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2023年2月3日金曜日

神仏分離はなぜ引き起こされたのか?~ともに尊崇し、ともに神仏の心を取り戻す世の中に!

ずっと岡山の宗教家や宗教の歴史を訪ねてみて、気になってきたのは明治新政府による神仏分離政策。それまで続いてきた神仏習合の宗教が無理やり分離させられた。児島の新熊野、熊野権現の修験道は停止に追い込まれた。神仏習合が本格化したのは東大寺勧進に際して八幡神(宇佐八幡)が助けたことに始まる。以来、神と仏は互いに尊崇しあう関係を保ってこれが明治になるまで日本の宗教の根幹となってきた。それが突然のように出されてきた「神仏分離令(神仏判然令)であった。合わせて薩摩をはじめ廃仏毀釈が進んだ。札までは徹底的に廃仏毀釈が進み島津家の菩提寺をはじめ徹底的に寺院が破却された。全国各地でも廃仏が進み、身近なところでは讃岐の金毘羅大権現は仏像や仏塔が破却された。その仏像が岡山の西大寺観音院にもたらされ祀られています。いまだ阿仁全国各地にその傷跡が良いく残っています。  子の神仏分離、廃仏毀釈、さらに進んでいた神道国教化政策がなぜかくも甚だしくすすめられたのか?これが今の私の最大の疑問です。 様々な理由が言われてきています。当時の薩摩の経済事情が大きかったとか、平田篤胤などの国学の影響であるとか、薩摩にあった仏教や修験道への敵愾心が問題だっととか、当時のヨーロッパの特にプロイセンンのルター派キリスト教による国教化政策を真似たのではとか様々な理由がいわれているますが、果たして何が真実なのかと思います。それとももっと他に理由があったのか?   この時進められた神道国教化政策に反対して阻止したのが、備前国児島郡山坂村(現在の岡山県玉野市)出身の京都 相国寺の住持だった荻野独園師でした。独園師は、臨済宗相国寺の住持でしたが、新政府の廃仏と神道国教化政策に反対して増上寺に設置された大教院の大教正として臨済,曹洞、黄檗の総管長を勤め神道国教化を阻止した。その後は京都の相国寺に帰り相国寺の再建とともに鹿児島の廃仏毀釈にあった仏教寺院於復興に努めた。また、信教の自由の立場から、相国寺の寺領だった旧薩摩藩邸の土地にキリスト教の(新島襄の同志社)学校用地になることを認めている。伊千広や山岡鉄舟らが師のもとに参禅している。  神道国教化は阻止されたものの、実質的に神仏分離は進み、特に皇室の祭祀は完全に神道化されて今に至ってる。修験道は児島五流が天台宗の一流派として存続してきているが、法人としては神社とは分離されて今に至っている。その他各地に色濃く神仏分離の爪痕が残っているのが今の日本の宗教界の実情である。  私は、宗教史に関心を持って」様々な執筆や講演を重ねてきたが、今の日本於様々な精神的な荒廃を考えるときに、子の神仏分離政策の悪影響が今に続いていいると思うようになっている。神と仏がお互いに尊崇しあって支えてきた日本の国のあっり方を再び取り戻すことが、日本於国の良き伝統を取り戻す最も重要な課題ではないかと考えうようになっている。今は神道と仏教だけではなく、儒教やキリスト教、その他様々な倫理道徳運動なども含めて、宗教的あるいは倫理道徳、精神復興的運動がそれぞれの長所を生かしながら普遍的価値によって一致化しながら、国民精神の向上に努めていくべき時だと強く思わされている。   平和で、すべての人々がもれなく幸福に生き、喜びをもって生きることのできる社会の実現を共通の課題としてすべての人々が家族のような紐帯の心で思いやりや愛情豊かな生き方ができるように導くのがあまねく宗教や様々な道徳倫理運動の目的であるとして努めてくことではなかろうか!間違っても醜い教派争いや他宗批判などは止めなければいけない。宗教心をも他に人々にも温かい思いやりや奉仕が必要だと思います。無神論、唯物論的な人に愛することや普遍的な心の大切さを教えて行くことも大切だと思います。

