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2010年12月16日木曜日

改めて思う和気清麻呂の偉大さ そして国運と言うこと

最近の日本の状況をみると憂うる事ばかりである。
いちいち評論しても仕方が無いくらいに、世の中には問題が山積している。日常茶飯事のごとくに事件が頻発している。皆があきらめてしまっていることのような中に問題が潜んでいる。

こんな中改めて、郷土出身の偉人たちを思う。その代表格が政治面では和気清麻呂であり、宗教家では法然上人ではないかと思う。そのことはこのブログでたびたび紹介した中に書いてきた。

和気清麻呂の精神とは何か?
それは第1に「天を敬う心」であり、それは弓削の道鏡事件の時の彼のとった態度によくあらわれている。「獨慙天地」という真筆にもそれがうかがわれれる。
第2に「民を思う心」である。それは和気氏が故郷の和気郷に尽くした内容や、大隅国に流された時の逸話、また姉の広虫姫が孤児を養ったことなどに、強くそれを見ることが出来る。
そして最後は「国を思う心」である。それは道鏡事件の時の彼の態度もそうであるが、何より日本国の新しい首都としての「平安京造営」にかけた彼と彼の一族の意気込みと取組にはっきり見ることが出来る。
平安京造営以来1000年以上の期間、京都は日本の首都であり続けた。この間武家の台頭により政治の実権は武士が握って行った時代を通過したと言っても、首都としての日本の位置と、天皇を中心とした国家体制は変わることなく続いてきた。


その精神、つづめて言えば「敬天愛人愛国」である。


もう一人の偉人は[法然上人]である。法然上人についてはいずれ詳しく書くが、法然上人の生きざまにも同様の精神が流れている。


その精神性、宗教性の背景には何があるのか?二人に共通するキーワードは何か?
それは「・氏」である。このこともすでに論じてきたが、これからさらに詳しくまとめて行きたいと考えている。


さて、今日のテーマの一つである「国運」と言うこと。
経済的には「景気が悪い」ということで言われているが、今の日本はあらゆる面で「国運」が牛対していることは否めない。
個人や、一族、企業のようなものにも「運勢]がある。東洋人はそのことを大切にして来た。
国にも運勢がある。今の日本にそれが失われていっていることは、だれもが認めざるを得ない
今は極めて深刻な状況になっているというのが衆目の一致するところである。


ここで、平安京を造営した和気清麻呂の精神と生きざまに、今の日本の危機を打開するヒントがあるのではないかと言うのが、当ブログの主の主張である。
そのことを引き続き書いていってみたいと思っている。

岡山人物銘々伝を語る会12月例会

岡山人物銘々伝を語る会12月例会の案内です



  日時:平成221217()※ 午後6~8時  (※通例は第3金曜日です)
  場所:岡山県立図書館の2階
  内容:「旧制六高柔道部の全国8連覇の師範金光弥一兵衛講道館九段」
  講師:高橋義雄( 中国銀行 元支店長 岡大柔道部出身 )
  参加費:1,000

           [金光弥一兵衛(かなみつ やいちひょうえ)]1892-1966
大正~昭和時代の柔道家
明治25年3月25日生れ 講道館で修行し、東京帝大、広島高等師範などで柔道教師を務める。大正9年六高の柔道教師となり、大正11年から連続8回全国高専大会で優勝に導く。大正13年第1回明治神宮大会で優勝。昭和17年、六高教授に。昭和23年九段 昭和四一年死去 七四歳 

柔道界でとても活躍された方だそうです。
岡山からはスポーツや武道の面でも多くの人物を輩出していますね。
今回講師は岡大柔道部出身で幅広く活躍されている高橋義雄さんです。お話楽しみです。

