太平記の作者ではと言われている小島法師、実は後醍醐天皇に忠誠を尽くした児島高徳その人ではとも言われている。
「太平記」と言えば、室町時代にまとめられた軍記ものだが、これまで実に多くの人々により語られ、読まれ、伝承されてきた。
江戸時代には「太平記読み」という職業まであったとか言われている。諸国の諸大名が太平記を教科書に治世の在り方とか軍略を学んだとされている。
小生岡山人物銘々伝を語る会の今年8月の例会で「児島高徳」について語る予定となっている。
それでいろいろ児島高徳に関する書籍や文書を読むうちに、「児島高徳抹殺論」と言うのがあったことを知った。
その張本人とされるのが元佐賀藩士で岩倉具視に可愛がられ、帝国大学(のちの東大)の国史科創設に関わった久米邦武教授と元薩摩藩士で日本の歴史学の発展に貢献したという重野安繹教授であった。
久米教授は歴史と物語が混然とした「平家物語」や「太平記」などを根拠に歴史を論ずることに反発し、「太平記は歴史に益なし」と言う論文を明治24年の「史学界雑誌」に発表するなどしている。
「児島高徳抹殺論」は明治21年に東京のある料亭で開催された史学者の会合で、「児島高徳の事績は太平記にのみに記され、太平記以外には書かれていないのではないか」と言うことから「太平記の作者の小島法師が自己の名声を高めるために創造した架空の人物ではないか!」と言う、酒の席での話だった。ところがこの話を、この席に同席していた重野博士が別の講演の場で話したため当時の史学界で大変な問題になって行った。
酒宴の席での話とはいえ当時の史学界の重鎮の話した話故、世間でも問題になり。当時明治政府により南朝系の人士、例えば楠木正成などが、贈位される中、児島高徳にも贈位がなされ、記念する神社の創建なども相次ぐ中、これらに冷や水をかけるような動きにもなって行った。
さて、「平家物語」や「太平記」、さらには水戸光圀公の命により編纂された「大日本史」や、頼山陽によう「日本外史」などについても「いい加減な資料を誤って引用した間違いだらけの書物」だと、断じて彼らは批判していった。
さて、この「児島高徳抹殺論」は、その後様々な人々によって反駁され、今では抹殺論を唱える者はないが、それでもその影響は様々な形で残っている。
ところで、ここで本題の「太平記」についてだが、「太平記」は日本の歴史上に残る最も長編の歴史に関する書物である。
全40編からなる「太平記」には、様々な中国の史記などの歴史書や、孔子・孟子などの儒学所、孫子などのへ医学書。中国の古典文学の詩文や、和歌や朗詠などの文学も多く引用されている。また、量はそう多くはないが仏教関係の故事も引用されていて、あたかも今風に言えば百科事典のような広範な内容を取り込んだ読み物が太平記であった。
であるがゆえに、「太平記」は室町末から江戸時代にかけて、極めて多くの人々、特に諸国の武将や知識人の学ぶ教科書となって行ったのである。
明治以降の教科書においても「太平記」は、常に古典教材の採択率のトップを占めていた。1945年の敗戦を迎えるまで、日本人の精神および文化に極めて重大な役割を果たしてきたもっとも代表的な古典文学だったのである。
「太平記」がテーマとして来たのは、後醍醐天皇の誕生から、鎌倉幕府の討伐、建武の新政後南北朝に分かれた動乱の時代、後醍醐天皇死後の足利政権内の抗争と南朝勢力の進出と敗北、足利義満の登場までを記している。
一貫して書かれているのは治世の在り方であり、君臣の道理である。さらには軍略や人間としての有り様まで説かれている。
「もしや太平記なかりせば」である。
太平記にもっとも影響を受けたといわれる君主の一人が備前岡山藩の藩祖である池田光政公であった。池田光政公は身近に太平記に精通した人物を置いて藩政を行った。
岡山人物銘々伝を語る会では、杉嘉夫さんが「池田光政と『太平記読み』横井養元」の話を昨年(平成28年)5月の例会で話をされた。もとは備前金川藩士であった横井養元が招かれて、池田公に太平記を講釈したというのである。江戸時代随一の名君と謳われた池田光政公の思想形成に「太平記」が重要な役割を果たしたというのである。
江戸時代には「太平記秘伝理尽抄」という、太平記の解説書が広く普及して一般にも読まれたそうであるし、各地に「太平記読み」と言う講釈師があいて、これが歌舞伎の原型になったとも言われている。
もしや太平記と言う書物が書かれていなかったら、池田光政公やそれに続く諸侯の徳政も無かったのかもしれない。
太平記の借者とされる小島法師は児島高徳その人ではないか?との論議もこれまで盛んに行われてきた。
小島は児島に起因しているので、太平記の作者が備前の児島に何らかのかかわりのある人物であることは間違いないであろう。だからこそ、太平記に書かれ、太平記にしか記述がないとされて抹殺説まで唱えられた児島高徳の所業が極めて詳細に描かれ、関わる備前の武将や人士の事柄についても詳しく述べられているのであろう。
山伏の総本山になっている頼仁親王の血筋を引く、五流尊龍院に関わる人物が著者であっただろうとも言われている。
いずれにせよ、太平記に著述され引用されている様々な漢籍や和漢の逸話などを考えると相当の当時としては最高度の学識を備えた人物による著述であることは間違いなかろう。
戦後はぱったりと途絶えたかのごとき「太平記」であるが、もう一度その内容に触れてみるべき時に来ているように思う。また、小島法師その者かとされる、児島高徳についてももう一度スポットを当ててみるべき時が来ているのではと思う。
筆者の故郷は備前児島である。備前岡山では名刹とされる児島の由加山蓮台寺が菩提寺で幼いころにはよく遊びに行った。現在倉敷市林にある熊野神社と五流尊龍院はもとは由加山と一体のものであったと言われる。
備前を平定した戦国武将宇喜多直家も児島高徳の子孫であると言われる、さらにその先祖をたどれば、アメノヒボコに至る。日本列島の古代国家に重大な役割を演じたのが吉備国であり中でも備前児島の役割は重要であった。