2023年2月2日木曜日

承久の乱から家康の浄土まで 「厭離穢土 欣求浄土」源信~法然~一遍~徳川に引き継がれた浄土の教え

承久の乱から家康の浄土まで 平安~鎌倉 日本の宗教史を変えた備作の人物Ⅰ・Ⅱ 参照  承久の乱から南北朝の時代を経て家康による天下平定まで長い騒乱の時代が続きます。 岡山人物銘々伝を語る会 令和5年1月20日 ゆうあいセンター 山田良三 承久の乱から家康の浄土まで 栄西禅師と鎌倉殿   頼朝一周忌の導師(1200 正治2) 鎌倉に寿福寺、京に建仁寺を建立(1203 建仁3) 重源没 東大寺勧進職に栄西が就く 鎌倉殿(将軍実朝)と後鳥羽上皇 「鎌倉殿の13人」 将軍実朝と後鳥羽上皇の交流  鎌倉殿(将軍実朝)の後継に 後鳥羽上皇の第4皇子頼仁親王が候補にあがる  尼御台北条政子が京に赴き後継を決めてくる ~公暁による実朝の殺害  建保7年1月27日 鶴岡八幡宮で将軍実朝は義理の甥、鶴岡八幡宮の別当であった公暁に暗殺された  (実朝の首は 不明とも)  承久の変 承久の乱(じょうきゅうのらん)は、1221年(承久3年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱。日本初の武家政権という新興勢力を倒し、古代より続く朝廷の復権を目的とした争いである。承久の変、承久合戦ともいう。 <参考>承久の変で後鳥羽上皇の宮方で戦った代表的人物 山田重忠  治承・寿永の乱では父・重満が墨俣川の戦いで源行家の軍勢に加わり討死したが、重忠はその後の木曾義仲入京に際して上洛し、一族の高田重家や葦敷重隆らと共に京中守護の任に就くなどした。義仲の滅亡後、源頼朝が鎌倉幕府を創設すると尾張国山田荘(名古屋市北西部、瀬戸市、長久手市の一帯)の地頭に任じられ御家人に列する。しかし山田氏の一門は伝統的に朝廷との繋がりが深く、重忠は鎌倉期以降も京で後鳥羽上皇に近侍し、建保元年(1213年)には上皇の法勝寺供養に供奉するなどしている。  承久3年(1221年)5月、後鳥羽上皇が討幕の挙兵をすると重忠は水野高康(水野左近将監)ら一族とともにこれに参じた。同年6月、京方は幕府軍を美濃と尾張の国境の尾張川で迎え撃つことになり、重忠は墨俣に陣を置いた。京方の大将の河内判官藤原秀澄(京方の首謀者・藤原秀康の弟)は少ない兵力を分散する愚策をとっており、重忠は兵力を集中して機制を制して尾張国府を襲い、幕府軍を打ち破って鎌倉まで押し寄せる積極策を進言するが、臆病な秀澄はこれを取り上げなかった。 京方の美濃の防御線は幕府軍によってたちまち打ち破られ、早々に退却を始めた。重忠はこのまま退却しては武士の名折れと、300余騎で杭瀬川に陣をしき待ちかまえた。武蔵国児玉党3000余騎が押し寄せ重忠はさんざんに戦い、児玉党100余騎を討ち取る。重忠の奮戦があったものの京方は総崩れとなり、重忠も京へ退却した。京方は宇治川を頼りに京都の防衛を図り、重忠は比叡山の山法師と勢多に陣を置き、橋げたを落として楯を並べて幕府軍を迎え撃った。重忠と山法師は奮戦して熊谷直国(熊谷直実の孫)を討ち取るが、幕府軍の大軍には敵わず京方の防御陣は突破された。幕府軍が都へ乱入する中で、重忠は藤原秀康、三浦胤義らと最後の一戦をすべく御所へ駆けつけるが、御所の門は固く閉じられ、上皇は彼らを文字どおり門前払いした。重忠は「大臆病の主上に騙られて、無駄死ぞ!」と門を叩いて悲憤した。 重忠は藤原秀康、三浦胤義ら京方武士の残党と東寺に立て籠もり、これに幕府軍の大軍が押し寄せた。重忠は敵15騎を討ち取る奮戦をしたが手勢のほとんどが討ち取られ、嵯峨般若寺山に落ちのび、ここで自害した。重忠の自害後、嫡子重継も幕府軍に捕らえられ殺害、孫の兼継は越後に流され後に出家、僧侶として余生を送った。山田氏は兼継の弟・重親とその子の泰親の系統が継承していった。 長母寺(名古屋市北区山田)の住持を務めた無住国師の『沙石集』は重忠を「弓箭の道に優れ、心猛く、器量の勝った者である。心優しく、民の煩いを知り、優れた人物であった」と称賛している。また、信仰心の篤い人物であったと云われ領内に複数の寺院を建立したことでも知られている。(Wikipwdiaより) 承久の変で児島に遷された頼仁親王  承久の変で児島に遷されたのが後鳥羽上皇の第四皇子頼仁親王でした 頼仁親王が遷された児島新熊野 (岡山宗教散歩 熊野神社と修験道  山田良三  宗教新聞令和2年1月号) 法然と熊野神社    このシリーズ(岡山宗教散歩)の最初に法然を取り上げました。その時に引用させてもらった、元中外日報記者山田繁夫氏の「法然と秦氏」の中に、熊野神社に関する記述があります。  浄土宗史の研究家として知られる三田全信氏の「浄土周史の諸研究」の中に「平安中期の熊野に関する勘文を集めた『長寛勘文』の『熊野権現垂迹縁起』には熊野権現の成立に渡来人の関りを暗示していて、そのことの故か(法然上人の)『行状絵図』には法然の熊野信仰に係る話が散見される。」との著があります。その中で、いくつかの法然と熊野神社との関りを取り上げています。  行状絵図20巻には作仏房と言う修験者が熊野証誠権現の神託によって法然のもとに参じて一向専修の行者になったことが記され、「行状絵図」37巻には、法然臨終の様子の中に西山(京の西側の山々)の木こりが駆け付けたことが記されています。この木こりについて三田氏は「西山の炭焼き業者は、熊野の秦氏と同系人で、林産業に従事していた人々であろう」と著しています。  さらに三田氏は(法然の生家)漆間家が仁平元年(1151)に所領の美作国稲岡南荘を熊野坐神社(くまのにますじんじゃ)に奉納した事実を紹介しています。仁平元年というと、「醍醐本」の法然伝の記述によれば、法然の父漆間時国殺害の報を聞き、黒谷に隠遁の志を持った十八歳の年の翌年です。三田氏は「漆間時国の死後、衰微していった漆間家が海運安全に力ある熊野坐神社に所領の一部を寄進したのであろう」と著しています。熊野神社の社領の文献「熊野年代記」に漆間家による所領の寄進の事実があるそうです。  また三田氏は「南北朝期から室町朝期に活躍した浄土宗の学僧聖聡が著した『大原談義聞書抄見聞』の中で引用された『称揚集』という書の中で、法然三十八歳の嘉応二年(1176)に熊野本宮の別当湛増法橋が法然を招請したとの一文が残っていることから、当時は秦氏としての同族意識や、帰属意識が残っていたからであろうと著しています。 熊野詣と行幸山伏     熊野と言うと熊野詣が有名です。現在では熊野古道が人気となり多くの内外の観光客が熊野を訪れています。この熊野詣ですが、平安中期から鎌倉にかけてのころ、実に多くの歴代上皇の御幸が行われていました。最も多く御幸されたのが、源平合戦の時代に生きた後白河上皇です。後白河上皇は実に34回も熊野に行幸されています。その次に多いのが後鳥羽上皇で、その御幸回数は28回に及びます。法然上人伝では、後鳥羽上皇の熊野御幸中、都に残った女御が法然の弟子によって出家したとして、その弟子たちが断罪され、さらに師の法然の讃岐配流やその弟子親鸞の越後配流がなされました。  この頃、上皇の熊野御幸の先達を務めたのが、児島の新熊野(いまくまの)の五流山伏達でした。 五流山伏とは、文武天皇の三年、修験道、山伏の祖とされる役行者が冤罪により伊豆の大島に流された時、義学他5人の高弟たちが熊野権現に難が及ぶことを恐れて、長床坐衆五流八家十 家三十五院三百余人の門人たちとともに熊野権現のご神体霊宝を船に奉じて各地を彷徨い、最後に児島の柘榴浜(現倉敷市児島下の町)に到着、福南山の麓を経て現在熊野神社と五流尊流院のある福岡村林(現倉敷市林)に到着、熊野三山に擬し新熊野三山を造営したのが修験の根本道場五流の始まりです。五流尊流院の由緒沿革などにはその経緯が記されています。  その後役行者が勅許により赦免され、義学なども紀州に帰り全国に散在している役行者の門弟の熊野大峯に参拝入峯するものを監督統理しました。天平20年になると聖武天皇より全児島(現児島半島一帯)が新熊野の神領として寄進されました。孝謙天皇の世には本殿、長床他の諸堂や鳥居が建造され「日本第一大霊験処」などの額が掲げられました。次いで木見(現倉敷市木見)には新宮諸興寺、瑜伽(現倉敷市児島由加)には瑜伽寺が創建され、合わせて新熊野三山とされたのです。このようにして義学など高弟五人の法統を継承した五流は役行者の験道を継承し行法秘儀を受け継いだ五流長床結衆として、そのもとには八家十二家の公卿山伏衆徒三十五寺の寺院を擁していました。本拠は児島に置き紀州にはそれぞれの別院を置いて往来し、熊野表の役職はすべて児島から任命していました。その故、歴代皇室の尊崇を受け歴代天皇、法皇の熊野行幸や大峯、葛城、金峯などの入峯先達を長床宿老が勤めることとなり兒島山伏は行幸山伏とも称され尊重されていったのです。 頼仁親王により復興された五流    さて、源平合戦の折、児島藤戸の合戦で源氏方が児島に陣取った平家に対して、藤戸の瀬を馬で渡って先陣を切った佐々木盛綱の功により源氏が大勝します。そこで源頼朝が(東)児島の波佐川(現岡山市南区灘崎町迫川)の荘を授けたことに対して熊野の一山がこれに抗議し返還を求めたことが伝えられています。  承久の変においては、北条氏が後鳥羽上皇を隠岐の島に奉遷し、第四皇子の冷泉宮頼仁親王が児島に遷されました。頼仁親王は五流尊流院に庵室を結び、以来その嫡流が尊流院の庵室を継いでいます。以来五流五家の院家として、長床結衆は頼仁親王から出ているのです。頼仁親王の陵は諸興寺のあった木見にありますが、大正七年に宮内省の所管になり、現在は宮内庁の管轄となっています。  また、同じく後鳥羽上皇の皇子桜井宮覚仁親王が熊野三山検校に併せて新熊野検校を兼ねて児島に下向、桜井親王と頼仁親王は隠岐で崩御された後鳥羽上皇のために供養の石塔と廟を建立されました。この宝塔は現在国の重文に指定され、五流尊流院の境内、熊野神社の駐車場となっている北側にあります。  頼仁親王の長嫡道乗上人の子のうち後に尊流院を継いだ頼宴大僧正の三男三郎が外戚三宅範長の家を継いだのですが、これが後醍醐天皇に忠誠を尽くした忠臣として太平記に登場するい児島高徳です。児島高徳は太平記の作者小島法師その人ではとも言われ、高い学識があった人物として記されています。 児島高徳 3.児島高徳のルーツと後裔(「アメノヒボコと後裔たち」より) 児島高徳の家系と先祖  家系図参照(「アメノヒボコと後裔たち」より、 庭田尚三氏による系図)    ・尊龍院系図    ・和田氏(三宅氏)系図   アメノヒボコ(Wikipedia 抜粋参照)    古事記   応神天皇の条 日本書紀  垂仁天皇の条   「ツヌガアラシト」「天日槍」渡来の伝承       神功皇后(オキナガタラシヒメ)もその家系 ・佐々木氏系図  ◆ 「備前軍記」に記された宇喜多家のルーツ(資料参照)  アメノヒボコとは:新羅の王子  第4代新羅王 脱解王 <参考>アメノヒボコの系図(アメノヒボコと後裔の研究より) アメノヒボコ渡来の時代背景:半島と日本列島 ◆児島高徳と和田範長(庭田尚三著)では養父 和田範長に着目  和田三宅範長は佐々木信実5代の裔、三宅範勝に子が無く佐々木を出て三宅を継ぐ 長男 高秀~宇喜多氏   「備前軍記」に記された宇喜多家先祖としての児島高徳とアメノヒボコ  「宇喜多和泉能家入道常玖画像賛」    参照「備前軍記」 次男 高久~幼少のころ姫路の海岸白浜の大庄屋沢田家に預けられる。6代の裔三宅三郎芳高が古海を訪ね墓参後小泉城主の客属になって済んだという。 沢田氏後裔に美保関親方(元大関増位山)親子がいる。   3男 高貞~三河の伊保城に定住。 三河三宅氏の祖  5代清宣の弟清貞の時松平清康の攻略を受け落城。清貞の次子の子梅坪城主正貞が松平元康に降り家臣となる。正貞の子康貞衣藩主となり先祖児島高徳の祠堂を設けた。陣屋内に桜を植えその見事さから桜城と言われた。その後~4代康勝は渥美郡田原の田原城主に 4男 良覚 長女 徳子 三河で生まれる。古海で高徳を看取ったあと下野の宮下家に嫁す。古海(現 群馬県大泉町) ◇一編上人 時宗の開祖 美作生まれではありませんが美作地方にたびたび訪れ、ゆかりの深いのが一遍上人です。  鎌倉仏教はそれまでの平安仏教が公卿や貴族のための仏教であったものを、広く衆生の救済に道を開き、仏道のルネッサンスともいうべき大改革を実現したものです。法然から栄西、道元、日蓮と様々な宗派の仏教者が続きましたが、それらの鎌倉仏教を締めくくったのが一遍でした。鎌倉新仏教の始まりは。美作国稲岡が出自の法然で、日本の浄土宗の開祖となっています。浄土宗は、阿弥陀仏の極楽浄土に往生し成仏することを説く教える浄土教の一派ですが、一遍の時宗もまた浄土教の教えでした。浄土教の日本における源流は、実践面では平安の中期に、民衆に「南無阿弥陀仏」を説いて回った空也上人であり、教学面では恵心僧都源信とも言えます。法然は源信の「往生要集」に強く影響を受けて専修念仏の教えを説いて教えました。それに対して一遍は「我が先達なり」として空也上人をとても尊敬し、民衆の中に入って行き「南無阿弥陀仏」の教えを広めていきました。「南無阿弥陀仏 六十万人決定往生」の名号札を配る賦算を続け、阿弥陀信仰を広めて回ったのです。  一遍上人は延応元年(1239)伊予国の道後温泉の奥谷の宝厳寺で河野道弘(母は大江氏)の子として誕生しました。ちょうどこの年は後鳥羽上皇が隠岐で崩御した年でした。河野氏は児島高徳の河野氏であるなど備州とはゆかりの深い一族でした。一遍の誕生のころ父はすでに出家していて、法然の代表的な弟子のひとり西山上人と呼ばれた証空のもとで修行していました。その後一遍は出家して証空の弟子から教えを学びます。その後熊野権現詣の時から名号札を配り始めます。   備州には何度か訪れています。一番代表的なのが「備前福岡市」です。その様子を描いた絵は一遍上人絵伝でも代表的な絵で、当時の市場の様子を知る貴重な題材として、歴史教科書にも掲載されています。福岡に来たのは弘安元年(1278)でした。その後祖父の墓を奥州江差に訪ねるなどして、弘安8年(1285)丹後から伯耆を経て美作の中山神社にやってきました。この時の逸話に出てくるのが金森山です。その後弘安10年(1287)に備中石軽部の宿に滞在した記録が残ります。この時安養寺に訪問したであろうと思われます。その後備後吉備津宮に詣でたのち故郷に帰ります。最後の旅路は正応2年(1289)伊予国を出て、法然上人ゆかりの善通寺を訪ね阿波から淡路を経て兵庫に至り、ここで往生したのでした。