今週金曜日の午後6時から県立図書館の2Fです。
このブログを読まれて関心をもたれた方はぜひおいで下さい。

2010年11月27日土曜日

『楯築遺跡と卑弥呼の鬼道』 を読んで

薬師寺慎一先生の 『楯築遺跡と卑弥呼の鬼道』 (吉備人出版)を読んでみた。薬師寺先生は、古代祭祀の形態から、楯築遺跡の葬られているのが、卑弥呼か、卑弥呼に匹敵する人物であろうという。遺跡から出た大量の朱(水銀)や5つの立石の状況を詳しく調べながら、この楯築遺跡に葬られた人物が、きわめて有力な首長、しかもそれは道教の祭祀を行った、女性の首長であろうと言わる。
2世紀末から3世紀一の時代には、最大規模の墳墓が楯築遺跡であるという。しかもこの時代は魏志倭人伝に出てくる、卑弥呼の時代と一致する。
邪馬台国吉備説と言うことにもなる。
同薬師寺先生の説によると造山古墳もその時代において倭国最大の墳墓だったといわれれる。となると2世紀末から3~4世紀にかけての時代、吉備が倭国の中心地だった可能性を示唆している。



2010年11月25日木曜日

秦氏の君の像

誕生寺に秦氏の君の像が、建立され、法要が営まれたそうである。
この春、誕生寺を訪れ、ご住職にお話を伺ったときに、[この秋には秦氏の君の像が完成するので]と言われていたので、楽しみにしていたが、いよいよ完成とのこと、うれしく思っています。早く一度誕生寺を訪ねたいと思いますが、今のところ公私ともに忙しく果たせていません。

思えば何年か前に、私の主催している歴史探訪会で同行された達磨協会の井口末次さんが[秦氏の君がやってきて、よく来てくれた、私の気持ちをわかってほしいといわれた」と聞いて、母君の無念が今も続いてきたんだなあと、思わされたのを思い出します。
その井口さんも、今年他界されて、あの世で法然上人やその母君に会われているのかなと思っています。井口さんは、津山に来て法然上人をとても尊敬していた内村鑑三師とゆかりの深い、信州教育の祖とも言われたキリスト者井口喜源治の親戚に当る人、皆さんそろってこの日を喜び、法要にも参加されたかなと、勝手に思っています。

思うに、法然上人は日本を代表する宗教家、その父母の敵をも許す心に、大宗教家を生み出した元があること、改めて強く思わされました。
秦氏は、景教徒、原始キリスト教徒だったとも言われ、秦氏の君の姿にイエスの母マリアの姿を思い浮かべました。すべてを許し愛することを教えて行ったその教えの精神が、法然上人の父と母、そして法然上人自身の生き様とその教え、その精神に生きていることをまざまざと思わされているところです。

皆さん、誕生寺に行ってみましょう。

2010年11月20日土曜日

郷土岡山を描き続けた作家・坪田譲治

昨日は[岡山を描き続けた作家・坪田穣治」との題目で、ノートルダム清心女子大学の山根知子先生の話をうかがうことが出来ました。
最初に写真を見せていただきながら、坪田穣治の生涯を紹介されましたが、山根先生ご自身、出身の小学校(石井小学校)や、大学(早稲田)大学に入っての寮生活など、共通する部分がとてもおおいと語られていました。現在お住いの心も、かって坪田譲治が住んでいたことのあるところとか、ゆかりの深さを感じさせられました。
坪田譲治は、故郷岡山をこよなく愛し、小さいころの体験を、その作品の中にたびたび登場させ、その当時の島田の様子などが作品の中に描かれているそうです。
島田と言うのは、本当にその当時田んぼの中の島のようなところだったようですね。
実家は一族でランプやろうそくの芯を製造する工場を経営していて、その頃の体験が、やはり作品に行かされているそうです。
ずっとお話を聞きながら、坪田譲治がいかに故郷岡山を愛していていたか。時々[白桃]を取り寄せて皆にふるまったり、「大手まんじゅう」が何より大好きだったとか、故郷思いのエピソードには事欠きません。
私なども故郷を離れている時は岡山が懐かしく、岡山の自慢をしたりしたものですが、坪田譲治は並はずれてその心が強かったようです。
そんな坪田譲治、名前は郷土出身の有名作家と聞いていても、なかなか作品を読んだりまでの機会は無かったのですが、改めて興味がわいてきました。
山根先生ありがとうございました。

さて、来月12月の人物伝は、旧制六高柔道部の全国8連覇の師範、金光弥一兵衛講道館9段の話を、岡大柔道部出身の高橋義雄氏に語っていただく予定です。関心のある方はぜひご参加ください。
毎月第3金曜日の夕方6時から県立図書館2階のサークル活動室です。

