   承和5年(838年)には、遣唐使の一員として円仁(794年 - 864年)が渡海し留学する。中国五台山で法照流の五会念仏を学ぶ。その他にも悉曇・密教などを学び、承和14年(847年)に帰国する。比叡山において、その五台山の引声念仏を常行三昧[注釈 1]に導入・融合し、天台浄土教の発祥となる。常行三昧堂が建立され、貞観7年(865年)には、常行三昧による「観想念仏行」が実践されるようになる。 良源  良源(912年 - 985年)が、『極楽浄土九品往生義』を著す。また比叡山横川(よかわ)の整備をする。 こうして平安時代初期には、阿弥陀仏を事観の対象とした「観相念仏」が伝わる。まず下級貴族に受け容れられた。当時の貴族社会は藤原氏が主要な地位を独占していて、他の氏族の者はごくわずかな出世の機会を待つのみで、この待機生活が仏身・仏国土を憧憬の念を持って想い敬う「観相念仏」の情感に適合していたものと考えられる。 平安時代中期 平安時代の寺院は国の管理下にあり、浄土思想は主に京都の貴族の信仰であった。また、(官)僧は現代で言う公務員であった。官僧は制約も多く、国家のために仕事に専念するしかなかった。そのような制約により、庶民の救済ができない状況に嫌気が差して官僧を辞し、個人的に教化活動する「私得僧」が現れるようになる。また大寺院に所属しない名僧を「聖」(ひじり)という。 空也   空也(903年-972年)は、念仏を唱えながら各地で道を作り、橋を架けるなど社会事業に従事しながら諸国を遊行する。同時に庶民に対し精力的に教化を行い、庶民の願いや悩みを聞き入れ、阿弥陀信仰と念仏の普及に尽力する。空也は、「市聖」(いちひじり)・「阿弥陀聖」と呼ばれる。空也は踊念仏の実質的な創始者でもある。 源信   源信 (942年-1017年)は、良源の弟子のひとりで、985年に『往生要集』を著し、日本人の浄土観・地獄観に影響を与えた。  『往生要集』は、阿弥陀如来を観相する法と極楽浄土への往生の具体的な方法を論じた、念仏思想の基礎とも言える。内容は実践的で非常に解りやすいもので、絵解きによって広く庶民にも広められた。同書は「観想念仏」を重視したものの、一般民衆のための「称名念仏」を認知させたことは、後の「称名念仏」重視とする教えに多大な影響を与え、後の浄土教の発展に重要な意味を持つ書となる。     986年には比叡山に「二十五三昧合」という結社が作られ、ここで源信は指導的立場に立ち、毎月1回の念仏三昧を行った。結集した人々は互いに契りを交わし、臨終の際には来迎を念じて往生を助けたという。源信は、天台宗の僧であったが世俗化しつつあった叡山の中心から離れて修学・修行した。 慶滋保胤  平安時代中期の文人で中級貴族でもあった慶滋保胤(931年頃 - 1002年)は、僧俗合同の法会である「勧学会」(かんがくえ)を催す。また、浄土信仰によって極楽往生を遂げたと言われる人々の伝記を集めた『日本往生極楽記』を著す。  後には、『日本往生極楽記』の編集方法を踏襲した『続本朝往生伝』(大江匡房)・『拾遺往生伝』(三善爲康)・『三外往生伝』(沙弥蓮祥)など著される。 この様に具体的な実例をもって浄土往生を説く方法は、庶民への浄土教普及に非常に有効であった。そして中・下級貴族の間に浄土教が広く普及していくに従い、上級貴族である藤原氏もその影響を受け、現世の栄華を来世にまでという思いから、浄土教を信仰し始めたものと考えられる。 こうして日本の仏教は国家管理の旧仏教から、民衆を救済の対象とする大衆仏教への転換期を迎える。 平安時代末期 「末法」の到来  「末法」とは、釈尊入滅から二千年を経過した次の一万年を「末法」の時代とし、[10]「教えだけが残り、修行をどのように実践しようとも、悟りを得ることは不可能になる時代」としている。この「末法」に基づく思想は、インドには無く中国南北朝時代に成立し、日本に伝播した。釈尊の入滅は五十数説あるが、法琳の『破邪論』上巻に引く『周書異記』に基づく紀元前943年とする説を元に、末法第一年を平安末期の永承7年(1052年)とする。    