(詳しくは拙著の「美作に来た一遍」を参照してください。) <「備作に来た一遍」より> 一遍上人の誕生と河野氏  一遍上人(幼名松寿丸)は延応元年(1239)、伊予国道後温泉の奥谷である宝厳寺の一角で生まれました。一遍の父親は河野通広(出家して如仏)、母親は大江氏で、一遍上人誕生の年は後鳥羽上皇が隠岐で崩御した年でした。一遍の生まれた河野氏は後鳥羽上皇と深いかかわりあいを持っていました。  もともと河野家は越智氏の流れをくむ豪族でした。もともと西国の諸豪族はほとんど平家傘下にある中で、源平合戦の折、一遍の曽祖父河野通清が一族を率いて源氏方に付くことにより、平家追討に功があったとして、伊予国における有力御家人となっていました。ところが後鳥羽上皇が西国の武家達に呼び掛け、鎌倉に対抗した承久の変(承久三年 1221)では、祖父通信はじめ一族の多くが上皇方についていたのですが、上皇方が敗北、後鳥羽上皇は隠岐に流され、上皇方の諸武将は各地に流罪となりました。この時一遍の祖父通信は奥州の江刺に流され、貞応元年(1222)に亡くなり、同じく叔父の通末は信濃国佐久郡伴野に流され、やはり彼地で亡くなり、もう一人の叔父、通政も信濃国葉広に流されそこで切られたと伝えられています。後に一遍は諸国遊行中、江刺の祖父の墓や、信州佐久の小田切に叔父通末の墓所を訪ねて慰霊を行っています。  河野本家は通信の子の通久が幕府方に付いていたためかろうじて命脈は保たれていたものの、一遍誕生当時の河野家は、往時の力は失われ、すっかり没落してしまっていたのです。  一遍の父の通広は承久の変の時には出家していて如仏と称し、浄土宗の開祖法然上人の代表的な弟子の一人、西山上人と呼ばれていた証空のもとで修業していました。承久の変の当時は伊予に帰っていたこともあり、変の戦には参戦せず、一族の中では命を長らえることのできた一人でした。一遍の父通広(如仏)が浄土教を学んだ師の証空は法然の重要な弟子であったため建永の法難で遠流が決まっていましたが、当時叡福寺の願蓮のもとにあったため実刑を免れ、師の法然没後に慈円から西山善峰山の往生院を任され、西山の上人、後に西山上人と呼ばれるようになり、浄土宗の中でも重要な西山派の法統を形成していました。証空の教えを伊予で受け継いだのが一遍の父通広(如仏)でした。如仏が故郷に帰り還俗し生まれたのが一遍(幼名松寿丸)だったのです。 河野氏と備前国との密接な繋がり  河野氏は瀬戸内随一の水軍を擁し、伊予国の有力御家人となり、瀬戸内各地の有力豪族と縁戚を結んでいました。中でも備前国の有力豪族との関係は深く、後醍醐天皇に忠誠を尽くした児島高徳の正妻は河野氏の女貞子であったことはよく知られています。また児島高徳の娘は河野氏の一族である越智氏に嫁しているなど、実に深い関係を結んでいたのです。 太平記には児島氏(三宅氏)や高徳が養子となった和田氏などは、河野氏と同族であると書かれています。備前児島はこの頃熊野権現の所領でしたが、河野家とは深い繋がりを持っていたのです。 出家と修道の道  松寿丸が十歳の時に母が病没しました。その時父の勧めで松壽丸は出家します。法名は随縁で、建長三年(1251)十三歳になった時、父と同じ法然の弟子証空の弟子の聖達上人を訪ねて大宰府に行きます。同じく証空の弟子であった肥前国清水の華台上人から浄土宗西山義の教えを学び、華台上人から法名を智真と改められました。建長四年(1252)から弘長三年(1263)まで、約10年間、大宰府を中心に修学を続けました。 父の死と帰郷そして再出家   弘長三年(1263)父通広(如仏)が亡くなったと知らせが届き、故郷伊予国に帰ります。伊予に帰ってからは半僧半俗の生活を送るようになっていました。ところが、そのころ一族間で諍いが起こり、それをきっかけに再度出家を決意するようになりました。この時の諍いの内容については諸説あるようですが、よくわかりません。  文永七年(1270)、やはり出家していた弟の聖戒とともに大宰府の師聖達のもとを訪ね、翌文永八年(1271)32歳の時、再出家したのです。そうして最初に尋ねたのが信濃の善光寺で、ここで参篭し、「二河白道図(にがびゃくどうず)」を模写します。それを伊予に持ち帰り、伊予の窪寺で本尊として3年間、念仏三昧をする中で、「十一不二頌」の悟りを得ます。文永十年(1273)、34歳の時、菅生の岩屋寺で参篭後、伊予を出立し、一切を捨て「捨て聖」としての道を歩み始めたのです。こうして諸国遊行の旅に出立したのです。 「南無阿弥陀仏 六十万人決定往生」賦算の始まり  まず向かったのが熊野権現でした。熊野権現への道は同行三人(超一、超二、念仏房)で、途中の桜井まで弟の聖戒が同行しました。途中、四天王寺で修業し、さらに高野山などで修業、念仏勧進の願を立て、「南無阿弥陀仏」の札を配る、賦算を始めました。ところで、紀州の熊野権現に向かう途上、熊野山中でとある僧と出会います。その僧が「信心が起こらないので受け取れない」というのを無理に札を渡したことを心に悩み、熊野権現本宮に詣でてお伺いを立てたところ、「信不信をえらばず、浄不浄を嫌わずその札を配るべし」とのお告げを受けたのです。ここから「南無阿弥陀仏」に「六十万人決定往生」の八文字を加えて賦算を始めることとなりました。この頃、この賦算札の版木を弟の聖戒に送ったことが絵伝の詞に詞かれています。この時から一遍と号するようになります。 九州遊行、伊予国~安芸~周防から備前に  熊野を出た一遍は同行者を一旦伊予に帰し、自らは京に赴き誓願寺に詣り、師聖達の継子顕意を訪ねます。その後西海道を経て文永の役(元寇)後の博多を訪ね、戦死者の供養をなした後、伊予国に帰ります。伊予国では国内くまなく賦算し、巡錫して回りました。  建治二年(1276)、再び伊予を発った一遍は大宰府に師聖達を訪ねます。その後九州各地を遊行して回ります。一遍聖絵には、その時の主な遊行地として大隅八幡(現鹿児島神宮)や、豊後国で、守護の大友氏の帰依を受けたことが詞れています。また豊後では後に有力な弟子のひとりとなる真教が入門しています。聖絵には描かれていませんが宇佐八幡にも詣でたであろうと想像されます。九州各地を巡錫し、弘安元年(1278)同行7~8人とともに伊予国に帰ります。しばらく伊予国にとどまった後、秋に伊予国を出立、最初に安芸厳島に詣で、周防国を回ったのち冬に備前国福岡に到ったのです。  このころ一遍の一行は瀬戸内海の航海を河野水軍の船で移動したのであろうと想像されます。というのは河野氏は承久の変の後、一時落ちぶれていたのですが、元寇の役に、河野水軍が武功を立て著しかったため、鎌倉幕府からその功を認められ、河野氏は勢いを盛り返していたのです。ですから瀬戸内海各地への巡錫は河野の船で移動したことで間違いないでしょう。 ◇日本仏教の改革者 法然とその後の浄土門  法然とその弟子たち 「厭離穢土欣求浄土」 徳川家と浄土宗   戦国時代を終わらせた武将が徳川家康でした。徳川家はその後代々続き、日本の歴史でもっとも長い265年間、戦乱のない平和な時代を実現しました。その徳川家が、戦国の戦いの時代に旗印としたのが、「厭離穢土欣求浄土」です。大河ドラマなどでも目にした人は多いでしょう!ところでその旗印の意味や起源については、あまり知られていないようです。  「厭離穢土欣求浄土」とは、どういう意味なのでしょうか?またどのような経緯から徳川家の旗印として使用されるようになったのでしょうか?愛知県岡崎市大樹寺HPより、大樹寺責任役員 成田敏圀師の「厭離穢土 ~家康公の平和思想~」より。大樹寺は代々徳川家とそのもととなった松平家の菩提寺です。 徳川家のルーツと浄土の教え   徳川家のルーツは、八幡太郎義家の末裔とされる、上州得川出身の時宗遊行僧・徳阿弥が、還俗して三河の庄屋・松平太郎左衛門重信の婿養子になり松平親氏と名乗ったのが始まりです。松平家四代目の親忠が増上寺より勢誉愚底を招いて建てたのが、この岡崎市にある菩提寺の大樹寺でした。徳川の姓の由来は家康が初代の得川(えがわ)の姓の得の字を徳の字に改めたのが始まりです。  後に徳川家康の名を名乗る松平元康は、岡崎城主でした。しかし幼いころから今川家に人質として預けられ、成人してからも今川の家臣団として扱われていました。ところが上洛を目指していた今川義元に従って桶狭間にあった時、織田信長の急襲により敗北し義元も討死にすると、今川勢は敗走して散り散りバラバラになり、元康は城主を勤める岡崎へと逃れ、松平家菩提寺の大樹寺に至ります。桶狭間での敗戦に悲観した元康は、松平家代々の先祖の墓前で切腹しようとします。ところがその元康を、当時の大樹寺住職登誉上人が「厭離穢土欣求浄土」の話をして思いとどまらせたのです。  「厭離穢土欣求浄土」(読みは えんりえど 又は おんりえど ごんぐじょうど)というのは、穢れた世を離れ万民が幸福に生きる世を実現するという意味です。上人は元康に「天下の父母となって万民の苦しみをなくしなさい」と教え諭すのです。南無阿弥陀仏の心でした。  以来家康は旗指物には「厭離穢土 欣求浄土」と掲げ、口には念仏「南無阿弥陀仏」を唱えながら浄土の実現を期して戦国の世を戦い生き抜いてきました。徳川の時代が、265年という世界でも類例のない平和で豊かな時代を実現した背後にはこういう、徳川家の歴史と込められた浄土の教えがあったということです。その浄土の教え、専修念仏の教えの始まりが郷土の生んだ偉大な聖人 「法然」 でした。 浄土教の歴史(Wikipedia) インド  浄土教の成立時期は、インドにおいて大乗仏教が興起した時代である。紀元100年頃に『無量寿経』と『阿弥陀経』が編纂されたのを契機とし、時代の経過とともにインドで広く展開していく。しかし、インドでは宗派としての浄土教が成立されたわけではない。 浄土往生の思想を強調した論書として、龍樹(150年 - 250年頃)の『十住毘婆沙論』「易行品」、天親(4-5世紀)の『無量寿経優婆提舎願生偈』(『浄土論』・『往生論』)がある。天親の浄土論は、曇鸞の註釈を通じて後世に大きな影響を与えた。 なお『観無量寿経』 は、サンスクリット語の原典が発見されておらず、おそらく4-5世紀頃に中央アジアで大綱が成立し、伝訳に際して中国的要素が加味されたと推定される。しかし中国・日本の浄土教には大きな影響を与える。 中国    中国では2世紀後半から浄土教関係の経典が伝えられ、5世紀の初めには廬山の慧遠(334年 - 416年)が『般舟三昧経』にもとづいて白蓮社という念仏結社を結び、初期の中国浄土教の主流となる[要出典]。以後、諸宗の学者で浄土教を併せて信仰し兼修する者が多かったが、浄土教を専ら弘めたのは唐の道綽・善導と懐感の一派であった[2]。これらとは別に慧日(慈愍三蔵)も念仏をすすめ、教団を発展させた。慧日の教団の発展は、仏教を知的な教理中心の学問から情操的な宗教へと転回させるきっかけになった。 山西省の玄中寺を中心とした曇鸞(476年頃 - 542年頃)が、天親の『浄土論』(『往生論』)を注釈した『無量寿経優婆提舎願生偈註』(『浄土論註』・『往生論註』)を撰述する。その曇鸞の影響を受けた道綽(562年 - 645年)が、『仏説観無量寿経』を解釈した『安楽集』を撰述する。 道綽の弟子である善導(613年 - 681年)が、『観無量寿経疏』(『観経疏』)を撰述し、『仏説観無量寿経』は「観想念仏」ではなく「称名念仏」を勧めている教典と解釈する。 こうして「称名念仏」を中心とする浄土思想が確立する。しかし中国ではその思想は主流とはならなかった。 明代には、慧日(680年 - 748年)、善導の浄土教を基盤に、[要出典]株宏が禅と念仏の一致を説いた[2]。その影響で中国では浄土教を禅などの諸宗と融合する傾向が強くなり、後の中国における「禅」の大勢となる「念仏禅」の源流となる。 その他に法照(? - 777年頃)が、音楽的に念仏を唱える「五会念仏」を提唱し、南岳・五台山・太原・長安などの地域に広める。『浄土五会念仏誦経観経儀』、『浄土五会念仏略法事儀讃』を撰述する。 法然は『選択本願念仏集』において、中国浄土教の法義について、慧遠の「廬山慧遠流」、慧日の「慈愍三蔵流」、曇鸞・道綽・善導の「道綽・善導流」と分類する[9]。広説仏教語大辞典によれば、古来から中国の浄土教には慧遠流(廬山流)・善導流・慈愍流の三流があるといわれており、善導流は日本浄土教の基礎となったという。 日本   飛鳥時代・奈良時代 7世紀前半に浄土教(浄土思想)が伝えられ、阿弥陀仏の造像が盛んになる[要出典]。奈良時代には智光や礼光が浄土教を信奉し、南都系の浄土教の素地が作られた。 平安時代   比叡山では、天台宗の四種三昧の一つである常行三昧に基づく念仏が広まり、諸寺の常行三昧堂を中心にして念仏衆が集まって浄業を修するようになった。貴族の間にも浄土教の信奉者が現れ、浄土信仰に基づく造寺や造像がなされた。臨終に来迎を待つ風潮もこの時代に広まる 。空也や良忍の融通念仏などにより、一般民衆にも浄土教が広まった。 平安時代の著名な浄土教家として、南都系には昌海、永観、実範、重誉、珍海がおり、比叡山系には良源、源信、勝範がいるが、彼らはいずれも本とする宗が浄土教とは別にあり、そのかたわら浄土教を信仰するという立場であった。 平安時代初期 円仁   承和5年(838年)には、遣唐使の一員として円仁(794年 - 864年)が渡海し留学する。中国五台山で法照流の五会念仏を学ぶ。その他にも悉曇・密教などを学び、承和14年(847年)に帰国する。比叡山において、その五台山の引声念仏を常行三昧[注釈 1]に導入・融合し、天台浄土教の発祥となる。常行三昧堂が建立され、貞観7年(865年)には、常行三昧による「観想念仏行」が実践されるようになる。 良源  良源(912年 - 985年)が、『極楽浄土九品往生義』を著す。また比叡山横川(よかわ)の整備をする。 こうして平安時代初期には、阿弥陀仏を事観の対象とした「観相念仏」が伝わる。まず下級貴族に受け容れられた。当時の貴族社会は藤原氏が主要な地位を独占していて、他の氏族の者はごくわずかな出世の機会を待つのみで、この待機生活が仏身・仏国土を憧憬の念を持って想い敬う「観相念仏」の情感に適合していたものと考えられる。 平安時代中期 平安時代の寺院は国の管理下にあり、浄土思想は主に京都の貴族の信仰であった。また、(官)僧は現代で言う公務員であった。官僧は制約も多く、国家のために仕事に専念するしかなかった。そのような制約により、庶民の救済ができない状況に嫌気が差して官僧を辞し、個人的に教化活動する「私得僧」が現れるようになる。また大寺院に所属しない名僧を「聖」(ひじり)という。 