2010年11月19日金曜日

閑谷学校の櫂の木 その後の櫂の木

先日櫂の木の写真を送ってくれた「備前市観光ボランティアガイド 爺婿さん」からその後の櫂の木の写真を戴きました。

今右の黄葉カイはじゅうたん状態で寂しくなりましたが、左の方はまだ 紅の付いたるカイの大木・・・です。
この辺はカイに遅れたとはいえ竜田姫も成人美人になり元気出して来たから人出、カメラマンは割と多いです



まだ間に合いそうですね。この土日にでも行ってみたいですね。

2010年11月13日土曜日

閑谷学校の櫂の木 紅葉がとても美しいです

おかやま人物銘々伝を語る会で共に学んだ「備前市観光ボランティアガイド 爺婿さん」から櫂の木の写真を送っていただきました。
あまり美しいので皆様にも紹介いたします。
閑谷学校でボランティアガイドをしておられるそうです。
皆さんぜひ閑谷学校行って、櫂の木の美しい写真を撮ってきてください。
それでは

櫂の木を撮る人々
最高にきれいな櫂の木です
駐車場から

2010年11月8日月曜日

巨大古墳群造営も秦氏の力による?

造山古墳、作山古墳はじめ吉備の大古墳の造営は秦氏の技術出来たと言われる。
秦氏は、殖産技術と信仰の集団だったと言われている。
吉備で最も古くに建造されたと言われる秦原廃寺など、飛鳥時代の寺院建築は秦氏の力によるところが多い。
そしてその前の時代、大古墳の造営も秦氏の持つ土木技術力があって出来たのであろうと言われる。
丁度秦氏が弓月の君に率いられて、倭の国にやって来た時と、大古墳の造営が始まった時期が一致する。
この時代、秦氏は今でいえば大土木建設会社を経営していて、信仰にも熱心だった。そんなイメージか?
いずれにせよ、吉備の歴史に秦氏との関連は切り離すことが出来ない。宗教史然り、土木や金属加工などの産業、技術史然りである。
日本文化形成にきわめて大きなかかわりを持った「秦氏」そこにスポットを当ててみると、全体歴史の大きな流れが、見えてくるような気がする。

岡山人物銘々伝を語る会11月例会は[坪田譲治]

岡山人物銘々伝を語る会11月例会は、「郷土岡山を描き続けた坪田譲治]のテーマで、ノートルダム清心女子大学の日本語日本文学科の山根知子教授にお話をしていただきます。
日時は11月19日(金)午後6時~8時
会場は県立図書館二階のサークル活動室です。
参加費1000円(通常は500円)

坪田譲治は石井尋常小学校から神奈川中学を経て早稲田大学文学部予科に進みます。
そこで早稲田の先輩小川未明に出会い、師事、文学の道を志します。
坪田譲治は様々な困難を乗り越えながら、多くの作品を残しています。特に彼の書いた児童文学は郷土岡山の情景を、幼いころの体験をベースに書き続けました。こよなく郷土岡山を愛し続けた文学者でした。
多くの後輩を育てたことでも有名で、岡山市では遺徳をしのんで坪田譲治文学賞を定めました。
今夏講演をしてくださる山根知子教授は早稲田大学出身で、所属するノートルダム清心女子大学には坪田譲治の文庫も作られています。郷土岡山を描き続けた坪田譲治の話、楽しみです。


参加希望の方は吉備楽土にご連絡ください。


岡山人物銘々伝を語る会では、毎月第3金曜日の夕方6時から県立図書館の2回で岡山に縁の人物伝を語り合っています。通常は参加費500円です。岡山の歴史と人物に関心のある方、ご参加お待ちしています。

岡山人物銘々伝を語る会11月例会は[坪田譲治]

岡山人物銘々伝を語る会11月例会は、「郷土岡山を描き続けた坪田譲治]のテーマで、ノートルダム清心女子大学の日本語日本文学科の山根知子教授にお話をしていただきます。
日時は11月19日(金)午後6時~8時
会場は県立図書館二階のサークル活動室です。
参加費1000円(通常は500円)