本来「末法」は、上記のごとく仏教における時代区分であったが、平安時代末期に災害・戦乱が頻発した事にともない終末論的な思想として捉えられるようになる。よって「末法」は、世界の滅亡と考えられ、貴族も庶民もその「末法」の到来に怯えた。さらに「末法」では現世における救済の可能性が否定されるので、死後の極楽浄土への往生を求める風潮が高まり、浄土教が急速に広まることとなる。ただし、異説として、浄土教の広まりをもたらした終末論的な思想は本来は儒教や道教などの古代中国思想に端を発する「末代」観と呼ぶべきもので、仏教の衰微についてはともかく当時の社会で問題視された人身機根の変化には触れることのない「末法」思想では思想的背景の説明がつかず、その影響力は限定的であったとする説もある。   末法が到来する永承7年に、関白である藤原頼通が京都宇治の平等院に、平安時代の浄土信仰の象徴のひとつである阿弥陀堂(鳳凰堂)を建立した。阿弥陀堂は、「浄土三部経」の『仏説観無量寿経』や『仏説阿弥陀経』に説かれている荘厳華麗な極楽浄土を表現し、外観は極楽の阿弥陀如来の宮殿を模している。   この頃には阿弥陀信仰は貴族社会に深く浸透し、定印を結ぶ阿弥陀如来と阿弥陀堂建築が盛んになる。阿弥陀堂からは阿弥陀来迎図も誕生した。   平等院鳳凰堂の他にも数多くの現存する堂宇が知られ、主なものに中尊寺金色堂、法界寺阿弥陀堂、白水阿弥陀堂などがある。 良忍  良忍は、(1072年 - 1132年)は、「一人の念仏が万人の念仏と融合する」という融通念仏(大念仏)を説き、融通念仏宗の祖となる。 天台以外でも三論宗の永観(1033年 - 1111年)や真言宗の覚鑁(1095年 - 1143年)らの念仏者を輩出する。 この頃までに、修験道の修行の地であった熊野は浄土と見なされるようになり、院政期には歴代の上皇が頻繁に参詣した。後白河院の参詣は実に34回にも及んだ。熊野三山に残る九十九王子は、12世紀 - 13世紀の間に急速に組織された一群の神社であり、この頃の皇族や貴人の熊野詣に際して先達をつとめた熊野修験たちが参詣の安全を願って祀ったものであった。 鎌倉時代 平安末期から鎌倉時代に、それまでの貴族を対象とした仏教から、武士階級・一般庶民を対象とした信仰思想の変革がおこる。(詳細は、鎌倉仏教を参照。) また鎌倉時代になると、それまでの貴族による統治から武家による統治へと政権が移り、政治・経済・社会の劇的な構造変化と発展を遂げる。 末法思想・仏教の変革・社会構造の変化などの気運に連動して、浄土教は飛躍的な成長を遂げる。この浄土思想の展開を「日本仏教の精華」と評価する意見もある一方で、末世的な世情から生まれた、新しい宗教にすぎないと否定的にとらえる意見もある。 法然(源空)  法然(法然房源空、1133年-1212年)は、浄土宗の開祖とされる。1198年に『選択本願念仏集』(『選択集』)を撰述し、「専修念仏」を提唱する。   1145年に比叡山に登る。1175年に 善導(中国浄土教)の『観無量寿経疏』により「専修念仏」に進み、比叡山を下りて東山吉水に住み吉水教団を形成し、「専修念仏」の教えを広める。(1175年が、宗旨としての浄土宗の立教開宗の年とされる。)   法然の提唱した「専修念仏」とは、浄土往生のための手段のひとつとして考えられていた「観相念仏」を否定し、「称名念仏」のみを認めたものである。「南無阿弥陀仏」と称えることで、貴賎や男女の区別なく西方極楽浄土へ往生することができると説き、往生は臨終の際に決定するとした。   また『選択集』において、正しく往生浄土を明かす教えを『仏説無量寿経』(曹魏康僧鎧訳)、『仏説観無量寿経』(劉宋畺良耶舎訳)、『仏説阿弥陀経』(姚秦鳩摩羅什訳)の3経典を「浄土三部経」とし、天親の『浄土論』を加え「三経一論」とする。   源空の門流には、弁長の鎮西流、証空の西山流、隆寛の多念義、長西の諸行本願義、幸西の一念義の五流があり、これに親鸞の真宗を加えて六流とする。