空也   空也(903年-972年)は、念仏を唱えながら各地で道を作り、橋を架けるなど社会事業に従事しながら諸国を遊行する。同時に庶民に対し精力的に教化を行い、庶民の願いや悩みを聞き入れ、阿弥陀信仰と念仏の普及に尽力する。空也は、「市聖」(いちひじり)・「阿弥陀聖」と呼ばれる。空也は踊念仏の実質的な創始者でもある。 源信   源信 (942年-1017年)は、良源の弟子のひとりで、985年に『往生要集』を著し、日本人の浄土観・地獄観に影響を与えた。  『往生要集』は、阿弥陀如来を観相する法と極楽浄土への往生の具体的な方法を論じた、念仏思想の基礎とも言える。内容は実践的で非常に解りやすいもので、絵解きによって広く庶民にも広められた。同書は「観想念仏」を重視したものの、一般民衆のための「称名念仏」を認知させたことは、後の「称名念仏」重視とする教えに多大な影響を与え、後の浄土教の発展に重要な意味を持つ書となる。     986年には比叡山に「二十五三昧合」という結社が作られ、ここで源信は指導的立場に立ち、毎月1回の念仏三昧を行った。結集した人々は互いに契りを交わし、臨終の際には来迎を念じて往生を助けたという。源信は、天台宗の僧であったが世俗化しつつあった叡山の中心から離れて修学・修行した。 慶滋保胤  平安時代中期の文人で中級貴族でもあった慶滋保胤(931年頃 - 1002年)は、僧俗合同の法会である「勧学会」(かんがくえ)を催す。また、浄土信仰によって極楽往生を遂げたと言われる人々の伝記を集めた『日本往生極楽記』を著す。  後には、『日本往生極楽記』の編集方法を踏襲した『続本朝往生伝』(大江匡房)・『拾遺往生伝』(三善爲康)・『三外往生伝』(沙弥蓮祥)など著される。 この様に具体的な実例をもって浄土往生を説く方法は、庶民への浄土教普及に非常に有効であった。そして中・下級貴族の間に浄土教が広く普及していくに従い、上級貴族である藤原氏もその影響を受け、現世の栄華を来世にまでという思いから、浄土教を信仰し始めたものと考えられる。 こうして日本の仏教は国家管理の旧仏教から、民衆を救済の対象とする大衆仏教への転換期を迎える。 平安時代末期 「末法」の到来  「末法」とは、釈尊入滅から二千年を経過した次の一万年を「末法」の時代とし、[10]「教えだけが残り、修行をどのように実践しようとも、悟りを得ることは不可能になる時代」としている。この「末法」に基づく思想は、インドには無く中国南北朝時代に成立し、日本に伝播した。釈尊の入滅は五十数説あるが、法琳の『破邪論』上巻に引く『周書異記』に基づく紀元前943年とする説を元に、末法第一年を平安末期の永承7年(1052年)とする。    本来「末法」は、上記のごとく仏教における時代区分であったが、平安時代末期に災害・戦乱が頻発した事にともない終末論的な思想として捉えられるようになる。よって「末法」は、世界の滅亡と考えられ、貴族も庶民もその「末法」の到来に怯えた。さらに「末法」では現世における救済の可能性が否定されるので、死後の極楽浄土への往生を求める風潮が高まり、浄土教が急速に広まることとなる。ただし、異説として、浄土教の広まりをもたらした終末論的な思想は本来は儒教や道教などの古代中国思想に端を発する「末代」観と呼ぶべきもので、仏教の衰微についてはともかく当時の社会で問題視された人身機根の変化には触れることのない「末法」思想では思想的背景の説明がつかず、その影響力は限定的であったとする説もある。   末法が到来する永承7年に、関白である藤原頼通が京都宇治の平等院に、平安時代の浄土信仰の象徴のひとつである阿弥陀堂(鳳凰堂)を建立した。阿弥陀堂は、「浄土三部経」の『仏説観無量寿経』や『仏説阿弥陀経』に説かれている荘厳華麗な極楽浄土を表現し、外観は極楽の阿弥陀如来の宮殿を模している。   この頃には阿弥陀信仰は貴族社会に深く浸透し、定印を結ぶ阿弥陀如来と阿弥陀堂建築が盛んになる。阿弥陀堂からは阿弥陀来迎図も誕生した。   平等院鳳凰堂の他にも数多くの現存する堂宇が知られ、主なものに中尊寺金色堂、法界寺阿弥陀堂、白水阿弥陀堂などがある。 良忍  良忍は、(1072年 - 1132年)は、「一人の念仏が万人の念仏と融合する」という融通念仏(大念仏)を説き、融通念仏宗の祖となる。 天台以外でも三論宗の永観(1033年 - 1111年)や真言宗の覚鑁(1095年 - 1143年)らの念仏者を輩出する。 この頃までに、修験道の修行の地であった熊野は浄土と見なされるようになり、院政期には歴代の上皇が頻繁に参詣した。後白河院の参詣は実に34回にも及んだ。熊野三山に残る九十九王子は、12世紀 - 13世紀の間に急速に組織された一群の神社であり、この頃の皇族や貴人の熊野詣に際して先達をつとめた熊野修験たちが参詣の安全を願って祀ったものであった。 鎌倉時代 平安末期から鎌倉時代に、それまでの貴族を対象とした仏教から、武士階級・一般庶民を対象とした信仰思想の変革がおこる。(詳細は、鎌倉仏教を参照。) また鎌倉時代になると、それまでの貴族による統治から武家による統治へと政権が移り、政治・経済・社会の劇的な構造変化と発展を遂げる。 末法思想・仏教の変革・社会構造の変化などの気運に連動して、浄土教は飛躍的な成長を遂げる。この浄土思想の展開を「日本仏教の精華」と評価する意見もある一方で、末世的な世情から生まれた、新しい宗教にすぎないと否定的にとらえる意見もある。 法然(源空)  法然(法然房源空、1133年-1212年)は、浄土宗の開祖とされる。1198年に『選択本願念仏集』(『選択集』)を撰述し、「専修念仏」を提唱する。   1145年に比叡山に登る。1175年に 善導(中国浄土教)の『観無量寿経疏』により「専修念仏」に進み、比叡山を下りて東山吉水に住み吉水教団を形成し、「専修念仏」の教えを広める。(1175年が、宗旨としての浄土宗の立教開宗の年とされる。)   法然の提唱した「専修念仏」とは、浄土往生のための手段のひとつとして考えられていた「観相念仏」を否定し、「称名念仏」のみを認めたものである。「南無阿弥陀仏」と称えることで、貴賎や男女の区別なく西方極楽浄土へ往生することができると説き、往生は臨終の際に決定するとした。   また『選択集』において、正しく往生浄土を明かす教えを『仏説無量寿経』(曹魏康僧鎧訳)、『仏説観無量寿経』(劉宋畺良耶舎訳)、『仏説阿弥陀経』(姚秦鳩摩羅什訳)の3経典を「浄土三部経」とし、天親の『浄土論』を加え「三経一論」とする。   源空の門流には、弁長の鎮西流、証空の西山流、隆寛の多念義、長西の諸行本願義、幸西の一念義の五流があり、これに親鸞の真宗を加えて六流とする。源空門下の浄土教に十五流を数えることもある。 親鸞   親鸞(1173年-1262年)は、法然の弟子のひとり。『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)等を著して法然の教えを継承発展させ、後に浄土真宗の宗祖とされる1181年に比叡山に登る。   1201年には修行では民衆を救済できないと修行仏教と決別し、比叡山を下りる。そして法然の吉水教団に入門し、弟子入りする。念仏停止により流罪に処され、僧籍の剥奪後は、法然の助言に従い、生涯に渡り非僧非俗の立場を貫いた。赦免後は東国(関東)を中心に20年に渡る布教生活を送り、念仏の教えをさらに深化させる。京都に戻ってからは著作活動に専念し、1247年に『教行信証』を撰述、数多くの経典・論釈を引用・解釈し、「教」・「行」・「信」・「証」の四法を顕かにする。阿弥陀仏のはたらきによりおこされた「真実信心」 を賜わることを因として、いかなる者でも現生に浄土往生が約束される「正定聚」に住し必ず滅度に至らしめられると説く。   宗旨としての浄土真宗が成立するのは没後のことである。 一遍   一遍は(1239年-1289年)は、時宗の開祖とされる。1251年に大宰府に赴き、法然の孫弟子である浄土宗の聖達(1203年-1279年)に師事した。その後は諸国を遍歴し、紀伊の熊野本宮証誠殿で熊野権現から啓示を得て悟りを開き、時宗を開宗したとされる。その啓示とは、はるか昔の法蔵比丘の誓願によって衆生は救われているのであるから、「南無阿弥陀仏」の各号を書いた札を民衆に配り(賦算)、民衆に既に救われていることを教えて回るというものであった。阿弥陀仏の絶対性は「信」すらも不要で、念仏を唱えることのみで極楽往生できると説いた。晩年には踊念仏を始める。 平安時代後期から鎌倉時代にかけて興った融通念仏宗・浄土宗・浄土真宗・時宗は、その後それぞれ発達をとげ、日本仏教における一大系統を形成して現在に至る。 室町時代以降 蓮如  本願寺は、親鸞の曾孫である覚如(1270年-1351年)が親鸞の廟堂を寺格化し、本願寺教団が成立する。その後衰退し天台宗の青蓮院の末寺になるものの、室町時代に本願寺第八世 蓮如(1415年-1499年)によって再興する。   寛正6年(1465年)に、延暦寺西塔の衆徒により大谷本願寺は破却される。   文明3年に北陸の吉崎に赴き、吉崎御坊を建立する。もともと北陸地方は、一向や一遍の影響を受けた地域であり、急速に教団は拡大していく。   信徒は「門徒」とも呼ばれるが、他宗から「一向宗」と呼ばれる強大な信徒集団を形成した。「一向」は「ひたすら」とも読み、「ひたすら阿弥陀仏の救済を信じる」という意味を持つ。まさにひたすら「南無阿弥陀仏」と称え続ける姿から、専修念仏の旨とするように全体を捉えがちであるが、実際には修験道の行者や、密教などの僧が浄土真宗に宗旨替えし、本願寺教団の僧となった者たちが現れる。一部ではその者たちによって、浄土真宗と他宗の教義が複雑に混合され、浄土真宗の教義には無い「呪術」や「祈祷」などの民間信仰が行われるようになる。よって必ずしも専修とは言えない状態になっていく。それに対し蓮如は再三にわたり「御文」などを用いて称名念仏を勧めるものの、文明7年(1475年)吉崎を退去し山科に移る。   蓮如の吉崎退去後も真宗門徒の団結力は絶大で、旧来の守護大名の勢力は著しく削がれた。中でも、加賀一向一揆や山城国一揆などの一向一揆は有名である。このため、多くの守護大名は妥協して共存の道を選択する。   しかし織田信長などは徹底的に弾圧し、10年かけて石山本願寺を落とし、本願寺教団の寺院活動のみに限定させる。(詳細は石山合戦を参照。)   その後は豊臣秀吉の介入による宗主継承問題を起因として、徳川家康により本願寺教団は東西に分立する。 新・景教のたどった道(55)中国の諸宗教と景教(5)浄土教と景教 川口一彦 コラムニスト : 川口一彦 中国浄土教の善導と景教について考えたいと思います。唐代の中国浄土教の有名な指導者は善導(613〜681)です。彼は20代後半に晋陽にいた道綽(どうしゃく、562〜645)から浄土教典の観無量寿経の教えを受けました(浄土教典には『無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経』の浄土三部経がある)。やがて長安の光明寺に道場を開いたことや大慈恩寺などに住み、645年に道綽が死ぬと、浄土教の念仏を弘(ひろ)め、やがて長安より西南の終南山にも住み、最後に光明寺の門前の柳の樹から投身往生を遂げたとの説も伝えられています。 日本の法然(1133〜1212)と親鸞(1173〜1263)らは善導の著作から多大の影響を受け、法然は自著の『選択本願念仏集』(1198年作)の最後に、善導は阿弥陀如来の化身と書いたほどで、親鸞も『高僧和讃』(1248年ごろ作)で同様のことを書きました。 善導が説いた救いとは、どんな者でも「南無阿弥陀仏」と阿弥陀仏の名を称えることにより極楽浄土に入ることができるという「称名念仏」で、南無(帰依する、信頼するの意味)と称えることができるのも人間を極楽浄土に入れるために本願修行した阿弥陀が信者に差し向けてくれたもの、だから阿弥陀は称える者を浄土に行かせてくれる、阿弥陀の名を称え、浄土に入れることは、一方的な計らいという他力本願の考えです。これぞ浄土教の福音といえるでしょう。これらの浄土教典はいつ頃創作されたかは分かりませんが、北西インドで紀元前後に作られたという説があります。 阿弥陀の意味は永遠の命・永遠の光で、新約聖書ヨハネの福音書に啓示された「永遠の命で永遠の光であるイエス」から取り入れたのではないかと考えるのです。イエスの救いの福音は30年代の聖霊降臨後に東方にも伝わり、使徒トマスも復活のイエスの福音をインドに行き宣教しました。それが浄土経典の制作に多少なりとも影響したかどうかが問われます。 さて、景教の初代宣教師の阿羅本が長安に来たのは635(太宗皇帝の貞観9)年、善導が22歳の時でした。その3年後、太宗皇帝の勅令として長安の義寧坊の一角に波斯胡寺(後に大秦寺と改称)が建ち、全国に宣教が開始されました。当然、仏教徒にもその知らせが届いたことでしょう。景教は諸国に大秦寺会堂を建て、終南山にも会堂が建ちました。ですから、善導が景教の説教や儀式を会堂で見聞する機会があったと考えます。 善導の著作の中に、阿弥陀仏を賛美する讃仏歌や極楽浄土への往生を願う緩やかな旋律で歌う『六時礼讃偈』があります。これは、景教碑に彫られ、実際に景教徒らが行った「七時礼讃」※注(1)から影響を受けたと考えます。 なぜならインド仏教はもともと仏への賛美がなく、一方で景教徒たちは、紀元前に作られた旧約聖書の中の多くの賛美歌や詩編歌を賛美し、三一神への賛美が中国に入る前からシリア語訳でささげられていたからです。景教徒たちが神の霊感を受けた聖書の賛美歌をささげることにより魂を強め、聖霊により力強く信仰の道を導かれていた姿に、善導は大きな影響を受けたことと考えます。 極楽浄土や阿弥陀は人が作り出した架空の場所・人物で、霊感されていないことは言うまでもありません。ですから『六時礼讃偈』の「往生の行」の最終文では「命の終わる時まで修行するがよい。一生のあいだ行ずることは、少し苦しいようではあるが・・」※注(2)と修行を勧めています。それは、善行がなければ不安の残る、救いのない苦しい自力宗教と言えるでしょう。 聖書は、現実に人となって罪深い者に「あなたの罪は赦(ゆる)された」と宣言したイエス、しかも死から復活されて永遠の命を保証し、昇天して天国を備えられたことを証しし、聖霊を心に宿して賛美し、希望をもって生きていく多くの証しで満ちています。そういうことで、浄土教とは大きく違う点かと考えます。 ※ 注 (1)旧約聖書詩篇119篇164節には「私は日に七度、あなたをほめたたえます」とあります。 (2)藤田宏達著『善導』(講談社、1985年)336ページを引用。