坪田譲治は石井尋常小学校から神奈川中学を経て早稲田大学文学部予科に進みます。
そこで早稲田の先輩小川未明に出会い、師事、文学の道を志します。
坪田譲治は様々な困難を乗り越えながら、多くの作品を残しています。特に彼の書いた児童文学は郷土岡山の情景を、幼いころの体験をベースに書き続けました。こよなく郷土岡山を愛し続けた文学者でした。
多くの荒廃を育てたことでも有名で、岡山市では遺徳をしのんで坪田譲治文学賞を定めました。
今夏講演をしてくださる山根知子教授は早稲田大学出身で、所属するノートルダム清心女子大学には坪田譲治の文庫も作られています。郷土岡山を描き続けた坪田譲治の話、楽しみです。


参加希望の方は吉備楽土にご連絡ください。


岡山人物銘々伝を語る会では、毎月第3金曜日の夕方6時から県立図書館の2回で岡山に縁の人物伝を語り合っています。通常は参加費500円です。岡山の歴史と人物に関心のある方、ご参加お待ちしています。

2010年11月4日木曜日

猿田彦と秦氏 熊山との繋がり

猿田彦は、ニニギのミコトが天下る時先導役を務めたと、記紀にある。
その猿田彦は秦氏の氏神であったらしい。
熊山山上に猿田彦神社が祀られるのは、いかにも熊山が秦氏の信仰の場であったことを証明しているようである。
そもそも山岳修行、修験道は秦氏が開いたとされる。

2010年11月2日火曜日

報恩大師は吉備の出身か?

熊山について詳しく書いた、仙田実氏の「霊山熊山」には、報恩大師は、もともと吉備の人物ではなく、備前48か寺も、後の世に、金山寺が、備前の中心的寺院としての権威を高めるために、報恩大師の開基としたのであろうという。生れも、備前の波荷(芳賀)ではなく大和で生まれたという。それでは報恩大師の産湯の井戸などの伝説は何かということになるが、高松稲荷、竜王山の開基との言い伝えなどからしても、[秦氏]との密接なかかわりは、否定できない。波荷の地も何かの縁があってのことであろう。確かに報恩大師の伝説は不明な事が多い。
吉野で修行して、孝謙天皇の病気平癒の祈祷に験があったというのは、記録にあるところであり、その出自か何かに吉備の国との密接な関係があったこと思われる。
奈良朝の時代、和気清麻呂が都で地位を高めて行った時である。一方備中に縁のある吉備真備も都の重要な役職を歴任して行く。
この時代、宗教面、人材面で吉備は輝いて行く。その宗教的風土のキーワードがやはり「秦氏」である。

2010年10月30日土曜日

報恩大師と秦氏

吉備の国の歴史、その中でも特に宗教史にスポットを当ててみると、忘れてはならないのが「報恩大師」であろう。
以前3月12日の投稿にもあるが
今の岡山市芳賀の生まれで、吉野で修行、称徳天皇の病気平癒に験があったということで取り立てられ、大師号を賜るほどになった。備前四八か寺の開祖と知られ、備中高松最上稲荷の開祖としても知られる。
さて、今回熊山に行って来て、鮮明になったのはやはり[秦氏]との関わりである。熊山遺跡も秦氏が建設した石塔、しかも発起したのは平安京造営に秦氏と深くかかわった和気清麻呂という図式である。
秦氏と言えば、当ブログでも「法然と秦氏」について書いた。今は旧熊山町は赤磐市に合併されたが、そのま反対にあたる、旧吉井町には、物部の宮司さんが祀る「石上神社」がある。その布津美の地をさらに進んだところが、法然上人の両親が祈願したという「本山寺」であり、かの地は「秦氏」が勢力の地域となっていた。
さて、備中はと考えると、現在の総社市秦原に秦廃寺があることは知られていて、何度も行ったことがあるが、その当時かの地が秦氏の勢力地であったことは間違いないであろう。その一世を風靡したと思われる人たちがどこに行ったのだろうかというのが第1の疑問である。
ところで備中と言えば、現在宗教的に栄えているのは「高松稲荷」である。
京都伏見の稲荷は。秦氏の鎮守であったと言われる。山城の秦氏は和気清麻呂とともに平安京造営の有力な豪族となって行くが、空海が東寺を賜り、その鎮守を稲荷社としたことは重要なポイントである。(八幡社も鎮守となっている)
さて、高松稲荷、かって龍王山神宮寺と言われたと、寺伝にある。「稲荷といえば巨岩があるよ。」とある宗教家の方から聞いて確かめに行ったことがある。高松稲荷も確かに巨岩があり、児島の由加山の神社本殿の背後にも巨岩があり、ここも稲荷が祀られていた。
稲荷と言うと「秦氏の氏神様]である。ここ高松稲荷もそうだとすると、高松稲荷を開いたという報恩大師も秦氏ではないのか?という疑問が生じてくる。
報恩大師の生れたのは、現在の岡山市「芳賀」、ハガはハダあるいはハダと通じる。秦氏のハタは[幡多]あるいは「波多」とも書く。「ハガ]というのが「ハダ」から来ているのではないかと、私の今の類推である。
今まで報恩大師が秦氏だった。ということは聞いたことがなかったように思うが、関連性から考えると、当然前秦氏だったのでは無いか?と思われてくる。
報恩大師が秦氏か、あるいは秦氏との密接な関係を持った人物であったことがはっきりしてくれば、備前備中美作の、重要な宗教史に関わった秦氏の果たした役割がさらに鮮明になってくる。