国つくり神話の中では「吉備の児島」として登場する児島は、瀬戸内海航路の最も中心に位置し、東西の交流の重要な拠点であった。児島を制するものが瀬戸内海を支配する力を有した時代でもあろう。吉備の穴海を挟んだ吉備国は、肥沃で様々な産業で栄えたと地であった。宗教や精神文化も栄えた地域である。
児島高徳は一時、「悪党」とも呼ばれ、卑賤な者ともされて来た。しかしそれは、その後落ちぶれていった南朝を支えた人物だったからであろう。
あの、院庄の桜の木を刻んで記されたという「十字詩」の物語が有名であるが、越王句践に忠誠を尽くした句践の故事を引用するなどと言うことは、中国の古典に通じるかなりの素養を持たなければ詩文を書くことが出来なかったであろう。
児島高徳はかなりの学識の人物であったと見なければならない。
「太平記」に引用された夥しい漢籍その他の故事は、当時最高の学識を集めた人物の著作になることは「太平記」を読んでみればよくわかるのである。
この6月27日には同じく私の所属する吉備歴史探訪会でも同様の話をする予定になっているが、特に関心がある方があれば聞きに来てほしい。
8月が岡山人物銘々伝を語る会での講演である。
今はまだ、話を纏めている段階である。ある方からは貴重な資料を見せていただいたりそのコピーを戴いたりした。感謝したい。「児島高徳と太平記」に関わる話題やテーマに関心のある方の連絡をお待ちしています。
連絡は吉備楽土(山田)まで
2017年6月3日土曜日
岡山人物銘々伝を語る会平成29年6月例会のご案内
平成29年5月31日
「岡山人物銘々伝を語る会」
第130回(6月例会)
のお知らせ
世話人代行 久井 勲
5月の第129回例会は、
高橋義雄さんに「山田方谷の師 丸川松隠」について語っていただきました。岡山で聖人と讃仰されている人物の、そのまた師にあたる人物の人となりということで、かなりご関心をいただきました。ありがとうございます。本題では、“この師にしてこの弟子あり”という逸話が多く紹介されました。 確かに、人の系譜では、寛政期以降は、優秀な人材が、学問のバラエティーさの点でも人脈の点でも綺羅星のごとく登場してきています。松隠がその経験の中で築きあげてきた学徳があったればこそ、方谷も遊学の実をあげることができたのではないでしょうか。この時期以降、儒学はやがて、経国済民のニーズに応えていきます。これは期せずして-----英国で倫理学者から経済学が生まれていったのと似ています(学説展開では、日本が少し遅れますが、実務取引では、米の先物市場のように日本の方が進んで発生するのもありました)。これは高橋さんの領域になりますが、これら経国済民の実学が花開き、岡山県で銀行成立の条件が早期に整備されていったということになるのでしょう。 高橋さん、ありがとうございました。
さて次回例会は、下記のとおりとなります。
記
平成29年6月16(金) 第130回例会
日時6月16(金)18:00~20:00 (通例第3金曜日)
会場:岡山県立図書館 サークル活動室
テーマ:「日本初の飛行機を作った医師 岸一太」
講師:
市久会 坪井章さん
現在の岡山市北長瀬に生まれた岸一太(M30 ~S12)は岡山医科専門学校卒業後ドイツに遊学、耳鼻咽喉科医となり、東京の築地で開業した。大正4年、自ら開発した発動機にモーリス・ファルマンの機体を付けた飛行機「つるぎ号」を制作、続いて初の国産飛行機「第二つるぎ号」を制作、医師を辞め大正6年赤羽航空機製作所を設立した。この会社は事業拡大に失敗して倒産(大正10年 )するが、その後の日本の飛行機製造に大きな影響を与えた。
今年は岸一太が赤羽飛行場を作って丁度100周年を迎える記念すべき年です。日本の航空機製造の歴史に貴重な足跡を残した、郷土出身の医師、岸一太について語ります。
今年は岸一太が赤羽飛行場を作って丁度100周年を迎える記念すべき年です。日本の航空機製造の歴史に貴重な足跡を残した、郷土出身の医師、岸一太について語ります。
会は山陽新聞情報ひろばにて案内予定です。(通常第2木曜日掲載予定~第3木曜日になることもあります。)お誘いあわせの上ご参加ください。 (上記通常例会の件、お手数ですが、下記にて出欠をお知らせ下さいますようお願いいたします)
「岡山人物銘々伝を語る会」(山田)
FAX:086-806-2525 TEL:090-1033-3327
平成29年6月(第130回例会) ご出席 ご欠席
氏 名 :
岡山人物銘々伝を語る会 今後の予定
回
|
月 日
|
テーマ | 講師 | 会場 | 備考 |
131
|
7月21日
|
「神戸事件と滝善三郎」
|
杉 嘉夫
|
県立図書館サークル活動室2
|
|
132
|
8月18日
|
「児島高徳」
|
山田良三
|
県立図書館サークル活動室1
|
|
133
|
9月15日
|
「児島虎次郎」
|
久井 勲
|
県立図書館サークル活動室2
|
|
134
|
10月20日
|
「美作聖人森本慶三、師弟の絆」
|
近藤泰宏
|
県立図書館サークル活動室1
|
|
135
|
11月17日
|
(懇親会)
|
(シティホテル厚生町)
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136
|
12月15日
|
「今井田清徳」
|
難波俊成
|
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137
|
1月19日
|
||||
138
|
2月16日
|
||||
139
|
3月16日
|
131回 7月21日 「神戸事件と滝善三郎」 講師:杉 嘉夫 幕末の神戸、備前藩兵が隊列を横切ったフランス人水兵を負傷させたことで引き起こされた神戸事件。隊長の滝善三郎が切腹することで収拾した。諸外国に日本の切腹を印象付けた事件となった。その瀧善三郎の墓は東山墓地の一角にあります。備前岡山池田藩の歴史に詳しい杉嘉夫さんに語っていただきます。