2022年12月12日月曜日

 

平安~鎌倉 日本の宗教史を変えた備作の人物Ⅱ


 承久の乱と備作

鎌倉殿と後鳥羽上皇の皇子頼仁親王

 法然、栄西没後の鎌倉殿と鎌倉仏教について

岡山歴研サロン

令和41215

ゆうあいセンター

山田良三


法然、栄西以降の主に鎌倉殿と備作の人物やその後の鎌倉仏教についてまとめました。後鳥羽上皇は熱心な熊野信仰者でした。生涯で28回も熊野詣をしています。(最も多かったのは後白河法皇)後鳥羽上皇が熊野詣中に、その女御を法然上人の弟子たちが出家させてしまい、上皇の怒りを買って、その結果法然上人や親鸞聖人が流された話はよく知られています。この法皇や上皇の熊野詣の先達をしたのが児島の山伏でした。児島山伏とは、役行者の弟子たちが、役行者が流されたときに、神宝を携えて、吉備児島にたどり着き、修験道の道場を開いたのが始まりで、聖武天皇の時、新熊野山(いまくまの)として、児島全島を皇室より寄進されたことで、児島が修験道の中心地になったことに始まります。

 その新熊野に後藤場上皇の皇子頼仁親王が承久の乱のあと遷されたのです。そしてこの新熊野の五流の法燈を頼仁親王の皇孫が引き継ぐこととなり今に至ります。明治新政府による神仏分離令のもっとも大きな被害を被ったのが修験道でした。もともと一つだった熊野神社と五流尊瀧院が別々のものとされてしまったのです。神仏分離の被害は今に至っても回復していません。日本全国ほとんどの神社仏閣が明治の神仏分離政策の前までは一体でした。明治新政府によって徹底的な神仏分離政策が進行して数多くの主要な寺院が破却されて今に至ります。日本が終戦後もその状態は続いたままで今に至ります。日本の精神文化や愛国心の喪失の背景にはこのような行き過ぎた神仏分離政策があったことを最近痛切に実感させられています。

ところで、承久の変は日本における公武の関係を決定的に変えてしまいました。それまであくまでも公が中心だったものが、完全に武が公を支配する体制になってしまいました。その後の日本は、徳川が最終的に天下を治めて平定するまで騒乱の時代が続いて行ったのです。

そういう時代の人々の救いをもたらしたのがその後鎌倉仏教と呼ばれる平安末から鎌倉時代に勃興した新しい宗教(仏教)の諸宗派でした。中でも代表的な臨済禅を開いた栄西と浄土宗を開いた法然はいずれも私たちの郷土、今の岡山県、備作の出身でした。その後も備作地方にゆかりのある人物が、様々な宗派において活躍しています。それらを総合的にまとめて振り返ってみてみたいと思います。


栄西禅師と鎌倉殿  

頼朝一周忌の導師(1200 正治2)

鎌倉に寿福寺、京に建仁寺を建立(1203 建仁3)

重源没 東大寺勧進職に栄西が就く


栄西の歩み (鎌倉入り以降)

1200 正治2)113日源頼朝一周忌法要の導師  閏二月寿福寺(北条政子建立)の住職に。7月寿福寺に十六羅漢像 開眼供養   道元誕生

1202 建仁2 三月 永福寺多宝塔成り 栄西導師で落慶法要  将軍源頼家、 朝廷に奏して帝城の東の地を栄西に施し建仁寺建立 

1203 建仁3 6建仁寺に台・密・禅の三宗を置く

1204 元久1 北条政子寿福寺で逆修の仏事 十二月七観音像の供養

1206 重源順寂 栄西に請い菩薩戒を受ける

 9月 重源の後任として東大寺勧進職に就く

1211 春正月「喫茶養生記」著

 7月 寿福寺で法事のあと将軍実朝と方丈にて法談

1212 法印に叙任

1213 5月 権僧正に   この年 道元 出家(14歳)      和田合戦

1214 建保2 「2将軍実朝病悩 栄西茶一煎を勧め「喫茶養生記」を実朝に献ず 実朝感悦す」(吾妻鏡)

1215 建保3 65日、寿福寺長老栄西入滅す(吾妻鑑)  75日、栄西建仁寺で安祥にして逝く(元亨釈書他)

1219 建保7 127日    将軍実朝 公暁に殺さる

1221承久3  承久の変



鎌倉殿(将軍実朝)と後鳥羽上皇

「鎌倉殿の13人」 将軍実朝と後鳥羽上皇の交流  鎌倉殿(将軍実朝)の後継に 後鳥羽上皇の第4皇子頼仁親王が候補にあがる  尼御台北条政子が京に赴き後継を決めてくる


~公暁による実朝の殺害

 建保7127日 鶴岡八幡宮で将軍実朝は義理の甥、鶴岡八幡宮の別当であった公暁に暗殺された

 (実朝の首は 不明とも) 


承久の変 承久の乱(じょうきゅうのらん)は、1221年(承久3年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱。日本初の武家政権という新興勢力を倒し、古代より続く朝廷の復権を目的とした争いである。承久の変、承久合戦ともいう。

<参考>承久の変で後鳥羽上皇の宮方で戦った代表的人物 山田重忠

 治承・寿永の乱では父・重満が墨俣川の戦いで源行家の軍勢に加わり討死したが、重忠はその後の木曾義仲入京に際して上洛し、一族の高田重家や葦敷重隆らと共に京中守護の任に就くなどした。義仲の滅亡後、源頼朝が鎌倉幕府を創設すると尾張国山田荘(名古屋市北西部、瀬戸市、長久手市の一帯)の地頭に任じられ御家人に列する。しかし山田氏の一門は伝統的に朝廷との繋がりが深く、重忠は鎌倉期以降も京で後鳥羽上皇に近侍し、建保元年(1213年)には上皇の法勝寺供養に供奉するなどしている。

 承久3年(1221年)5月、後鳥羽上皇が討幕の挙兵をすると重忠は水野高康(水野左近将監)ら一族とともにこれに参じた。同年6月、京方は幕府軍を美濃と尾張の国境の尾張川で迎え撃つことになり、重忠は墨俣に陣を置いた。京方の大将の河内判官藤原秀澄(京方の首謀者・藤原秀康の弟)は少ない兵力を分散する愚策をとっており、重忠は兵力を集中して機制を制して尾張国府を襲い、幕府軍を打ち破って鎌倉まで押し寄せる積極策を進言するが、臆病な秀澄はこれを取り上げなかった。

京方の美濃の防御線は幕府軍によってたちまち打ち破られ、早々に退却を始めた。重忠はこのまま退却しては武士の名折れと、300余騎で杭瀬川に陣をしき待ちかまえた。武蔵国児玉党3000余騎が押し寄せ重忠はさんざんに戦い、児玉党100余騎を討ち取る。重忠の奮戦があったものの京方は総崩れとなり、重忠も京へ退却した。京方は宇治川を頼りに京都の防衛を図り、重忠は比叡山山法師と瀬田に陣を置き、橋げたを落として楯を並べて幕府軍を迎え撃った。重忠と山法師は奮戦して熊谷直国熊谷直実の孫)を討ち取るが、幕府軍の大軍には敵わず京方の防御陣は突破された。幕府軍が都へ乱入する中で、重忠は藤原秀康、三浦胤義らと最後の一戦をすべく御所へ駆けつけるが、御所の門は固く閉じられ、上皇は彼らを文字どおり門前払いした。重忠は「大臆病の主上に騙られて、無駄死ぞ!」と門を叩いて悲憤した。

重忠は藤原秀康、三浦胤義ら京方武士の残党と東寺に立て籠もり、これに幕府軍の大軍が押し寄せた。重忠は敵15騎を討ち取る奮戦をしたが手勢のほとんどが討ち取られ、嵯峨般若寺山に落ちのび、ここで自害した。重忠の自害後、嫡子重継も幕府軍に捕らえられ殺害、孫の兼継越後に流され後に出家、僧侶として余生を送った。山田氏は兼継の弟・重親とその子の泰親の系統が継承していった。

長母寺(名古屋市北区山田)の住持を務めた無住国師の『沙石集』は重忠を「弓箭の道に優れ、心猛く、器量の勝った者である。心優しく、民の煩いを知り、優れた人物であった」と称賛している。また、信仰心の篤い人物であったと云われ領内に複数の寺院を建立したことでも知られている。(Wikipwdiaより)



承久の変で児島に遷された頼仁親王

 承久の変で児島に遷されたのが後鳥羽上皇の第四皇子頼仁親王でした


頼仁親王が遷された児島新熊野

(岡山宗教散歩 熊野神社と修験道  山田良三  宗教新聞令和21月号)



法然と熊野神社    このシリーズ(岡山宗教散歩)の最初に法然を取り上げました。その時に引用させてもらった、元中外日報記者山田繁夫氏の「法然と秦氏」の中に、熊野神社に関する記述があります。

 浄土宗史の研究家として知られる三田全信氏の「浄土周史の諸研究」の中に「平安中期の熊野に関する勘文を集めた『長寛勘文』の『熊野権現垂迹縁起』には熊野権現の成立に渡来人の関りを暗示していて、そのことの故か(法然上人の)『行状絵図』には法然の熊野信仰に係る話が散見される。」との著があります。その中で、いくつかの法然と熊野神社との関りを取り上げています。

 行状絵図20巻には作仏房と言う修験者が熊野証誠権現の神託によって法然のもとに参じて一向専修の行者になったことが記され、「行状絵図」37巻には、法然臨終の様子の中に西山(京の西側の山々)の木こりが駆け付けたことが記されています。この木こりについて三田氏は「西山の炭焼き業者は、熊野の秦氏と同系人で、林産業に従事していた人々であろう」と著しています。

 さらに三田氏は(法然の生家)漆間家が仁平元年(1151)に所領の美作国稲岡南荘を熊野坐神社(くまのにますじんじゃ)に奉納した事実を紹介しています。仁平元年というと、「醍醐本」の法然伝の記述によれば、法然の父漆間時国殺害の報を聞き、黒谷に隠遁の志を持った十八歳の年の翌年です三田氏は「漆間時国の死後、衰微していった漆間家が海運安全に力ある熊野坐神社に所領の一部を寄進したのであろう」と著しています。熊野神社の社領の文献「熊野年代記」に漆間家による所領の寄進の事実があるそうです。

 また三田氏は「南北朝期から室町朝期に活躍した浄土宗の学僧聖聡が著した『大原談義聞書抄見聞』の中で引用された『称揚集』という書の中で、法然三十八歳の嘉応二年(1176)に熊野本宮の別当湛増法橋が法然を招請したとの一文が残っていることから、当時は秦氏としての同族意識や、帰属意識が残っていたからであろうと著しています。


熊野詣と行幸山伏     熊野と言うと熊野詣が有名です。現在では熊野古道が人気となり多くの内外の観光客が熊野を訪れています。この熊野詣ですが、平安中期から鎌倉にかけてのころ、実に多くの歴代上皇の御幸が行われていました。最も多く御幸されたのが、源平合戦の時代に生きた後白河上皇です。後白河上皇は実に34回も熊野に行幸されています。その次に多いのが後鳥羽上皇で、その御幸回数は28回に及びます。法然上人伝では、後鳥羽上皇の熊野御幸中、都に残った女御が法然の弟子によって出家したとして、その弟子たちが断罪され、さらに師の法然の讃岐配流やその弟子親鸞の越後配流がなされました。

 この頃、上皇の熊野御幸の先達を務めたのが、児島の新熊野(いまくまの)の五流山伏達でした

五流山伏とは、文武天皇の三年、修験道、山伏の祖とされる役行者が冤罪により伊豆の大島に流された時、義学他5人の高弟たちが熊野権現に難が及ぶことを恐れて、長床坐衆五流八家十

家三十五院三百余人の門人たちとともに熊野権現のご神体霊宝を船に奉じて各地を彷徨い、最後に児島の柘榴浜(現倉敷市児島下の町)に到着、福南山の麓を経て現在熊野神社と五流尊流院のある福岡村林(現倉敷市林)に到着、熊野三山に擬し新熊野三山を造営したのが修験の根本道場五流の始まりです。五流尊流院の由緒沿革などにはその経緯が記されています。

 その後役行者が勅許により赦免され、義学なども紀州に帰り全国に散在している役行者の門弟の熊野大峯に参拝入峯するものを監督統理しました。天平20年になると聖武天皇より全児島(現児島半島一帯)が新熊野の神領として寄進されました。孝謙天皇の世には本殿、長床他の諸堂や鳥居が建造され「日本第一大霊験処」などの額が掲げられました。次いで木見(現倉敷市木見)には新宮諸興寺、瑜伽(現倉敷市児島由加)には瑜伽寺が創建され、合わせて新熊野三山とされたのです。このようにして義学など高弟五人の法統を継承した五流は役行者の験道を継承し行法秘儀を受け継いだ五流長床結衆として、そのもとには八家十二家の公卿山伏衆徒三十五寺の寺院を擁していました。本拠は児島に置き紀州にはそれぞれの別院を置いて往来し、熊野表の役職はすべて児島から任命していました。その故、歴代皇室の尊崇を受け歴代天皇、法皇の熊野行幸や大峯、葛城、金峯などの入峯先達を長床宿老が勤めることとなり兒島山伏は行幸山伏とも称され尊重されていったのです。



頼仁親王により復興された五流    さて、源平合戦の折、児島藤戸の合戦で源氏方が児島に陣取った平家に対して、藤戸の瀬を馬で渡って先陣を切った佐々木盛綱の功により源氏が大勝します。そこで源頼朝が(東)児島の波佐川(現岡山市南区灘崎町迫川)の荘を授けたことに対して熊野の一山がこれに抗議し返還を求めたことが伝えられています。

 承久の変においては、北条氏が後鳥羽上皇を隠岐の島に奉遷し、第四皇子の冷泉宮頼仁親王が児島に遷されました。頼仁親王は五流尊流院に庵室を結び、以来その嫡流が尊流院の庵室を継いでいます。以来五流五家の院家として、長床結衆は頼仁親王から出ているのです。頼仁親王の陵は諸興寺のあった木見にありますが、大正七年に宮内省の所管になり、現在は宮内庁の管轄となっています。