2010年10月24日日曜日

吉備歴史探訪会で熊山に行ってきました。

23日(土)吉備歴史探訪会で熊山に行ってきました。
今回新しい発見がいくつかありました。
朝9時30分上寺余慶寺に集合、まずは、和田一族と児島高徳の供養塔に参拝して、この地が和田一族ゆかりの地であることを確認しました。
その後豊原北島神社に参拝、特にこの地が霊地となる出発となった磐座に深い思いを持って参拝、
舒明天皇の6年(634)に宇佐八幡をこの地の磐座に勧請したのが始まりで、上八幡、あるいは正八幡と呼ばれたとの伝承に、この地の歴史を紐解く、重要なキーポイントかと思いました。
余慶寺が報恩大師開基、慈覚大師円仁中興と言うのが興味深い。慈覚大師は比叡山、天台密教を語る上で極めて重要な人物である。出身の出羽、今の山形山寺に不滅の灯明を残した人物として有名である。
さて、余慶寺を後にして、熊山に向かう途上、香登に立ち寄った。熊山を語る上で、この香登の地は極めて重要な土地である。
まず、香登の鎮守大内神社を訪ねた。実はこの大内神社の摂社に「大酒神社」があると聞いていたからである。神社を訪ねると、お祭りの後始末を町内の方がしておられたが、神社の境内を行くと、社殿に上る階段の右わきに「大酒神社」が祀られていた。大酒は大避と同じで、大僻とも書く。先日行った赤穂坂越の大避神社は祭神が秦河勝であるが、ここは香登の臣と言われた秦大兄が祀られている。

以前、この地域の研究家に聞いた話では、秦大兄は山背大兄の難の時、この地に逃れてきたという。
續日本紀には文武天皇2年(699)に、侏儒備前国人秦大兄に香登臣の姓を賜ったとある。侏儒とは小柄な人と言う意味だという。この地には大酒殿跡というのもあるということで、この地が秦氏の居留地域で、鉄の加工技術や陶器の製造技術など、その時代の先端技術の地だったことがわかる。
この大内神社を少し行った、所に「千人鼻塚」がある。
朝鮮出兵で、首級の代わりに切り取った鼻を、[敵兵といえども国のために殉じたものなれば粗末には出来ない」と、宇喜多の家臣であった「六助」が塩漬けにされた鼻をもらいうけ、この地に祀り供養したのが始まりで、その後代々子孫が受け継いで供養を続けてきたという。
その後平成4年(1992)に韓国から、韓国仏教福祉協会の朴三中と言われる僧侶が来られ、この鼻塚の霊を供養したいということでこの地で、西大寺観音院を始め中国観音霊場会の皆さんも参加し法要が営まれた。その後、韓国全羅北道扶安の地に慰霊碑が建てられ、慰霊の行事が日本からも参加して行われた。実は筆者もその行事に参加したので、この地はゆかりの深い地である。
最初に供養を始めた「六助」さんもすごいが、そのうようを今にまで伝えて、慰霊を続けている一族の方もすごいと言わざるを得ない。悲惨な日本と半島の怨恨の歴史の背後にある美談である。
ここ香登の人々が秦氏の流れをくむ人々だとすれば、秦氏の持つ宗教性から来ているものだと想像できる。この地域は隠れキリシタンの地でもあったと聞いた。その遺跡を見せてもらったこともある。