132回 8月19日 「児島高徳」そのルーツと後孫 講師:山田良三 後醍醐天皇に忠誠を尽くしたことで知られる、忠臣児島高徳。太平記にのみその記述があることから「児島高徳抹殺説」も明治の時代に起こりました。また、伝えられる伝記をみれば新羅の王子アメノヒボコの子孫ともされ、またその子孫が宇喜多の一族ともいわれていいます。太平記の作者とされる小島法師その人ではとの説もあります。そのあたりも含めて語っていきたいと思っています。
133回 9月15日 「児島虎次郎」 講師:久井勲
大原美術館の美術品の蒐集など日本の美術史に多大な貢献をした児島虎次郎について語っていただきます。
134回 10月20日
「美作聖人森本慶三、師弟の絆」 講師:近藤泰宏 津山の教育や文化の振興に貢献した森本慶三氏、その思想精神に大きな影響を及ぼし生涯交友のあったのが内村鑑三であった。 また森本慶三の弟子についてもお話しいただく。/近藤泰宏さん
136回 12月15日
「今井田清徳」:関西中学の出身、逓信省官僚から朝鮮総督府政務総監など歴任、宇垣一成の懐刀と言われた。
/難波俊成先生
引き続き以下の提案をいただいています。(開催月次は現在調整中)
・「平賀元義」 講師:大濱文男 幕末から明治に至る時代に、備前、備中、美作の現在の岡山県からは偉大な文化人を多数輩出しています。平賀元義はその中でも代表的な一人です。国学者、歌人、書家としても知られる平賀元義の人となりや業績について大濱文男さんに語っていただきます。(6月の予定でしたが講師の都合で10月以降に変更いたします。)
・石井十次 講師:安木義忠
※皆様からのテーマや講師のお申し出や提案をお待ちしていますのでよろしくお願いいたします。
・通常例会は毎月第3金曜日の18:00~20:00です。会場は通常は岡山県立図書館二階のサークル活動室です。(県立図書館休館日の時は会場変更)
・山陽新聞木曜日の[情報ひろば」の欄(通常は一週前の第2木曜日)に掲載依頼しています。ご参照ください。
・参加希望の方は事務局にお申込みください。席に余裕がある場合は当日参加も可能です。ただし資料の準備は参加の申-し込をいただいた方を優先していますのでご了承ください。
携帯:090-1033-3327(山田) そのほか山田の個人メール LINE FacebookなどでもOKです。
・平成29年度年会費会員募集 引き続き新年度の会員募集中です。あわせて賛助会員も募集いたします。まだの方はぜひご登録ください。
1.正会員 :年会費は5000円で毎回の参加費が無料になります。また参加できない時は当日の資料を提供させていただいています。(メールのみの案内の方は年会費1000円引き。) 月払い制度もあります。
2.賛助会員:趣旨に賛助して毎回の例会に参加される方には毎回の例会案内を差し上げます。
①メール会員(会費無料) ②郵送での案内(年間1200円、分納可) ③FAX会員(年間600円)
④案内不要の方(毎月の案内は致しませんが特別講師の時など年何回かご案内させていただきます 会費無料)
2017年3月6日月曜日
岡山人物銘々伝を語る会3月例会のご案内
平成29年3月2日
「岡山人物銘々伝を語る会」第127回3月例会のお知らせ
世話人代行 久井 勲
2月の第126回例会は、近藤泰宏さん(当会会員、津山歴史人物研究会代表)に、「箕作阮甫~箕作阮甫に学ぶ家族の価値~」について語っていただきました。なかなか2歴史を語る“というのは、その人物の事績や人的関係や書き物といった事柄が中心になってきがちですが、近藤さんの場合は、ちょっとちがっていました。それらの事柄の依ってき来るところは何か、しかもそれらを”家族“というもっとも、外からは分かりにくい領域からアプローチしようとするものでした。これこそ、人物銘々伝の趣旨に近いものといえましょう。“歴史は女が作る”という言葉がありますが、“歴史は家族が作る”も歴史の実相を知るうえで重要なポイントと思えます。
レジメにいい言葉がありました。「家和して万事成る。家庭の原動力は愛。家庭は人類愛を教え学ぶ学校である」 現代人はこれを忘れがちになっているのではと考えさせられました。近藤さんの、いつもながらの多角的な観点からの“語り”は引きこまれました。歴史の中の人間、それは当たり前のことですが、涙と愛と人間臭さといった有機的な存在として人間の実相に迫ることができました。ありがとうございました。
さて次回例会は、下記のとおりとなります。
記
平成29年3月17(金) 第127回例会
日時:3月17(金)18:00~20:00 (通例第3金曜日)
会場:岡山県立図書館 サークル活動室
テーマ:「小林岩吉 閑谷黌岡山分校柔道教師」
講師 :
難波俊成氏 (会員 閑谷学校研究委員会委員)
閑谷黌(閑谷学校)に岡山分校は、明治42年に岡山市広瀬町に開校、明治44年に大供に移転、大正2年に私立中学第二閑谷黌として独立、翌年市立中学岡山黌と改称、大正7年に現在の岡山市浜に移転、昭和8年に廃校となるまで24年間、岡山の中等教育に貢献した。スポーツが盛んで剣道部は何度も全国優勝したそうである。今回はこの学校の柔道教師小林岩吉について、閑谷学校研究委員会の委員をなさっている難波俊成先生に話をしていただきます。
会は山陽新聞情報ひろばにて案内予定です。(3月9日木曜日掲載予定)お誘いあわせの上ご参加ください。 (上記通常例会の件、お手数ですが、下記にて出欠をお知らせ下さいますようお願いいたします)
平成29年 3月
日
「岡山人物銘々伝を語る会」(山田)
FAX:086-806-2525 TEL:090-1033-3327
平成29年3月(第127回例会) ご出席 ご欠席
氏 名 :
岡山人物銘々伝を語る会 今後の予定
回
|
月日 |
テーマ |
講師 |
会場 |
備考 |
128
|
4月