 また、同じく後鳥羽上皇の皇子桜井宮覚仁親王が熊野三山検校に併せて新熊野検校を兼ねて児島に下向、桜井親王と頼仁親王は隠岐で崩御された後鳥羽上皇のために供養の石塔と廟を建立されました。この宝塔は現在国の重文に指定され、五流尊流院の境内、熊野神社の駐車場となっている北側にあります。

 頼仁親王の長嫡道乗上人の子のうち後に尊流院を継いだ頼宴大僧正の三男三郎が外戚三宅範長の家を継いだのですが、これが後醍醐天皇に忠誠を尽くした忠臣として太平記に登場するい児島高徳です。児島高徳は太平記の作者小島法師その人ではとも言われ、高い学識があった人物として記されています。


五流尊瀧院 児島高徳碑

 五流尊瀧院児島高徳碑

児島高徳

3.児島高徳のルーツと後裔(「アメノヒボコと後裔たち」より)

児島高徳の家系と先祖

 家系図参照(「アメノヒボコと後裔たち」より、 庭田尚三氏による系図)  

 ・尊龍院系図  

 ・和田氏(三宅氏)系図

  アメノヒボコ(Wikipedia 抜粋参照)

   古事記   応神天皇の条

日本書紀  垂仁天皇の条   「ツヌガアラシト」「天日槍」渡来の伝承

      神功皇后(オキナガタラシヒメ)もその家系

・佐々木氏系図 


「備前軍記」に記された宇喜多家のルーツ(資料参照) 

アメノヒボコとは:新羅の王子  第4代新羅王 脱解王

<参考>アメノヒボコの系図(アメノヒボコと後裔の研究より)

アメノヒボコ渡来の時代背景:半島と日本列島

児島高徳と和田範長(庭田尚三著)では養父 和田範長に着目

 和田三宅範長は佐々木信実5代の裔、三宅範勝に子が無く佐々木を出て三宅を継ぐ

長男 高秀~宇喜多氏

  「備前軍記」に記された宇喜多家先祖としての児島高徳とアメノヒボコ

 「宇喜多和泉能家入道常玖画像賛」    参照「備前軍記」

次男 高久~幼少のころ姫路の海岸白浜の大庄屋沢田家に預けられる。6代の裔三宅三郎芳高が古海を訪ね墓参後小泉城主の客属になって済んだという。

沢田氏後裔に美保関親方(元大関増位山)親子がいる。 

 3男 高貞~三河の伊保城に定住。 三河三宅氏の祖

 5代清宣の弟清貞の時松平清康の攻略を受け落城。清貞の次子の子梅坪城主正貞が松平元康に降り家臣となる。正貞の子康貞衣藩主となり先祖児島高徳の祠堂を設けた。陣屋内に桜を植えその見事さから桜城と言われた。その後~4代康勝は渥美郡田原の田原城主に

4男 良覚

長女 徳子 三河で生まれる。古海で高徳を看取ったあと下野の宮下家に嫁す。古海(現 群馬県大泉町)

道元

承久の変ののち渡宋して帰国した道元が曹洞宗を開く (鎌倉とも密接な関係を築く)

 後に永平寺を開くが、鎌倉の御家人で 六波羅探題だった波多野義重の帰依と支援により永平寺を開く

波多野氏と道元

 正治2年(1200年)、京都久我家で生まれた道元は建保2年(1214年)出家し、園城寺・建仁寺で学ぶ。貞応2年(1223年) 明全とともに博多から南宋に渡って諸山を巡り、曹洞宗禅師の天童如浄より印可を受ける。天福元年(1233年)京都に興聖寺を開くが後に越前に移り、寛元2年(1244年) 傘松に大佛寺を開く。寛元4年(1246年) 大佛寺を永平寺に改め、宝治2-3年(1248-1249年)、執権北条時頼、波多野義重らの招請により教化のため鎌倉に下向する。建長5年(1253年) 病により永平寺の貫首を弟子孤雲懐奘に譲り、京都で没する


波多野氏とは平安時代末期から鎌倉時代にかけて、摂関家領である相模国波多野荘(現神奈川県秦野市)を本領とした豪族。坂東武士としては珍しく朝廷内でも高い位を持った豪族である。

前九年の役で活躍した佐伯経範[3]が祖とされ、河内源氏の源頼義の家人として仕えていた。経範の父・佐伯経資が頼義の相模守補任に際して、その目代となって相模国へ下向したのが波多野氏の起こりと考えられている。

承久の変後の曹洞宗 道元の年譜

1221 承久の変

1223北条義時没(62

1224九条頼経が将軍就任

1227 御成敗式目制定


1223 道元 渡宋


1227 道元 帰国 正法眼蔵執筆始める

1233 道元 深草に興聖寺創建

1234 比叡山僧徒からの弾圧を受け興聖寺焼き討ち

1243 波多野義重の招きで越前

1244 大佛寺を開く 

1246 永平寺に寺名を改める)

1247 道元 鎌倉に赴

1253 道元 寂

寂室元光  臨済宗永源寺派の祖、寂室元光


 寂室元光(じゃくしつげんこう、正応3515日(1290623日) 貞治6/正平2291日(1367925日))は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての臨済宗の僧。美作国高田(現岡山県真庭市勝山)に出生。俗姓は藤原氏。一説によれば小野宮藤原実頼の後裔とされる。諱は元光。道号は初め鉄船と号したがのちに寂室と称する。諡号は円応禅師、昭和311月には正燈国師の諡号あり。(Wikipedia

寂室元光を尊崇した山田方谷   山田方谷は、幕末の備中松山藩の儒学者ですが、藩主板倉勝静の要請で藩政を司るようになり、藩の財政改革や藩政改革の画期的な手腕を発揮し、その手腕は諸国に有名になり。長岡藩の河井継之助や長州藩の久坂玄随も学びに来ています。山田方谷に学ぶ会の渡辺道夫氏が「寂室元光と山田方谷」と題する論文の中で、寂室元光を敬愛する山田方谷の詩を取り上げています。 頼久寺にて作られた律詩12首のうちの一首です。

「寂光照徹超禅僧  万種人情入寸灯  闔国是非皆執我  一場文武只誇能  触時骨力砕如粉  遭変血盟寒似氷  独愛山中良友足  経霜松柏満岡陵」

方谷の寂室への敬愛の情がひしひしと伝わってくる詩といえる。と「備中 竹の荘 貞徳寺物語」の著者の村哲三は感想を述べています。 山田方谷先生が幼いころ師匠の丸川松隠に学んだ新見荘には現在も永源寺派の禅寺が多くあります。また、山田方谷は京都遊学中、禅を学んでいました。この当時寂室の禅に傾注していたことがわかります。この京都の禅寺で王陽明にふれ、その後江戸遊学中、佐藤一斉氏から王陽明を学んで、その教えを藩政に応用し、画期的な成果を上げていったのです


その後の浄土門  法然とその弟子たち
 ここでもう一度法然の生涯について振り返ってみましょう

1133 法然誕生

1141 父の死 菩提寺

1145 比叡山に登る

1147 父の死(醍醐本)

1150 黒谷別所 源空の

1173 親鸞誕生

1175 専修念仏 高橋茂右衛門宅訪問

1181 親鸞得度

1190 東大寺にて浄土三部経講ず

1198選択本願念仏集

1207 法然土佐配流(実際は讃岐)親鸞は越後

1211 京都吉永

1212 法然没

1214 親鸞 関東に

日本仏教の改革者 法然   

「厭離穢土欣求浄土」 徳川家と浄土宗   戦国時代を終わらせた武将が徳川家康でした。徳川家はその後代々続き、日本の歴史でもっとも長い265年間、戦乱のない平和な時代を実現しました。その徳川家が、戦国の戦いの時代に旗印としたのが、「厭離穢土欣求浄土」です。大河ドラマなどでも目にした人は多いでしょう!ところでその旗印の意味や起源については、あまり知られていないようです。

 「厭離穢土欣求浄土」とは、どういう意味なのでしょうか?またどのような経緯から徳川家の旗印として使用されるようになったのでしょうか?愛知県岡崎市大樹寺HPより、大樹寺責任役員 成田敏圀師の「厭離穢土 ~家康公の平和思想~」より。大樹寺は代々徳川家とそのもととなった松平家の菩提寺です。

徳川家のルーツと浄土の教え   徳川家のルーツは、八幡太郎義家の末裔とされる、上州得川出身の時宗遊行僧・徳阿弥が、還俗して三河の庄屋・松平太郎左衛門重信の婿養子になり松平親氏と名乗ったのが始まりです。松平家四代目の親忠が増上寺より勢誉愚底を招いて建てたのが、この岡崎市にある菩提寺の大樹寺でした。徳川家の姓の由来は家康が初代の得川の姓の得の字を徳の字に改めたのが始まりです。

 後に徳川家康の名を名乗る松平元康は、岡崎城主でした。しかし幼いころから今川家に人質として預けられ、成人してからも今川の家臣団として扱われていました。ところが上洛を目指していた今川義元に従って桶狭間にあった時、織田信長の急襲により敗北し義元も討死にすると、今川勢は敗走して散り散りバラバラになり、元康は城主を勤める岡崎へと逃れ、松平家菩提寺の大樹寺に至ります。桶狭間での敗戦に悲観した元康は、松平家代々の先祖の墓前で切腹しようとします。ところがその元康を、当時の大樹寺住職登誉上人が「厭離穢土欣求浄土」の話をして思いとどまらせたのです。

 「厭離穢土欣求浄土」(読みは えんりえど 又は おんりえど ごんぐじょうど)というのは、穢れた世を離れ万民が幸福に生きる世を実現するという意味です。上人は元康に「天下の父母となって万民の苦しみをなくしなさい」と教え諭すのです。南無阿弥陀仏の心でした。

 以来家康は旗指物には「厭離穢土 欣求浄土」と掲げ、口には念仏「南無阿弥陀仏」を唱えながら浄土の実現を期して戦国の世を戦い生き抜いてきました。徳川の時代が、265年という世界でも類例のない平和で豊かな時代を実現した背後にはこういう、徳川家の歴史と込められた浄土の教えがあったということです。その浄土の教え、専修念仏の教えの始まりが郷土の生んだ偉大な聖人 「法然」 でした。

法然の漆間家と一族の立石家   誕生寺の本堂の後、法然の父漆間時国と母秦氏君の廟である勢至堂と産湯の井戸に向かう無垢橋のたもとに椋木が立っています。ここに椋木に因む法然誕生の奇瑞が記されています。寺伝によれば、二流れの白幡が流れ来て椋の木の梢にかかり、天の奇瑞が現れたそうで、この木は「両幡の椋木」と名付けられています。元の木は朽ち、現在の木はその後植えられたものです。

 二流れの白幡の奇瑞は応神天皇誕生に際して八つの幡が下ったことと同じ深い意味があると、「法然上人行状絵図」などには記されています。元中外日報記者の山田繁夫氏著書『法然と秦氏』には、「二流れの幡の奇瑞は、二流れのハタを秦氏にさかのぼる父・漆間氏の家系と母・秦氏の家系つまり美作の秦氏系豪族であった両家を見立てた表現であろう」と書かれています。

 椋木の先にある片目川の名前の由来ですが、夜襲をかけた明石定明の片目を少年法然(勢至丸)が射貫き、定明が川で目を洗ってから片目の魚が出現するようになったからと伝えられています。この伝承について山田繁夫氏は、柳田国男が『論考 片目の魚』で、「片眼の魚にまつわる伝承とたたら鍛冶には深い繋がりがある」としたことから、漆間氏も秦氏など渡来系鍛冶集団との関りがあったのではないかと記しています。かつて中国山地一帯にはたたら鍛冶集団が数多くいて、誕生寺のある久米南町周辺にも多くの鉄滓が残っていることからもそのことを知ることができます。

 漆間家は美作国二宮の大庄屋を務めた立石家と同族でした。美作国二宮は津山市二宮の高野神社のあるところです。立石家は豪族でこの高野神社の神職も務めた神官家でもありました。立石家の本姓はもとは漆島で、宇佐八幡宮の社家であった辛島一族の漆島元邦が先祖です。この漆島元邦が封戸郡の立石に居住したことから立石を名乗るようになりました。その一族が延喜年間に美作に来住したと伝えられていますが、この時に、立石元邦の長男盛国が二宮の立石家を相続し、次男の盛栄が漆間を名乗って稲岡に居住し、その五代目時国の息子が法然上人だったのです。



秦氏が関わり和気清麻呂が造営太夫となった平安京の宗教的背景

ここで平安京造営に携わった和気氏と秦氏について学んでみます)

 和気氏と秦氏   地元で和気氏の研究者と知られる仙田実氏は、熊山遺跡は両者によって造られたであろうと述べています。岡山歴史研究会顧問で熊山遺跡保存研究会会長の岡野進氏によると、両者をさらに結びつけ、遺跡の築造にもかかわったのが鑑真と弟子たちとのことです。

