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2017年1月14日土曜日

吉備の歴史への取り組み

しばらく更新を怠っていました。
復活します。

岡山人物銘々伝を語る会
吉備歴史探訪会
岡山歴史研究会

主に吉備楽土(山田良三)の活動舞台です。

今年は岡山人物銘々伝を語る会で「児島高徳」を取り上げようと思っています。
現在資料を収拾と読み込みを始めています。

先日児島郷内の井上さん宅に伺い、様々な資料を見せていただきました。
郷内と言えば林の五流尊瀧院と熊野神社、児島山伏の本拠の地、児島高徳誕生の地とされています。五流尊瀧院には児島高徳誕生の地の碑があります。

ブログ主山田の誕生地は現在の倉敷市児島白尾、由加山蓮台寺の檀家に生まれました。由加山まで徒歩で30分くらいのところにあります。小さいことはよく由加山の神社やお寺に遊びに行ったものです。

1月の3日に初詣に由加山に行きましたがすごい参拝客で驚きました。我々の小さい事にはあんなにさびれていたのにと思います。

今は由加神社本宮と言います。宮司が同級生で中学校時代は一緒に通った間柄ですが、その宮司が金毘羅山との両参りの復活をと始めた由加山の火渡り大祭が昨年30周年を迎えたということで知り合いの宗教新聞の編集長と取材に同行して行きました。

この火渡りの大祭も以前何度か行ったことがありますが、ずいぶん参拝者が増えたものです。

昨年は大河ドラマ「真田丸」で、由加山の山上の多宝塔(県の重文、県内一の大きさを誇ります)
の脇に「真田幸村公頌徳碑」があることを紹介しました。
私の生まれ故郷の児島は繊維の街、今はジーンズの街として有名になっています。その繊維産業の起こりが、江戸時代栄えた讃岐の金毘羅山と備前児島の由加山の両参りの参拝客に真田紐を販売したのが始まりです。
児島は古来から綿花の栽培が盛んで、綿糸を製造していました。その綿糸を利用して真田紐を織って参拝者に販売したところこれが評判になり、地元児島の産業になったのです。
真田が九度山に蟄居中内職として始めた真田紐です。だれがどのようにして真田紐の製造技術を児島の人々に教えたのかはわかりませんが、真田紐あっての児島、真田家あっての真田紐ですから、昭和18年ちょうど戦時中ですが地元の繊維業者たちによって建てられたようです。
その由来はともかく「真田のおかげ」で現在の児島ありですので。やはり今でも真田家には感謝しないといけません。

何故児島に真田紐が?実は私の大学時代の先輩に村井さんという方があります。現在山口県の周南市で造り酒屋を営んでおられます。この村井先輩がやはり歴史が趣味でいろいろ地元の歴史クラブに参加して活動しておられるようです。この先輩がしばらく前に由加山に参拝したとの便りをくれました。それからこの先輩の自宅近くに真田の子孫がおられるとの情報でした。

吉備の児島~現在は児島半島となり本州と陸続きですが、かつて源平の合戦やそのしばらく後までは児島は「島」であって、瀬戸内海を航海する船も現在の児島の北側を航行していました。
今でもそうですが、児島は瀬戸内海航路のほぼ中央、瀬戸内海は干満の激しいところですから、東西を航行する船は海の満ち欠けに乗ってすなわち潮の流れに従って航海すれば丁度児島の当りにたどり着くわけです。潮目の代わるあいだ児島の港に船を停めて、そこから児島の名刹由加山に参拝した人たちも多かった模様です。由加山の瀬戸内海側の港が田の口港です。ここには四国は讃岐の金毘羅山からの参拝客や大阪からの商人や瀬戸内海各地の商人や船乗りが船を降り立ち由加山に向かいました。田の口の港には立派な鳥居が建っています。
江戸時代の名浮世絵師広重の画いた全国の名所絵図にも田の口港を描いた絵があります。(岡山県立図書館に5年前に実物が収蔵され、実物を見せてもらいに行きました。)
田の口から由加山までは約1時間の道のりです。当時としてはさほど遠い距離ではありません。
由加大権現は瀬戸内海を航海する商人や船乗りの崇敬を集め瀬戸内海沿岸を中心に全国に今でも52の末社があるそうです。私は九州宇佐八幡宮に参拝の折、そこにも由加神社がまつられているのをみて驚いたものです。
由加山には境内に多くの玉垣が残っていますが多くが大阪の商人の名が刻まれています。
由加神社の手水舎の脇の玉垣に有名な江戸の商人、塩原太助の奉納した玉垣があります。遥か江戸にまでその名の轟いていた由加山大権現だったのですね。

ちなみに金毘羅山にお参りした話の残る森の石松、彼はどうやら金毘羅山にはお参りしたものの由加大権現にはお参りしなかったようで、彼がその後不運だったのは両参りで由加山にお参りしなかったからでは・・・という話もあるようで~それは定かではありませんが、両参りが盛んだったころの話です。

吉備の児島は古代から瀬戸内海でも重要な島として、古事記日本書紀の国生み神話にも登場します。今でも瀬戸大橋で四国に通じる交通の要衝ですが、古代の瀬戸内海の航海をする人々にとっては何より重要な拠点の島であり。東西い通じ文化も醸成されていったものだと思います。
藤戸の瀬戸を隔てた陸側の吉備国も瀬戸内海航路の児島があればこそ栄えて行ったともいうことができます。

そんな児島が故郷の吉備楽土(山田)です。
その歴史の中で南朝の忠臣として太平記に記された武将「児島高徳」
関心を持たざるを得ません。
地元にいながらあまり多くのことを知らないのが児島高徳です。
それは児島高徳という武将が「太平記」にしか登場しないからだといわれています。明治のころには「不在論」も登場したようです。逆に「太平記」の著者である小島法師は児島高徳その人であるとも言われています。事実はどうなのでしょうか?

「太平記」は江戸の初期多くの大名家においても読まれ、「太平記読み」という職もあったといわれます。備前岡山の池田光政公も太平記を読み、政治の指南とされたそうです。

ちょっと興味がわいてきました。
これから関心をもって読んだり見たりしたことからブログ書いてみようと思っています。

以後よろしくお願いいたします。