21日
|
夏目漱石の岡山滞留
|
熊代正英
吉備路文学館副館長
|
県立図書館サークル活動室2
|
|
129
|
5月
19日
|
山田方谷の師「丸川松隠」
|
高橋義雄
|
県立図書館サークル活動室1
|
|
130
|
6月
16日
|
「平賀元義」
|
大濱文男
|
県立図書館サークル活動室1
|
|
131
|
7月
21日
|
「神戸事件と滝善三郎」
|
杉 嘉夫
|
|
|
132
|
8月
19日
|
「児島高徳」
|
山田良三
|
|
|
128回 4月21日 夏目漱石の岡山滞留 熊代正英 吉備路文学館副館長 文豪夏目漱石が岡山に滞留していたことは最近岡山でもよく話題にあげられるようになってきました。「坊ちゃん」ゆかりの松山市などでは、漱石についての研究や勉強会なども活発になされていると聞きます。岡山でも、岡山滞留時代に漱石はどんなことをしていたのか?どんな記録が残っているのかなど漱石について研究や勉強をしたいという声が高まってきました。そこで今回、吉備路文学館副会長の熊代正英先生にお話を伺うことといたしました。
129回 5月19日 山田方谷の師「丸川松隠」 高橋義雄 備中松山藩の藩政改革で多大な貢献をした山田方谷先生の師匠が丸川松隠先生です。丸川先生の人となりやその教えに、山田方谷と言う偉大な改革者を生んだ根っこがあるのではと思います。また、備中と言う風土にも着目です。金融史や思想史的な側面から山田方谷やその弟子、その師弟関係を研究されている高橋義雄さんに語っていただきます。
130回 6月21日 「平賀元義」 講師:大濱文男 幕末から明治に至る時代に、備前、備中、美作の現在の岡山県からは偉大な文化人を多数輩出しています。平賀元義はその中でも代表的な一人です。国学者、歌人、書家としても知られる平賀元義の人となりや業績について大濱文男さんに語っていただきます。
131回 7月21日 「神戸事件と滝善三郎」 講師:杉 嘉夫 幕末の神戸、備前藩兵が隊列を横切ったフランス人水兵を負傷させたことで引き起こされた神戸事件。隊長の滝善三郎が切腹することで収拾した。諸外国に日本の切腹を印象付けた事件となった。その瀧善三郎の墓は東山墓地の一角にあります。備前岡山池田藩の歴史に詳しい杉嘉夫さんに語っていただきます。
132回 8月19日 「児島高徳」そのルーツと後孫 講師:山田良三
太平記に登場する後醍醐天皇に忠誠を尽くしたことで知られる、忠臣、児島高徳。太平記にのみその記述があることから「児島高徳抹殺説」も明治の時代に起こりました。果たして実在の人物だったのか?また、伝えられる伝記をみれば新羅の王子アメノヒボコの子孫ともされ、またその子孫が宇喜多の一族ともいわれていいます。太平記の作者とされる小島法師とは児島高徳その人ではとの説もあります。そのあたりも含めて語っていきたいと思っています。
日程は未定ですが以下の提案をいただいています。
・「日本初の飛行機を作った医師 岸一太」市久会 坪井章さんより
・「美作聖人森本慶三とその師内村鑑三との交わり」近藤泰宏さん
そのほかにもいくつか申し出をいただいています。予定を調整しながら順次テーマを決めて行きたいと思います。「語る会」は参加者みんなで語りながら進める会として運営しています。皆様からのテーマや講師のお申し出や提案をお待ちしていますのでよろしくお願いいたします。
・通常例会は毎月第3金曜日の18:00~20:00です。会場は通常岡山県立図書館です。県立図書館休館日など変更になることもあります。参加の際は事前に確認をお願い致します。
・行事予定を山陽新聞木曜日の[情報ひろば」の欄(通常は第2木曜日)に掲載依頼しています。ご参照ください。
・参加希望の方は事務局にお申込みください。席に余裕がある場合は当日参加も可能です。ただし資料の準備は参加の申-し込をいただいた方を優先していますのでご了承ください。
-申し込み事務局(山田)まで
メール:okayamajinbutsu@gmail.com
又は yamada.ryozo@gmail.com
FAX:086-806-2525
携帯:090-1033-3327(山田)
・毎月の行事案内を郵送、FAX、Eメール等の方法でご案内しています。案内ご希望の方はお申し出ください。
2017年2月12日日曜日
安本美典氏講演会(続き)
安本美典氏の講演会を聞いての感想を書いて今したが、所要が多く、執筆が中断していました。続きを書いていきます。
安本氏の歴史研究手法はユニーク、統計学などを駆使しているので、歴史の専門的研究者にしてみれば、いかにも「如何わしい」と異論のあるところ、当然だと思う。まあ、もともと素人の私などには面白い見方で、注目するが専門家にしてみれば「突っ込みどころ満載」なのであろう。
手法はともかくも、私にはとても注目の「説」であった。
安本氏は「邪馬台国は福岡県にあった―ありえない畿内」と題して講演を始めた。
まず、白鳥庫吉の「卑弥呼=天照大御神」説と、和辻哲郎の「邪馬台国東遷説」を引用しながら、独自の文献年代論を展開して、卑弥呼は天照大御神であり、魏志倭人伝にある邪馬台国は今の福岡県であると断定していった。
また、地名学者の鏡味完二氏の著「日本の地名」から
「九州と近畿のあいだで、地名の名付け方が実によく一致している。これは単に民族の親近と言う以上に、九州から近畿への大きな集団の移動があったことを思わせる。」という一文を引用して、「邪馬台国東遷説」との重なりを指摘した。
さらに安本氏は、卑弥呼の宮殿のあったところは福岡県の甘木市平塚の平塚川添遺跡がそれではないかと言う。
平塚川添遺跡は佐賀県の吉野ケ里遺跡と同程度かそれ以上の規模を持つ環濠集落であったことが明らかになったと、1992年12月の新聞報道があった。高倉洋彰西南学院大学教授は「吉野ケ里遺跡と同様な性格を持った大規模な拠点集落で、邪馬台国時代の一つのクニの中心遺跡と思われる。弥生後期には関西を含めて拠点的な大規模集落は吉野ケ里を含めて2,3例で、同時期の日本最大級の環濠集落とみていいい」と発言している。
