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2017年6月3日土曜日

「太平記」なかりせば 児島高徳と太平記

太平記の作者ではと言われている小島法師、実は後醍醐天皇に忠誠を尽くした児島高徳その人ではとも言われている。
「太平記」と言えば、室町時代にまとめられた軍記ものだが、これまで実に多くの人々により語られ、読まれ、伝承されてきた。
江戸時代には「太平記読み」という職業まであったとか言われている。諸国の諸大名が太平記を教科書に治世の在り方とか軍略を学んだとされている。

小生岡山人物銘々伝を語る会の今年8月の例会で「児島高徳」について語る予定となっている。
それでいろいろ児島高徳に関する書籍や文書を読むうちに、「児島高徳抹殺論」と言うのがあったことを知った。
その張本人とされるのが元佐賀藩士で岩倉具視に可愛がられ、帝国大学(のちの東大)の国史科創設に関わった久米邦武教授と元薩摩藩士で日本の歴史学の発展に貢献したという重野安繹教授であった。
久米教授は歴史と物語が混然とした「平家物語」や「太平記」などを根拠に歴史を論ずることに反発し、「太平記は歴史に益なし」と言う論文を明治24年の「史学界雑誌」に発表するなどしている。
「児島高徳抹殺論」は明治21年に東京のある料亭で開催された史学者の会合で、「児島高徳の事績は太平記にのみに記され、太平記以外には書かれていないのではないか」と言うことから「太平記の作者の小島法師が自己の名声を高めるために創造した架空の人物ではないか!」と言う、酒の席での話だった。ところがこの話を、この席に同席していた重野博士が別の講演の場で話したため当時の史学界で大変な問題になって行った。

酒宴の席での話とはいえ当時の史学界の重鎮の話した話故、世間でも問題になり。当時明治政府により南朝系の人士、例えば楠木正成などが、贈位される中、児島高徳にも贈位がなされ、記念する神社の創建なども相次ぐ中、これらに冷や水をかけるような動きにもなって行った。

さて、「平家物語」や「太平記」、さらには水戸光圀公の命により編纂された「大日本史」や、頼山陽によう「日本外史」などについても「いい加減な資料を誤って引用した間違いだらけの書物」だと、断じて彼らは批判していった。

さて、この「児島高徳抹殺論」は、その後様々な人々によって反駁され、今では抹殺論を唱える者はないが、それでもその影響は様々な形で残っている。

ところで、ここで本題の「太平記」についてだが、「太平記」は日本の歴史上に残る最も長編の歴史に関する書物である。
全40編からなる「太平記」には、様々な中国の史記などの歴史書や、孔子・孟子などの儒学所、孫子などのへ医学書。中国の古典文学の詩文や、和歌や朗詠などの文学も多く引用されている。また、量はそう多くはないが仏教関係の故事も引用されていて、あたかも今風に言えば百科事典のような広範な内容を取り込んだ読み物が太平記であった。
であるがゆえに、「太平記」は室町末から江戸時代にかけて、極めて多くの人々、特に諸国の武将や知識人の学ぶ教科書となって行ったのである。

明治以降の教科書においても「太平記」は、常に古典教材の採択率のトップを占めていた。1945年の敗戦を迎えるまで、日本人の精神および文化に極めて重大な役割を果たしてきたもっとも代表的な古典文学だったのである。

「太平記」がテーマとして来たのは、後醍醐天皇の誕生から、鎌倉幕府の討伐、建武の新政後南北朝に分かれた動乱の時代、後醍醐天皇死後の足利政権内の抗争と南朝勢力の進出と敗北、足利義満の登場までを記している。

一貫して書かれているのは治世の在り方であり、君臣の道理である。さらには軍略や人間としての有り様まで説かれている。

「もしや太平記なかりせば」である。
太平記にもっとも影響を受けたといわれる君主の一人が備前岡山藩の藩祖である池田光政公であった。池田光政公は身近に太平記に精通した人物を置いて藩政を行った。