源空門下の浄土教に十五流を数えることもある。 親鸞   親鸞(1173年-1262年)は、法然の弟子のひとり。『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)等を著して法然の教えを継承発展させ、後に浄土真宗の宗祖とされる1181年に比叡山に登る。   1201年には修行では民衆を救済できないと修行仏教と決別し、比叡山を下りる。そして法然の吉水教団に入門し、弟子入りする。念仏停止により流罪に処され、僧籍の剥奪後は、法然の助言に従い、生涯に渡り非僧非俗の立場を貫いた。赦免後は東国(関東)を中心に20年に渡る布教生活を送り、念仏の教えをさらに深化させる。京都に戻ってからは著作活動に専念し、1247年に『教行信証』を撰述、数多くの経典・論釈を引用・解釈し、「教」・「行」・「信」・「証」の四法を顕かにする。阿弥陀仏のはたらきによりおこされた「真実信心」 を賜わることを因として、いかなる者でも現生に浄土往生が約束される「正定聚」に住し必ず滅度に至らしめられると説く。   宗旨としての浄土真宗が成立するのは没後のことである。 一遍   一遍は(1239年-1289年)は、時宗の開祖とされる。1251年に大宰府に赴き、法然の孫弟子である浄土宗の聖達(1203年-1279年)に師事した。その後は諸国を遍歴し、紀伊の熊野本宮証誠殿で熊野権現から啓示を得て悟りを開き、時宗を開宗したとされる。その啓示とは、はるか昔の法蔵比丘の誓願によって衆生は救われているのであるから、「南無阿弥陀仏」の各号を書いた札を民衆に配り(賦算)、民衆に既に救われていることを教えて回るというものであった。阿弥陀仏の絶対性は「信」すらも不要で、念仏を唱えることのみで極楽往生できると説いた。晩年には踊念仏を始める。 平安時代後期から鎌倉時代にかけて興った融通念仏宗・浄土宗・浄土真宗・時宗は、その後それぞれ発達をとげ、日本仏教における一大系統を形成して現在に至る。 室町時代以降 蓮如  本願寺は、親鸞の曾孫である覚如(1270年-1351年)が親鸞の廟堂を寺格化し、本願寺教団が成立する。その後衰退し天台宗の青蓮院の末寺になるものの、室町時代に本願寺第八世 蓮如(1415年-1499年)によって再興する。   寛正6年(1465年)に、延暦寺西塔の衆徒により大谷本願寺は破却される。   文明3年に北陸の吉崎に赴き、吉崎御坊を建立する。もともと北陸地方は、一向や一遍の影響を受けた地域であり、急速に教団は拡大していく。   信徒は「門徒」とも呼ばれるが、他宗から「一向宗」と呼ばれる強大な信徒集団を形成した。「一向」は「ひたすら」とも読み、「ひたすら阿弥陀仏の救済を信じる」という意味を持つ。まさにひたすら「南無阿弥陀仏」と称え続ける姿から、専修念仏の旨とするように全体を捉えがちであるが、実際には修験道の行者や、密教などの僧が浄土真宗に宗旨替えし、本願寺教団の僧となった者たちが現れる。一部ではその者たちによって、浄土真宗と他宗の教義が複雑に混合され、浄土真宗の教義には無い「呪術」や「祈祷」などの民間信仰が行われるようになる。よって必ずしも専修とは言えない状態になっていく。それに対し蓮如は再三にわたり「御文」などを用いて称名念仏を勧めるものの、文明7年(1475年)吉崎を退去し山科に移る。   蓮如の吉崎退去後も真宗門徒の団結力は絶大で、旧来の守護大名の勢力は著しく削がれた。中でも、加賀一向一揆や山城国一揆などの一向一揆は有名である。このため、多くの守護大名は妥協して共存の道を選択する。   しかし織田信長などは徹底的に弾圧し、10年かけて石山本願寺を落とし、本願寺教団の寺院活動のみに限定させる。(詳細は石山合戦を参照。)   その後は豊臣秀吉の介入による宗主継承問題を起因として、徳川家康により本願寺教団は東西に分立する。 新・景教のたどった道(55)中国の諸宗教と景教(5)浄土教と景教 川口一彦 コラムニスト : 川口一彦 中国浄土教の善導と景教について考えたいと思います。