最後に安本氏は、卑弥呼の墓は福岡県の平原王墓古墳であろうと結論付けられた。
平原王墓古墳は昭和後期の考古学者原田大六氏が生涯をかけて調査研究した。原田氏は小学校教員をしていた妻のイトノさんの助けのもと研究を続けた。昭和60年に68歳で亡くなった夫の調査研究書を平成5年に自費出版したが重さが8.5キロもある大書で夫の原稿料や自分の退職金、貯金をはたいて5000万円かけて出版したという。何故かくも大きな本を作ったのかと言うと、平原王墓古墳から出土した、直径46センチを超える巨大な銅鏡の原寸写真に折り目を入れることが恐れ多くてこのような大きな本になったと言われている。
この大鏡と言うのが、日本列島で出土した鏡の中でも最大のものでそれが5面も出たというのである。
この大鏡の模様が太陽の光彩を表すような模様で、実は先日岡山県立博物館で開催されていた「国立博物館里帰り展~岡山県内で出土した出土品で国立博物館に所蔵されている出土品を展示した展示会」で、岡山県内最大の出土数、全国でも9番目に多い丸山古墳の出土の鏡の中にも同様の模様の鏡があり、その鏡の説明をしてくれた学芸員の佐藤さんが「これは太陽の光彩を表しているものと考えられる」と教えていただいたばかりだった。それで女王卑弥呼が太陽光を映して祭祀をした鏡だと考えても不思議でないと思わされたのである。
場所は糸島半島である。博多湾の西、対岸に半島を望む丘の上に王墓古墳はある。
当日講演会場で安本氏の出版物が販売されていたが「卑弥呼の墓はすでに発掘されている それは平原王墓古墳である」と言う本が出版されたばかりで、最後の一冊が販売されていたので小生も買い求めて来た。原寸大では勿論ないがこの本にカラー刷りの写真が掲載されていたが、見事なものである。
もしやこの墓が卑弥呼の墓だとして、何故王宮があったと見做される朝倉市の平塚川添遺跡からは50キロ以上も離れたところに葬られたのか?という疑問については、その後の大和の王墓も王宮の所在地からかなり離れた場所に葬られている場合が多いとして答えておられた。
安本氏の話には無かったが、卑弥呼は半島の伽耶あるいは百済出身という説もある。何らかの半島南部諸国との関係があったとすれば玄界灘を望む糸島に王墓が設けられたとしても意味があるかもしれない。
講演後、岡山の歴史研究者との対談の場が設けられた。「邪馬台国吉備説」と「邪馬台国九州説」の討論の場となるかと期待したが、時間の関係もありそれぞれの主張するところを述べたことで対話は終わった。しかし、今回の講演会と対話の時間は有意義だった。
今回の対話の話し手の一人岡将男さんが「吉備邪馬台国東遷説」を唱えているが、東遷と言うことにおいては一致してる。
歴史作家の関裕二氏が「吉備=物部」説を唱えている。最近の関裕二氏の著作では海洋氏族の物部氏が東遷して大和の国づくりが始まったとの説を唱えている。
今回安本美典氏の「邪馬台国九州説」との整合性があるのではとの私の直観である。
小生も買い求めた「秦氏の研究」の著者、大和岩雄氏は魏志倭人伝の「女王国」と「邪馬台国」は別だったのではと述べている。魏志倭人伝の女王卑弥呼の所在地はどう読んでも九州であろうというのである。
この辺りは真実なのではないか!
女王卑弥呼が天照大御神であり。それから5代目の神武天皇が東遷したとすればこのあたりの辻褄はあってくる。
九州のアマテラスの一族がその後畿内に移動したとして。アマテラスの一族の前に大和に登った一群がスサノオの子孫饒速日一族、すなわち物部の一族だったというのは時代の変遷の事実とは矛盾しない。
安本氏の邪馬台国九州説は批判も多い。大和説からすれば、突っ込みどころのの多い部分がたくさんあるという。
まだまだ論争は続いて行くと思うが、小生の中では何か核心めいたものが出来て来たようにも思う。
「吉備とは何か?」と言うことをメインテーマにしながら、邪馬台国と卑弥呼の史実も検証していきたい。
半島や大陸とのかかわりはこれからも重要なテーマとなるであろう。
アメノヒボコの子孫とされる三宅一族、児島高徳や宇喜多一族などとの関りも興味深い。
これからも思いつくところを記事にしていきたいと思っている。
安本氏の歴史研究手法はユニーク、統計学などを駆使しているので、歴史の専門的研究者にしてみれば、いかにも「如何わしい」と異論のあるところ、当然だと思う。まあ、もともと素人の私などには面白い見方で、注目するが専門家にしてみれば「突っ込みどころ満載」なのであろう。
手法はともかくも、私にはとても注目の「説」であった。
安本氏は「邪馬台国は福岡県にあった―ありえない畿内」と題して講演を始めた。
まず、白鳥庫吉の「卑弥呼=天照大御神」説と、和辻哲郎の「邪馬台国東遷説」を引用しながら、独自の文献年代論を展開して、卑弥呼は天照大御神であり、魏志倭人伝にある邪馬台国は今の福岡県であると断定していった。
また、地名学者の鏡味完二氏の著「日本の地名」から
「九州と近畿のあいだで、地名の名付け方が実によく一致している。これは単に民族の親近と言う以上に、九州から近畿への大きな集団の移動があったことを思わせる。」という一文を引用して、「邪馬台国東遷説」との重なりを指摘した。
さらに安本氏は、卑弥呼の宮殿のあったところは福岡県の甘木市平塚の平塚川添遺跡がそれではないかと言う。
平塚川添遺跡は佐賀県の吉野ケ里遺跡と同程度かそれ以上の規模を持つ環濠集落であったことが明らかになったと、1992年12月の新聞報道があった。高倉洋彰西南学院大学教授は「吉野ケ里遺跡と同様な性格を持った大規模な拠点集落で、邪馬台国時代の一つのクニの中心遺跡と思われる。弥生後期には関西を含めて拠点的な大規模集落は吉野ケ里を含めて2,3例で、同時期の日本最大級の環濠集落とみていいい」と発言している。
最後に安本氏は、卑弥呼の墓は福岡県の平原王墓古墳であろうと結論付けられた。