 日本に正式な授戒を伝え、唐招提寺を建てた鑑真を、和気清麻呂の父の藤野別乎麻呂(おまろ平麻呂)が熊山に招請したのです。伝承では樒(シキミ)の木の香に導かれて、大滝山(福生寺)から熊山に登り霊仙寺を建立したとあります。

 岡山歴史研究会会員で歴史研究家の丸谷憲二氏は、鑑真の弟子で唐招提寺の第4代住職となった安如法が、石積遺跡がある現在のタジキスタン共和国のヴァンから来ていることから、彼の指導で石積の遺跡が造られたと推論しています。石積遺跡は中央アジアや東南アジアに広く分布しており、ヴァンの遺跡が熊山遺跡に酷似しているのです。

 唐招提寺第5代住職は豊安で、熊山の麓に豊安の地名があることもヴァンとの関係をうかがわせます。また秦氏の出身国とされる国弓月国もヴァンに近く、熊山遺跡は和気氏が施主で、鑑真の弟子でヴァン出身の安如法の指導で秦氏が施工したと推論す。

 熊山は備前国東部の山岳道場の中心地となり、児島高徳はここで後醍醐天皇支援のために挙兵し、金光教の開祖金光大神も熊山で修行しています。さらには大本教の出口王仁三郎は昭和5年に熊山に登り、熊山戒壇は素戔嗚大神様の御陵であると語っています。

 桓武帝のもとで  清麻呂が流罪になり大隅国に流されて2年後に称徳天皇が崩御し、道鏡は失脚、清麻呂は都に呼び戻されました。その後、摂津大夫・民部卿として長岡京の造営事業や、摂津・河内両国の治水事業などに当たり土木官僚としての実力を発揮します。桓武天皇の信任を得た清麻呂は、美作・備前の国造も兼務しました。

 桓武天皇は延暦13年(794)、清麻呂の建議により建設途上の長岡京をあきらめ、山背に平安京を造営、遷都します。清麻呂は造営大夫として指揮し、現在の京都の区割りや水利の原型を造ります。清麻呂が「平安京を造った人」と呼ばれる所以です。

 清麻呂は延暦 18 年(799) に薨去し、家督は長男の広世が継ぎます。広虫も同年に亡くなり、広世は父の事業を弟の真綱、仲世などと継承します。平安京の造営に加え最澄や空海を支援して平安仏教の興隆に貢献し、天皇の即位や国の重大事には宇佐八幡宮への勅使、宇佐使(うさづかい)を継承しています。

 石清水八幡宮は貞観2年(860)、和気氏氏寺の神願寺が高雄の神護寺に習合されたあとの男山に、宇佐八幡宮から八幡神を勧請して建立されました。中世には、伊勢神宮とともに二所宗廟となり、国を守る重要な霊廟の役割を果たします。主に学問で身を立てた和気氏は、後に医家となり、姓も半井姓と変え、政治から離れていきます。

 高雄の神護寺は最澄空海を保護して平安仏教の基礎を築きます。愛宕神社(白雲寺)愛宕権現は天平年間に役行者と秦氏出身の泰澄によって開かれ、天応元年(781)に桑田(元亀岡市)の阿多古神を勧請して王城鎮護の社となります。桑田は、鉄分を多く含む赤田に桑を植え、錦や綾を織っていた地です。亀岡は現在(宗)大本本部がある明智光秀の築城した亀山城があり、(宗)大本発祥の地綾部も秦氏との深い関係があります。綾部はグンゼの発祥地で、美作の秦氏の末裔である立石岐が津山にグンゼを誘致したのも何かの縁かもしれません。


秦氏とは   秦氏とは、新選姓氏録などによれば、応神天皇の頃、半島から渡来した氏族であり、神祇と殖産に秀でた集団だったと、「大和岩雄著「秦氏の研究」には書かれています。魏志韓人伝には、日本が倭国と称された時代、半島南部馬韓の東に秦始皇帝の労役から逃れた秦人がおり辰韓人と名付けたとあり、この辰韓人が渡来して秦氏となったのではないかと言われています。渡来系氏族の中でも最大数の一族でした。

 美作をはじめ岡山県の各地には秦氏の渡来と定住を物語る地名や史跡が数多く存在しています。秦廃寺の残る総社市秦や幡多廃寺のある岡山市幡多地区などはその代表的な地域です。瀬戸内市の福岡や備前市の香登などにも秦氏の伝承が残っています。岡山県の各地に残る秦氏に係る伝承や遺跡は、我々の郷土の文化や宗教に秦氏が重要な役割を果たしてきたことは間違いありません。その代表的な事例の一つが法然と法然の出自にまつわる秦氏の存在だと思われます。(岡山宗教散歩 法然 より)

法然を助けた秦氏の人々 法然が南都遊学に際して助けたのが秦氏の人々でした。中でも代表的な人物が秦氏の長者粟生の高橋茂右衛門でした。現在の光明寺(長岡京市)のあるところです。

 法然上人は24歳の時、比叡山から南都遊学の旅に出られました。その途中、粟生の里の長者高橋茂右ヱ門宅に一泊され、その際「ご房が求められようとする、 『誰もが救われる法門』が見つかりましたなら、是非とも我らにその教えをお説き下さい。」と茂右ヱ門夫婦に懇請されました。20年を経て、専修念仏の確信をえた法然上人(43歳)は比叡山を下り、 約束通り粟生の里をお念仏の教えを広く説き始める地に選ばれました。
 このような因縁に依って、念仏発祥の地、「浄土門根元地」の御綸旨を正親町天皇より賜りました。また法然上人滅後、専修念仏の教えは増々の広がりを見せました。その現状に不満をもった延暦寺衆徒により、法然上人墳墓の破却が企てられました(1227年)。そこで門弟たちはご遺骸を京都太秦へ移しました。すると、法然上人の石棺から数条の光明が放たれ、粟生の里念仏三昧院(現光明寺)を照らしたのです。門弟たちは相談の上、法然上人の17回忌にあたる1228125日にこの地へと移してご火葬されました。ご遺骨の大部分は当山に納め遺廟を築くべきであるとなり、芳骨を納め上に石塔を安置し雨露をさえぎる為に廟堂を造立しました。(光明寺HPより

 参照:法然と秦氏のつながりについては、山田繁夫著「法然と秦氏」に詳しく述べられています。

法然 法難に遭遇 讃岐で弘法大師生誕の善通寺を訪問    法然の名声は高まるばかりで、それに反発する叡山や南都の僧たちは、「念仏停止」を求める動きを強めていきます。そんな、法然の弟子たちが、当時の最高権威者である後鳥羽天皇が熊野詣をしている間に、天皇寵愛の女御たちを出家させてしまう事件が起こります。熊野詣から帰り、そのことを知った後鳥羽天皇は激怒し、2人の弟子の処刑と法然ほか主要な弟子たちの流罪を決定しましたこれが「建永の法難」です。

 香川県善通寺市の善通寺は弘法大師空海の生誕地として知られています。私は何度か訪れたことがあり、吉備歴史探訪会の人たちと行ってきました。この善通寺南門の右手に「法然上人逆修塔」があります。「逆修塔」とは、人が生前に建てる自らの供養塔のようなものです。




 法難で土佐に配流されることになった法然ですが、九条兼実の配慮もあり、配流先が讃岐に変わります。この配流を、法然は前向きに受け止めていました。15歳で比叡山に登った法然は、前半生を経堂に籠って修道に没頭し、京の都に下ってからは、貴賤を問わず人々に教えを広めました。その間、遊学や説法で東大寺を訪れた以外、一度も都を離れたことがありませんでした。法然は、初めて都を出て地方に行けることを喜び、しかもその行き先が尊敬してやまない弘法大師の故郷だと聞いてさらに喜んだのでした。(善通寺に残る「法然上人逆修塔」 は東院の塔の南側にあります)

親鸞

法然が讃岐に流されたとき越後に流されたのが親鸞でした。 善通寺の境内には「親鸞堂」もありますが、師の法然が善通寺に塔を寄進したことを聞いた親鸞は、自らも讃岐に行きたい気持ちを弟子に託し、自刻像を善通寺に奉納したのです。その自刻像を奉っているのが「親鸞堂」で、親鸞も法然とともに弘法大師を尊崇していたことがわかります。 越後に流された親鸞は、建保二年(1214)、越後から当東国布教のために常陸に向かいます。東国における浄土門の布教はここから始まりました。


一編上人 時宗の開祖

美作生まれではありませんが美作地方にたびたび訪れ、ゆかりの深いのが一遍上人です。

 鎌倉仏教はそれまでの平安仏教が公卿や貴族のための仏教であったものを、広く衆生の救済に道を開き、仏道のルネッサンスともいうべき大改革を実現したものです。法然から栄西、道元、日蓮と様々な宗派の仏教者が続きましたが、それらの鎌倉仏教を締めくくったのが一遍でした。鎌倉新仏教の始まりは。美作国稲岡が出自の法然で、日本の浄土宗の開祖となっています。浄土宗は、阿弥陀仏の極楽浄土に往生し成仏することを説く教える浄土教の一派ですが、一遍の時宗もまた浄土教の教えでした。浄土教の日本における源流は、実践面では平安の中期に、民衆に「南無阿弥陀仏」を説いて回った空也上人であり、教学面では恵心僧都源信とも言えます。法然は源信の「往生要集」に強く影響を受けて専修念仏の教えを説いて教えました。それに対して一遍は「我が先達なり」として空也上人をとても尊敬し、民衆の中に入って行き「南無阿弥陀仏」の教えを広めていきました。「南無阿弥陀仏 六十万人決定往生」の名号札を配る賦算を続け、阿弥陀信仰を広めて回ったのです。

 一遍上人は延応元年(1239)伊予国の道後温泉の奥谷の宝厳寺で河野道弘(母は大江氏)の子として誕生しました。ちょうどこの年は後鳥羽上皇が隠岐で崩御した年でした。河野氏は児島高徳の河野氏であるなど備州とはゆかりの深い一族でした。一遍の誕生のころ父はすでに出家していて、法然の代表的な弟子のひとり西山上人と呼ばれた証空のもとで修行していました。その後一遍は出家して証空の弟子から教えを学びます。その後熊野権現詣の時から名号札を配り始めます。


 

備州には何度か訪れています。一番代表的なのが「備前福岡市」です。その様子を描いた絵は一遍上人絵伝でも代表的な絵で、当時の市場の様子を知る貴重な題材として、歴史教科書にも掲載されています。福岡に来たのは弘安元年(1278)でした。その後祖父の墓を奥州江差に訪ねるなどして、弘安8年(1285)丹後から伯耆を経て美作の中山神社にやってきました。この時の逸話に出てくるのが金森山です。その後弘安10年(1287)に備中石軽部の宿に滞在した記録が残ります。この時安養寺に訪問したであろうと思われます。その後備後吉備津宮に詣でたのち故郷に帰ります。最後の旅路は正応2年(1289)伊予国を出て、法然上人ゆかりの善通寺を訪ね阿波から淡路を経て兵庫に至り、ここで往生したのでした。(詳しくは拙著の「美作に来た一遍」を参照してください。)


日蓮とその弟子たち 法華宗について

鎌倉末に新しい宗派として生まれたのが日蓮宗(法華宗)です。

日蓮(122282)は安房国(千葉県)に生まれ,比叡山・奈良・高野山など旧仏教寺院に遊学修行し,1253年法華宗を開く。その立場は『法華経』の題目を唱えることによってのみ救われるとし,盛んに他宗攻撃を行い,迫害にも屈せず,『立正安国論』を幕府に献じ,国難を予言したので伊豆・佐渡に流された。のち許されて,甲斐の身延 (みのぶ) 山にこもり,武蔵の池上(現東京都大田区)で没した。ほかに『開目鈔』『観心本尊鈔』などの著書がある。(コトバンク)


日蓮の生涯(年表)

1224 北条義時没(62

1222日蓮誕生

1232 御成敗式目制定


1239 後鳥羽上皇隠岐で崩御(60

1233 清澄寺に入門

1238 得度出家

1245 比叡山に


1253 清澄山にて立教開示


1260 立正安国論

1262 佐渡配流

1274 文永11 文永の役(元寇)

1271文永元    龍ノ口の法難

1281 弘安4 弘安の役(元寇)

1282日蓮寂

1297大覚誕生(逆算)

日蓮の教えを京に広めたのが日像で、そのもとに弟子入りして、後に備前・備中に法華宗を伝え広めたのが大覚妙実でした。


備前法華の基、大覚大僧正来備の経緯とその出自  備前法華の歴史

 備前に法華をもたらした大覚大僧正   備前国に最初に法華宗をもたらしたのは京都妙顕寺二世の大覚大僧正です。大覚妙実が正式な名前で、永仁5年(1297)の生まれと伝えられています。幼名は月光丸と称し、その出自は不明で諸説あります。諸説の中には、後醍醐天皇皇子説や児島高徳皇子説、近衛経忠子息説などもあり、いずれが真実かは定かでありません。しかし、いずれにせよ、その後の有力者との関わりや、最終的には大僧正に任じられたことなどから、いずれかの高貴な家系の出自であることには間違いないようです。
 修業の初めは真言を学んでいた妙実でしたが、17歳の時、京に法華の伝道に来ていた日像と出会い、その教えを7日間聴聞して弟子になりました。日像は下総の出身で、日蓮とその弟子日朗に師事、日蓮の願いを受けて京に登り、度々追放などの迫害を受けながらも克服して妙顕寺を創建、京に法華の基盤を最初に作った法華僧でした。日像に師事した妙実はその右腕として活躍、公武との接近にも尽力して、法華宗の公認とその基盤の拡大に貢献します。また三備地方(備前、備中、備後、美作)に法華を伝え、西国に法華の礎を築いたのも大覚妙実でした。