唐代の中国浄土教の有名な指導者は善導(613〜681)です。彼は20代後半に晋陽にいた道綽(どうしゃく、562〜645)から浄土教典の観無量寿経の教えを受けました(浄土教典には『無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経』の浄土三部経がある)。やがて長安の光明寺に道場を開いたことや大慈恩寺などに住み、645年に道綽が死ぬと、浄土教の念仏を弘(ひろ)め、やがて長安より西南の終南山にも住み、最後に光明寺の門前の柳の樹から投身往生を遂げたとの説も伝えられています。 日本の法然(1133〜1212)と親鸞(1173〜1263)らは善導の著作から多大の影響を受け、法然は自著の『選択本願念仏集』(1198年作)の最後に、善導は阿弥陀如来の化身と書いたほどで、親鸞も『高僧和讃』(1248年ごろ作)で同様のことを書きました。 善導が説いた救いとは、どんな者でも「南無阿弥陀仏」と阿弥陀仏の名を称えることにより極楽浄土に入ることができるという「称名念仏」で、南無(帰依する、信頼するの意味)と称えることができるのも人間を極楽浄土に入れるために本願修行した阿弥陀が信者に差し向けてくれたもの、だから阿弥陀は称える者を浄土に行かせてくれる、阿弥陀の名を称え、浄土に入れることは、一方的な計らいという他力本願の考えです。これぞ浄土教の福音といえるでしょう。これらの浄土教典はいつ頃創作されたかは分かりませんが、北西インドで紀元前後に作られたという説があります。 阿弥陀の意味は永遠の命・永遠の光で、新約聖書ヨハネの福音書に啓示された「永遠の命で永遠の光であるイエス」から取り入れたのではないかと考えるのです。イエスの救いの福音は30年代の聖霊降臨後に東方にも伝わり、使徒トマスも復活のイエスの福音をインドに行き宣教しました。それが浄土経典の制作に多少なりとも影響したかどうかが問われます。 さて、景教の初代宣教師の阿羅本が長安に来たのは635(太宗皇帝の貞観9)年、善導が22歳の時でした。その3年後、太宗皇帝の勅令として長安の義寧坊の一角に波斯胡寺(後に大秦寺と改称)が建ち、全国に宣教が開始されました。当然、仏教徒にもその知らせが届いたことでしょう。景教は諸国に大秦寺会堂を建て、終南山にも会堂が建ちました。ですから、善導が景教の説教や儀式を会堂で見聞する機会があったと考えます。 善導の著作の中に、阿弥陀仏を賛美する讃仏歌や極楽浄土への往生を願う緩やかな旋律で歌う『六時礼讃偈』があります。これは、景教碑に彫られ、実際に景教徒らが行った「七時礼讃」※注(1)から影響を受けたと考えます。 なぜならインド仏教はもともと仏への賛美がなく、一方で景教徒たちは、紀元前に作られた旧約聖書の中の多くの賛美歌や詩編歌を賛美し、三一神への賛美が中国に入る前からシリア語訳でささげられていたからです。景教徒たちが神の霊感を受けた聖書の賛美歌をささげることにより魂を強め、聖霊により力強く信仰の道を導かれていた姿に、善導は大きな影響を受けたことと考えます。 極楽浄土や阿弥陀は人が作り出した架空の場所・人物で、霊感されていないことは言うまでもありません。ですから『六時礼讃偈』の「往生の行」の最終文では「命の終わる時まで修行するがよい。一生のあいだ行ずることは、少し苦しいようではあるが・・」※注(2)と修行を勧めています。それは、善行がなければ不安の残る、救いのない苦しい自力宗教と言えるでしょう。 聖書は、現実に人となって罪深い者に「あなたの罪は赦(ゆる)された」と宣言したイエス、しかも死から復活されて永遠の命を保証し、昇天して天国を備えられたことを証しし、聖霊を心に宿して賛美し、希望をもって生きていく多くの証しで満ちています。そういうことで、浄土教とは大きく違う点かと考えます。 ※ 注 (1)旧約聖書詩篇119篇164節には「私は日に七度、あなたをほめたたえます」とあります。 (2)藤田宏達著『善導』(講談社、1985年)336ページを引用。