平原王墓古墳は昭和後期の考古学者原田大六氏が生涯をかけて調査研究した。原田氏は小学校教員をしていた妻のイトノさんの助けのもと研究を続けた。昭和60年に68歳で亡くなった夫の調査研究書を平成5年に自費出版したが重さが8.5キロもある大書で夫の原稿料や自分の退職金、貯金をはたいて5000万円かけて出版したという。何故かくも大きな本を作ったのかと言うと、平原王墓古墳から出土した、直径46センチを超える巨大な銅鏡の原寸写真に折り目を入れることが恐れ多くてこのような大きな本になったと言われている。
この大鏡と言うのが、日本列島で出土した鏡の中でも最大のものでそれが5面も出たというのである。
この大鏡の模様が太陽の光彩を表すような模様で、実は先日岡山県立博物館で開催されていた「国立博物館里帰り展~岡山県内で出土した出土品で国立博物館に所蔵されている出土品を展示した展示会」で、岡山県内最大の出土数、全国でも9番目に多い丸山古墳の出土の鏡の中にも同様の模様の鏡があり、その鏡の説明をしてくれた学芸員の佐藤さんが「これは太陽の光彩を表しているものと考えられる」と教えていただいたばかりだった。それで女王卑弥呼が太陽光を映して祭祀をした鏡だと考えても不思議でないと思わされたのである。
場所は糸島半島である。博多湾の西、対岸に半島を望む丘の上に王墓古墳はある。
当日講演会場で安本氏の出版物が販売されていたが「卑弥呼の墓はすでに発掘されている それは平原王墓古墳である」と言う本が出版されたばかりで、最後の一冊が販売されていたので小生も買い求めて来た。原寸大では勿論ないがこの本にカラー刷りの写真が掲載されていたが、見事なものである。
もしやこの墓が卑弥呼の墓だとして、何故王宮があったと見做される朝倉市の平塚川添遺跡からは50キロ以上も離れたところに葬られたのか?という疑問については、その後の大和の王墓も王宮の所在地からかなり離れた場所に葬られている場合が多いとして答えておられた。
安本氏の話には無かったが、卑弥呼は半島の伽耶あるいは百済出身という説もある。何らかの半島南部諸国との関係があったとすれば玄界灘を望む糸島に王墓が設けられたとしても意味があるかもしれない。
講演後、岡山の歴史研究者との対談の場が設けられた。「邪馬台国吉備説」と「邪馬台国九州説」の討論の場となるかと期待したが、時間の関係もありそれぞれの主張するところを述べたことで対話は終わった。しかし、今回の講演会と対話の時間は有意義だった。
今回の対話の話し手の一人岡将男さんが「吉備邪馬台国東遷説」を唱えているが、東遷と言うことにおいては一致してる。
歴史作家の関裕二氏が「吉備=物部」説を唱えている。最近の関裕二氏の著作では海洋氏族の物部氏が東遷して大和の国づくりが始まったとの説を唱えている。
今回安本美典氏の「邪馬台国九州説」との整合性があるのではとの私の直観である。
小生も買い求めた「秦氏の研究」の著者、大和岩雄氏は魏志倭人伝の「女王国」と「邪馬台国」は別だったのではと述べている。魏志倭人伝の女王卑弥呼の所在地はどう読んでも九州であろうというのである。
この辺りは真実なのではないか!
女王卑弥呼が天照大御神であり。それから5代目の神武天皇が東遷したとすればこのあたりの辻褄はあってくる。
九州のアマテラスの一族がその後畿内に移動したとして。アマテラスの一族の前に大和に登った一群がスサノオの子孫饒速日一族、すなわち物部の一族だったというのは時代の変遷の事実とは矛盾しない。
安本氏の邪馬台国九州説は批判も多い。大和説からすれば、突っ込みどころのの多い部分がたくさんあるという。
まだまだ論争は続いて行くと思うが、小生の中では何か核心めいたものが出来て来たようにも思う。
「吉備とは何か?」と言うことをメインテーマにしながら、邪馬台国と卑弥呼の史実も検証していきたい。
半島や大陸とのかかわりはこれからも重要なテーマとなるであろう。
アメノヒボコの子孫とされる三宅一族、児島高徳や宇喜多一族などとの関りも興味深い。
これからも思いつくところを記事にしていきたいと思っている。
2017年2月11日土曜日
安本美典さんの話を聞きました
1月8日岡山駅西口にある国際交流センターで、岡山歴史研究会主催の特別講演会がありました。
今回、講師は安本美典氏、言わずと知れた邪馬台国九州説の旗頭です。
「邪馬台国が福岡以外の確率は99.9%である」と言い切っておられます。
その安本美典先生、岡山県、高梁高校出身であることは今回初めて知りました。お生まれは満州、満州から引き揚げてすまれたのが高梁市に近い美袋、ここから高梁高校に通われたようです。京都大学文学部に進まれて、日本古代史も専攻されていたようですが、どちらかと言えば専門は数理言語学、産業経済大学教授を経られて、今は日本古代史研究に専念されておられる由。
今回岡山での講演は、初めてとのこと。邪馬台国九州説と大和説の論争は聞き及んでいたが、ご本人の直接の話を聞くのは今回が初めて、おそらく大半の参加者の皆さんもそうだったと思う。
面白かったのは安本先生の論が数理統計学的な論証で、これまでの歴史学の手法とは全く違うのでびっくり。
続きを書く予定でしたが、所要に追われていました。続きを別記事で書いていきますのでよろしくお願いいたします。
今回、講師は安本美典氏、言わずと知れた邪馬台国九州説の旗頭です。
「邪馬台国が福岡以外の確率は99.9%である」と言い切っておられます。
その安本美典先生、岡山県、高梁高校出身であることは今回初めて知りました。お生まれは満州、満州から引き揚げてすまれたのが高梁市に近い美袋、ここから高梁高校に通われたようです。京都大学文学部に進まれて、日本古代史も専攻されていたようですが、どちらかと言えば専門は数理言語学、産業経済大学教授を経られて、今は日本古代史研究に専念されておられる由。