 大覚妙実の西国来訪は備中国野山(現吉備中央町)妙本寺から始まった

西身延 妙本寺   吉備中央町賀陽にある妙本寺は「西身延」と呼ばれ、西国に法華宗を広めた中心道場となった法華宗寺院です。妙本寺を開山したのは、もともと鎌倉の御家人伊達朝義で、日蓮上人が龍ノ口の法難を受けたとき、立ち会った一人でした。龍ノ口における日蓮の姿に深い感銘を覚えた伊達朝義は以来日蓮に深く帰依、日蓮の信奉者となりました。承久の変(1221)ののち備中国野山(現吉備中央町)に地頭として赴任した、建治元年(1275)あるいは弘安四年(1281)際、館の東北岡の上にあった天台寺院を改宗して草創されたのが妙本寺でした。当初朝義は日蓮上人直接の来訪を願いましたが、日蓮はすでに高齢のためかなわず、日蓮は京に布教に赴いていた日像を送ることを約束しましたが、当時日像は京での役務が忙しく、結局朝義の死(1306)後、その弟子の妙実(のちの大覚大僧正)がのやまを訪れたのです。それが天和年間(13121317)のことでした。その後妙実はたびたび野山の妙本寺を訪れ、妙本寺を拠点に、備中、備前、備後などへの布教を続けました。そうやって妙本寺は法華宗の西国の中心道場となり、「西見延」と呼ばれるようになって行きました。妙本寺の山号の具足山は日蓮上人からいただいたと伝えられます。
備前法華の基を築いた松田家  このころ妙実は三野郡津島村の弘法大師開基とされる真言宗の福輪寺を釈伏して日蓮宗としました。承久の変後、備前国守護代として富山城主(現岡山市北区矢坂)だった松田元喬は、この話を聞いて妙実を城内に招き、真言宗僧侶と問答を戦わさせました。この問答で妙実が勝利したのを見た松田元喬は法華に帰依して、以後領内の寺院を法華に改宗させていきました。このころ開創された法華の代表的寺院が自らの法名「蓮昌院」から名づけたとされる蓮昌寺です。その後居城を築いた金川に道林寺妙圀寺、辛川に妙源寺、福輪寺跡に明善寺を開きました。さらに領内の寺院と領民を悉く法華に改宗させて行きました。改宗に応じなかった金山法華寺や吉備津宮、美作誕生寺などは焼き払われたといわれます。


	

<岡山市南区浜野 松寿寺>

 多田頼貞の帰依と松壽寺   大覚妙実が三備地方に赴いたのは、正和年間(1312年 - 1317年)備中の野山庄に訪れたのが最初ですが、その後1333年から1342年にかけての頃、備前国に法華を広めていきました。
 最初に備前国の入り口にあたる牛窓に建てられたのが本蓮寺だとの伝承があります。さらに備前国の代表的な法華宗寺院の一つととなったのが岡山市南区浜野にある松壽寺です。
 この浜野の松壽時からから備前国一帯の法華宗の布教が始まったといわれています。

題目石と大覚大僧正墓

松壽寺

 大覚妙実が訪れたころの備前国濱野村は、吉備の児島との間に広がる湾に突き出た洲のようなところでした。現在の浜野の一帯は岡山市の中心を流れる旭川の左岸土手沿いのかなり内陸に位置しているように見えますが、この頃の濱野村は瀬戸内の入り江に張り出した洲の先にある海辺の村でした。当時この濱野村の一帯を治めていたのが多田入道、多田頼貞(頼定)でした。
 多田頼貞は源頼光の9代の嫡孫で、後醍醐天皇に忠誠を尽くした武将として知られた人物です。建武の中興の恩賞で、多田家は、摂津能勢の目代になっていましたが、興国元年(1340)、後村上天皇の命により伊予国に出兵、細川氏との戦いに敗れて備前国に到り、濱野村や網浜(岡山市中区網浜)を拠点にして近隣の豪族を味方に付けて、後醍醐天皇方の勢力を盛り返しつつあったころでした。大覚妙実はその多田頼定を頼って訪れたのでした。 興国4年(1343多田頼貞は当時足利尊氏に味方していた播磨の赤松氏と戦うこととなりました。最初の網浜の戦いでは勝利したものの、次の戦いでは裏切り者が続出して敗北、進退窮まってしまいました。その時、多田氏の孤忠を知る足利尊氏は、降伏を勧めたのですが、頼貞はそれを断ります。息子の頼仲に「多田家は武家には仕えず、足利に仕えるなら、名を能勢に改めよ」として自刃しました。
 能勢に名を改めた嫡男頼仲は尊氏に仕えることとなり、能勢の所領安堵のほか備前17郷を与えられました。頼仲が父親自刃の地に父供養の為に大覚妙実を迎えて一寺を開基したのが、松壽寺でした。次いで二日市にあった多田家の家臣宅に妙勝寺(現岡山市北区船頭町)を開き、この二寺から備前の法華が広がって行ったと言われています。

	

大覚大僧正(松壽寺蔵)

雨乞い祈祷の大覚

 現在、松壽寺の境内には多田頼定を祀る廟があります。ここには主君頼定とともに殉じた家臣の墓も祀られています。南朝の忠臣として知られた多田頼貞は池田継政により毎年命日の8月12日に大法要が執り行われ多田頼貞と一族の供養が続けられてきました。池田家の庇護がなくなった明治以降は岡山市が中心となり昭和中期まで供養の祭祀が続けられてきました。
 松壽寺を訪問させていただいた折大覚大僧正が濱野に至ったのは、偶然ではない」と、菊地恵祐住職に教えていただきました。大覚妙実が濱野村にやってきたのは、当時濱野村を含む一帯を治めていた多田頼貞が、後醍醐天皇に忠誠を尽くしたことで知られる人物だったことや、その出自が後醍醐天皇などとも深いかかわりのある家系に生まれたと言われていたことなどからして、何らかの目的や理由があって濱野村にやってきたのではないかと思われます。    
大覚はどこから備前岡山ににやって来たのか?   大覚妙実がどこから備前国にやって来たのか諸説あります。まず本蓮寺のある備前岡山の東の入り口にあたる牛窓の港からやってきたという説です。次に現在松寿寺のある濱野村に直接やって来たのではと言われています。そして備中などへの入り口にもあたり、南朝ともゆかりが深い熊野社のある備前国児島からやって来たのではとの説もあります。

京に帰って 備前
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日實に
  大覚妙実が京に帰って後は、その弟子の日實が、備前の伝道を継承します。日實は後に京の妙覚寺を創建しました。そこで備前には妙覚寺の末寺が多く、大覚開基の寺の多かった備中には妙顕寺の末寺が今も多くあります。牛窓の本蓮寺は大覚妙実による法花堂が前身とされますが、本能寺の日隆が弟子の日暁を遣わして諸堂の整備を行いました。日明貿易の商人などが数多く帰依したようです。同じく備前市浦伊部の妙圀寺は京都本圀寺五世の日伝により天台宗から改宗されています。岡山県東部を流れる吉井川沿いには妙満寺を本山とする絹本法華宗が教線を拡大して行きました。このようにして備前国は、日蓮宗各派が競って布教することにより、ますます法華が盛んになって行ったのです。
雨乞い祈祷  康永元年(1342)京に戻った大覚は妙顕寺第二世貫主となります。妙顕寺では幕府の要請で法華経を転読、天下静謐の祈祷を行って幕府の保護を受けるようになります。皇室にも祈祷を捧げて関係を深めます。旱魃のあった延文3年(1358)には、桂川で雨乞い祈祷をし、降雨をもたらします。この祈祷の験で、師の日蓮、日朗、日像が菩薩号を賜り、大覚自身は日蓮宗で最初の大僧正に任じられたのです。大覚は日蓮宗と公武を繋ぐ重要な役割をますます大きく果たすようになって行きます。大覚は貞治3年(1364)妙顕寺で68歳で遷化、遺骸は師の日像と同じ深草(宝塔寺)で荼毘に付され、廟が設けられました。  

西国一の大寺 蓮昌寺    康永三年(1344)松田元喬 岡山城内榎木の馬場に連昌寺創建の伝 寺名は松田元喬の法号に基づく 天正元年(1573)宇喜多直家 蓮昌寺を国富に移転  慶長4年(1599)蓮昌寺(国富)大堂落慶開眼供養  慶長6年(1601)小早川秀秋岡山城入城 蓮昌寺国富より現在地に移る 慶長8年池田忠継岡山に  寛永9年(1632)池田光政岡山入封  蓮昌寺は岡山城下を代表する大寺として尊崇されてきた。

 





蓮昌寺は明治以降も岡山を代表する大寺として尊崇され、昭和20年の岡山大空襲で焼失するまで、本堂及び三重塔、祖師堂が旧国宝に指定されていた。寺域一万坪に及び、池田家の菩提寺国清寺に匹敵する大寺であり、法華宗寺院では西国一の大寺であった。(写真は戦前の大寺蓮昌寺)

寛文の法難とその後の不授不施    寛文5年(1665)5月、備前岡山藩主の池田光政は社寺の統廃合を命じました。一村一氏神の制度を定め、それ以外の小社は寄せ宮とし、庶民が信仰する祠は淫祠として禁止したのです。同年7月には幕府は「諸宗寺院諸法度」を発し、各寺院に受領手形の提出を命じて、応じなければ廃寺にすると迫りました。狙いは不受不施派の取り締まりです。岡山藩では563か寺が廃寺になり、僧847人が追放、還俗されます。うち不受不施は313か寺、僧585人で、これが「寛文の法難」です。
 その後も不授不施への取り締まりは続き幕末から明治に至ります。その後の不受不施の近世下の歩みなどは「池田光政の宗教政策と不受不施派にまとめてありますのでご参照ください。


児島高徳と太平記 

児島高徳と大覚の同一人物説?後醍醐天皇皇子説?  参照:「児島高徳皇子論」

   江戸初期の時代「太平記読み」が盛んになり「太平記」が武士や庶民の教育の教材となっていった。

 「児島高徳と太平記」そのルーツと後裔 

 岡山人物銘々伝を語る会(平成29年8月18日) 当日の参考資料あります。

太平記のもたらしたもの  太平記は戦国大名の教科書だった。また太平記は当時の百科事典だった。そののちの武家の生きざまのモデルとなったのが『太平記』に登場する人物たち。 

<参考>「太平記読み」の時代 若尾政希 著   「太平記評判秘伝理尽鈔 」の講釈から始まった「太平記読み」  岡山藩政に影響を与えた「太平記」第5章 岡山藩政の確立と「太平記読み」 第6章 池田光政の思想形成と「太平記読み」池田藩に仕えた横井養元  ◆「児島高徳皇子論」豊田稔著  ◆『太平記』と児島高徳 そのルーツと後裔 (山田良三 )

藤井駿先生の東大寺文書からの証明   吉備地方史の研究 児島高徳の一党たる今木・大富両氏について  藤井駿  (昭和17年 「史潮」掲載)  ◆児島高徳実在論  宮家史郎著 児島高徳同族会 (昭和49年)

児島高徳と和田範長(庭田尚三著) アメノヒボコと後裔たち 鳥海ヤエ子著 (2004年)  ◆太平記奇伝 児島高徳  火坂雅志  鬼道太平記 風雲児・児島高徳  火坂雅志  (1995年)  吉備地方史の研究 児島高徳の一党たる今木・大富両氏について  藤井駿  (昭和17年 「史潮」掲載)  太平記(1,2) 後藤丹治 釜田喜三郎 校注 日本古典文学大系 岩波書店  太平記1  兵頭裕已校注 岩波文庫  范蠡  立石優  私本 長慶天皇と児島高徳太平記  庭田尚三  私本 児島高徳太平記 別冊 「児島高徳と和田範長」 庭田尚三  新釈 備前軍記  柴田一 編著  山陽新聞社  「太平記読み」の時代  若尾政希 平凡社  宣教師と『太平記』  神田千里 集英社新書  太平記に学ぶ人間学 安藤英男著   Wikipedia  「アメノヒボコ」  「脱解尼師今」 他  太平記の里シリーズ 2,000年前韓国から来た私たちのルーツ 三宅英雄氏のHP  正さねばならぬ美作の歴史  靈仁王 美作南朝正史研究会  国史上疑問の人物 国史講習會 昭和11年発行  児島高徳 八代國治  児島高徳実在論  宮家史郎著 児島高徳同族会 (昭和49年)



	

岡山郷土歴史文化研究会

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