岡山人物銘々伝を語る会では、杉嘉夫さんが「池田光政と『太平記読み』横井養元」の話を昨年(平成28年)5月の例会で話をされた。もとは備前金川藩士であった横井養元が招かれて、池田公に太平記を講釈したというのである。江戸時代随一の名君と謳われた池田光政公の思想形成に「太平記」が重要な役割を果たしたというのである。
江戸時代には「太平記秘伝理尽抄」という、太平記の解説書が広く普及して一般にも読まれたそうであるし、各地に「太平記読み」と言う講釈師があいて、これが歌舞伎の原型になったとも言われている。
もしや太平記と言う書物が書かれていなかったら、池田光政公やそれに続く諸侯の徳政も無かったのかもしれない。

太平記の借者とされる小島法師は児島高徳その人ではないか?との論議もこれまで盛んに行われてきた。
小島は児島に起因しているので、太平記の作者が備前の児島に何らかのかかわりのある人物であることは間違いないであろう。だからこそ、太平記に書かれ、太平記にしか記述がないとされて抹殺説まで唱えられた児島高徳の所業が極めて詳細に描かれ、関わる備前の武将や人士の事柄についても詳しく述べられているのであろう。
山伏の総本山になっている頼仁親王の血筋を引く、五流尊龍院に関わる人物が著者であっただろうとも言われている。
いずれにせよ、太平記に著述され引用されている様々な漢籍や和漢の逸話などを考えると相当の当時としては最高度の学識を備えた人物による著述であることは間違いなかろう。

戦後はぱったりと途絶えたかのごとき「太平記」であるが、もう一度その内容に触れてみるべき時に来ているように思う。また、小島法師その者かとされる、児島高徳についてももう一度スポットを当ててみるべき時が来ているのではと思う。

筆者の故郷は備前児島である。備前岡山では名刹とされる児島の由加山蓮台寺が菩提寺で幼いころにはよく遊びに行った。現在倉敷市林にある熊野神社と五流尊龍院はもとは由加山と一体のものであったと言われる。

備前を平定した戦国武将宇喜多直家も児島高徳の子孫であると言われる、さらにその先祖をたどれば、アメノヒボコに至る。日本列島の古代国家に重大な役割を演じたのが吉備国であり中でも備前児島の役割は重要であった。
国つくり神話の中では「吉備の児島」として登場する児島は、瀬戸内海航路の最も中心に位置し、東西の交流の重要な拠点であった。児島を制するものが瀬戸内海を支配する力を有した時代でもあろう。吉備の穴海を挟んだ吉備国は、肥沃で様々な産業で栄えたと地であった。宗教や精神文化も栄えた地域である。
児島高徳は一時、「悪党」とも呼ばれ、卑賤な者ともされて来た。しかしそれは、その後落ちぶれていった南朝を支えた人物だったからであろう。
あの、院庄の桜の木を刻んで記されたという「十字詩」の物語が有名であるが、越王句践に忠誠を尽くした句践の故事を引用するなどと言うことは、中国の古典に通じるかなりの素養を持たなければ詩文を書くことが出来なかったであろう。
児島高徳はかなりの学識の人物であったと見なければならない。
「太平記」に引用された夥しい漢籍その他の故事は、当時最高の学識を集めた人物の著作になることは「太平記」を読んでみればよくわかるのである。

この6月27日には同じく私の所属する吉備歴史探訪会でも同様の話をする予定になっているが、特に関心がある方があれば聞きに来てほしい。
8月が岡山人物銘々伝を語る会での講演である。

今はまだ、話を纏めている段階である。ある方からは貴重な資料を見せていただいたりそのコピーを戴いたりした。感謝したい。「児島高徳と太平記」に関わる話題やテーマに関心のある方の連絡をお待ちしています。
連絡は吉備楽土(山田)まで



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