今回岡山での講演は、初めてとのこと。邪馬台国九州説と大和説の論争は聞き及んでいたが、ご本人の直接の話を聞くのは今回が初めて、おそらく大半の参加者の皆さんもそうだったと思う。
面白かったのは安本先生の論が数理統計学的な論証で、これまでの歴史学の手法とは全く違うのでびっくり。
続きを書く予定でしたが、所要に追われていました。続きを別記事で書いていきますのでよろしくお願いいたします。
2017年1月14日土曜日
吉備の歴史への取り組み
しばらく更新を怠っていました。
復活します。
岡山人物銘々伝を語る会
吉備歴史探訪会
岡山歴史研究会
主に吉備楽土(山田良三)の活動舞台です。
今年は岡山人物銘々伝を語る会で「児島高徳」を取り上げようと思っています。
現在資料を収拾と読み込みを始めています。
先日児島郷内の井上さん宅に伺い、様々な資料を見せていただきました。
郷内と言えば林の五流尊瀧院と熊野神社、児島山伏の本拠の地、児島高徳誕生の地とされています。五流尊瀧院には児島高徳誕生の地の碑があります。
ブログ主山田の誕生地は現在の倉敷市児島白尾、由加山蓮台寺の檀家に生まれました。由加山まで徒歩で30分くらいのところにあります。小さいことはよく由加山の神社やお寺に遊びに行ったものです。
1月の3日に初詣に由加山に行きましたがすごい参拝客で驚きました。我々の小さい事にはあんなにさびれていたのにと思います。
今は由加神社本宮と言います。宮司が同級生で中学校時代は一緒に通った間柄ですが、その宮司が金毘羅山との両参りの復活をと始めた由加山の火渡り大祭が昨年30周年を迎えたということで知り合いの宗教新聞の編集長と取材に同行して行きました。
この火渡りの大祭も以前何度か行ったことがありますが、ずいぶん参拝者が増えたものです。
昨年は大河ドラマ「真田丸」で、由加山の山上の多宝塔(県の重文、県内一の大きさを誇ります)
の脇に「真田幸村公頌徳碑」があることを紹介しました。
私の生まれ故郷の児島は繊維の街、今はジーンズの街として有名になっています。その繊維産業の起こりが、江戸時代栄えた讃岐の金毘羅山と備前児島の由加山の両参りの参拝客に真田紐を販売したのが始まりです。
児島は古来から綿花の栽培が盛んで、綿糸を製造していました。その綿糸を利用して真田紐を織って参拝者に販売したところこれが評判になり、地元児島の産業になったのです。
真田が九度山に蟄居中内職として始めた真田紐です。だれがどのようにして真田紐の製造技術を児島の人々に教えたのかはわかりませんが、真田紐あっての児島、真田家あっての真田紐ですから、昭和18年ちょうど戦時中ですが地元の繊維業者たちによって建てられたようです。
その由来はともかく「真田のおかげ」で現在の児島ありですので。やはり今でも真田家には感謝しないといけません。
何故児島に真田紐が?実は私の大学時代の先輩に村井さんという方があります。現在山口県の周南市で造り酒屋を営んでおられます。この村井先輩がやはり歴史が趣味でいろいろ地元の歴史クラブに参加して活動しておられるようです。この先輩がしばらく前に由加山に参拝したとの便りをくれました。それからこの先輩の自宅近くに真田の子孫がおられるとの情報でした。
吉備の児島~現在は児島半島となり本州と陸続きですが、かつて源平の合戦やそのしばらく後までは児島は「島」であって、瀬戸内海を航海する船も現在の児島の北側を航行していました。
今でもそうですが、児島は瀬戸内海航路のほぼ中央、瀬戸内海は干満の激しいところですから、東西を航行する船は海の満ち欠けに乗ってすなわち潮の流れに従って航海すれば丁度児島の当りにたどり着くわけです。潮目の代わるあいだ児島の港に船を停めて、そこから児島の名刹由加山に参拝した人たちも多かった模様です。由加山の瀬戸内海側の港が田の口港です。ここには四国は讃岐の金毘羅山からの参拝客や大阪からの商人や瀬戸内海各地の商人や船乗りが船を降り立ち由加山に向かいました。田の口の港には立派な鳥居が建っています。
江戸時代の名浮世絵師広重の画いた全国の名所絵図にも田の口港を描いた絵があります。(岡山県立図書館に5年前に実物が収蔵され、実物を見せてもらいに行きました。)
田の口から由加山までは約1時間の道のりです。当時としてはさほど遠い距離ではありません。
由加大権現は瀬戸内海を航海する商人や船乗りの崇敬を集め瀬戸内海沿岸を中心に全国に今でも52の末社があるそうです。私は九州宇佐八幡宮に参拝の折、そこにも由加神社がまつられているのをみて驚いたものです。
由加山には境内に多くの玉垣が残っていますが多くが大阪の商人の名が刻まれています。
由加神社の手水舎の脇の玉垣に有名な江戸の商人、塩原太助の奉納した玉垣があります。遥か江戸にまでその名の轟いていた由加山大権現だったのですね。
ちなみに金毘羅山にお参りした話の残る森の石松、彼はどうやら金毘羅山にはお参りしたものの由加大権現にはお参りしなかったようで、彼がその後不運だったのは両参りで由加山にお参りしなかったからでは・・・という話もあるようで~それは定かではありませんが、両参りが盛んだったころの話です。
吉備の児島は古代から瀬戸内海でも重要な島として、古事記日本書紀の国生み神話にも登場します。今でも瀬戸大橋で四国に通じる交通の要衝ですが、古代の瀬戸内海の航海をする人々にとっては何より重要な拠点の島であり。東西い通じ文化も醸成されていったものだと思います。
藤戸の瀬戸を隔てた陸側の吉備国も瀬戸内海航路の児島があればこそ栄えて行ったともいうことができます。
そんな児島が故郷の吉備楽土(山田)です。
その歴史の中で南朝の忠臣として太平記に記された武将「児島高徳」
関心を持たざるを得ません。
地元にいながらあまり多くのことを知らないのが児島高徳です。
それは児島高徳という武将が「太平記」にしか登場しないからだといわれています。明治のころには「不在論」も登場したようです。逆に「太平記」の著者である小島法師は児島高徳その人であるとも言われています。事実はどうなのでしょうか?
「太平記」は江戸の初期多くの大名家においても読まれ、「太平記読み」という職もあったといわれます。備前岡山の池田光政公も太平記を読み、政治の指南とされたそうです。
ちょっと興味がわいてきました。
これから関心をもって読んだり見たりしたことからブログ書いてみようと思っています。
以後よろしくお願いいたします。
復活します。
岡山人物銘々伝を語る会
吉備歴史探訪会
岡山歴史研究会
主に吉備楽土(山田良三)の活動舞台です。
今年は岡山人物銘々伝を語る会で「児島高徳」を取り上げようと思っています。
現在資料を収拾と読み込みを始めています。
先日児島郷内の井上さん宅に伺い、様々な資料を見せていただきました。
郷内と言えば林の五流尊瀧院と熊野神社、児島山伏の本拠の地、児島高徳誕生の地とされています。五流尊瀧院には児島高徳誕生の地の碑があります。
ブログ主山田の誕生地は現在の倉敷市児島白尾、由加山蓮台寺の檀家に生まれました。由加山まで徒歩で30分くらいのところにあります。小さいことはよく由加山の神社やお寺に遊びに行ったものです。
1月の3日に初詣に由加山に行きましたがすごい参拝客で驚きました。我々の小さい事にはあんなにさびれていたのにと思います。
今は由加神社本宮と言います。宮司が同級生で中学校時代は一緒に通った間柄ですが、その宮司が金毘羅山との両参りの復活をと始めた由加山の火渡り大祭が昨年30周年を迎えたということで知り合いの宗教新聞の編集長と取材に同行して行きました。
この火渡りの大祭も以前何度か行ったことがありますが、ずいぶん参拝者が増えたものです。
昨年は大河ドラマ「真田丸」で、由加山の山上の多宝塔(県の重文、県内一の大きさを誇ります)
の脇に「真田幸村公頌徳碑」があることを紹介しました。
私の生まれ故郷の児島は繊維の街、今はジーンズの街として有名になっています。その繊維産業の起こりが、江戸時代栄えた讃岐の金毘羅山と備前児島の由加山の両参りの参拝客に真田紐を販売したのが始まりです。
児島は古来から綿花の栽培が盛んで、綿糸を製造していました。その綿糸を利用して真田紐を織って参拝者に販売したところこれが評判になり、地元児島の産業になったのです。
真田が九度山に蟄居中内職として始めた真田紐です。だれがどのようにして真田紐の製造技術を児島の人々に教えたのかはわかりませんが、真田紐あっての児島、真田家あっての真田紐ですから、昭和18年ちょうど戦時中ですが地元の繊維業者たちによって建てられたようです。
その由来はともかく「真田のおかげ」で現在の児島ありですので。やはり今でも真田家には感謝しないといけません。
何故児島に真田紐が?実は私の大学時代の先輩に村井さんという方があります。現在山口県の周南市で造り酒屋を営んでおられます。この村井先輩がやはり歴史が趣味でいろいろ地元の歴史クラブに参加して活動しておられるようです。この先輩がしばらく前に由加山に参拝したとの便りをくれました。それからこの先輩の自宅近くに真田の子孫がおられるとの情報でした。
吉備の児島~現在は児島半島となり本州と陸続きですが、かつて源平の合戦やそのしばらく後までは児島は「島」であって、瀬戸内海を航海する船も現在の児島の北側を航行していました。
今でもそうですが、児島は瀬戸内海航路のほぼ中央、瀬戸内海は干満の激しいところですから、東西を航行する船は海の満ち欠けに乗ってすなわち潮の流れに従って航海すれば丁度児島の当りにたどり着くわけです。潮目の代わるあいだ児島の港に船を停めて、そこから児島の名刹由加山に参拝した人たちも多かった模様です。由加山の瀬戸内海側の港が田の口港です。ここには四国は讃岐の金毘羅山からの参拝客や大阪からの商人や瀬戸内海各地の商人や船乗りが船を降り立ち由加山に向かいました。田の口の港には立派な鳥居が建っています。
江戸時代の名浮世絵師広重の画いた全国の名所絵図にも田の口港を描いた絵があります。(岡山県立図書館に5年前に実物が収蔵され、実物を見せてもらいに行きました。)
田の口から由加山までは約1時間の道のりです。当時としてはさほど遠い距離ではありません。
由加大権現は瀬戸内海を航海する商人や船乗りの崇敬を集め瀬戸内海沿岸を中心に全国に今でも52の末社があるそうです。私は九州宇佐八幡宮に参拝の折、そこにも由加神社がまつられているのをみて驚いたものです。
由加山には境内に多くの玉垣が残っていますが多くが大阪の商人の名が刻まれています。
由加神社の手水舎の脇の玉垣に有名な江戸の商人、塩原太助の奉納した玉垣があります。遥か江戸にまでその名の轟いていた由加山大権現だったのですね。
ちなみに金毘羅山にお参りした話の残る森の石松、彼はどうやら金毘羅山にはお参りしたものの由加大権現にはお参りしなかったようで、彼がその後不運だったのは両参りで由加山にお参りしなかったからでは・・・という話もあるようで~それは定かではありませんが、両参りが盛んだったころの話です。
吉備の児島は古代から瀬戸内海でも重要な島として、古事記日本書紀の国生み神話にも登場します。今でも瀬戸大橋で四国に通じる交通の要衝ですが、古代の瀬戸内海の航海をする人々にとっては何より重要な拠点の島であり。東西い通じ文化も醸成されていったものだと思います。
藤戸の瀬戸を隔てた陸側の吉備国も瀬戸内海航路の児島があればこそ栄えて行ったともいうことができます。
そんな児島が故郷の吉備楽土(山田)です。
その歴史の中で南朝の忠臣として太平記に記された武将「児島高徳」
関心を持たざるを得ません。
地元にいながらあまり多くのことを知らないのが児島高徳です。
それは児島高徳という武将が「太平記」にしか登場しないからだといわれています。明治のころには「不在論」も登場したようです。逆に「太平記」の著者である小島法師は児島高徳その人であるとも言われています。事実はどうなのでしょうか?
「太平記」は江戸の初期多くの大名家においても読まれ、「太平記読み」という職もあったといわれます。備前岡山の池田光政公も太平記を読み、政治の指南とされたそうです。
ちょっと興味がわいてきました。
これから関心をもって読んだり見たりしたことからブログ書いてみようと思っています。
以後よろしくお願いいたします。
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