鼻塚を過ぎて大内地区から熊山に上る山道を登って行くと頭中に、大瀧山福生寺がある。ここも備前48ケ寺に数えられる名刹である。

福生寺本堂前で
寺伝によると天平勝宝6年(754)鑑真和上によって開基されたとある。天長5年(828)史書に名前を残す備前最古の寺でもある。

ここから、山道を10分くらい登ると、熊山山上の駐車場に着く。さっそく降りて熊山神社に向かう。

神社は静かなたたずまいだが、時折登山客がやってくる。我々一行は児島高徳挙兵の跡、腰掛け岩と旗さし岩を見る。腰掛け岩に腰をおろしながら、往時、この岩に腰掛けながら尊氏軍との激戦を闘う決意をなした高徳と一族の決意を思う。
今回初参加の湯浅さん、先祖は南朝方で戦った一族と聞く。南朝方に従った忠臣の家系とか火、さもありなん武勇伝をその後聞いた。
ここから、樹齢1000年の天然記念物の杉の巨木2本を過ぎると、左手に猿田彦神社右手に熊山遺跡が見えてくる。

改めて遺跡の姿に、思いをはせる。仙田実氏の著書「霊山熊山」によると、この塔は和気清麻呂が発起し、秦氏が施工したものであろうと言われ、大陸朝鮮半島から渡ってきた石造の塔と、東南アジアの仏塔の技術が融合して作られたものだという。
また熊山に寺院を作った目的は山林修行のためであろうという。この地はその後山伏の修行の場となり、児島の熊野社ともつながり、そのような中で児島高徳一族の挙兵もあったであろうと思うと、歴史の重みを感じるこの地である。
改めて展望台に立ち。かっての豊原庄を眺めると、時代を生きてきた人々の息遣いを強く感じるばであった。
熊山山上から吉井川とかっての豊原郷、現在の瀬戸内市と岡山市方面を望む。ずっと先にかすむのが吉備の児島。(撮影は10月2日)
熊山はかっては[隈山]と書いた。吉備の隅の山だったが、吉備の国の歴史に重要な意味を持つ山であった。そのことを象徴するのが熊山遺跡である。
熊山遺跡を建造したされる、和気清麻呂一族と秦氏は、平安京造営に深くかかわり、その後平安京の宗教的バックボーンとなった天台、真言ニ教との深いかかわりを作って行った。
平安の時代を過ぎ鎌倉~室町の時代になると、特に南朝方に組した児島高徳らを生み出した。
その後戦国時代になると、麓の福岡を中心に時代を担う宇喜多や、黒田の武将が登場する。
明治の神仏分離により、熊山は廃墟のようになってきたが、今再び時代の脚光を帯びようとしている。
この熊山は、新しい未来の時代を切り開く秘密が隠されている地のような感覚を思えて、今回の歴史探訪は終わった。
山を降り、最後に訪ねた福岡の「一文字」のうどんおいしかったですよ。



2010年10月21日木曜日

熊山遺跡を作ったのは? 施主:和気清麻呂 施工:秦氏

岡山文庫に「霊山熊山」という本がある。和気郡史、吉永町史、熊山町史などの編著に当たられた仙田実氏の著である。
書によると、熊山遺跡は和気清麻呂が施主で、秦氏が施工して出来あがったものであろうという。また、この塔の築造には東大寺や堺の土塔、奈良の頭塔などの築造に参加した東南アジア系の技術集団も加わったのではないかと言う。
道鏡事件が769年、その3年前の766年に藤野郡は3郷から9郷1村に拡大され、香登や伊部郷も含まれた。このころ清麻呂と姉の広虫他一族は異例の出世を遂げているのである。
遺跡の中央竪穴から出土した陶製塔形容器とその中に納めてあった奈良三彩賽釉小壺は唐伝来の高貴な宝物で、このようなものを納めることが出来たものと言えば和気清麻呂とその一族以外には考えられないという。
当時多くの寺院が和気や磐梨に作られているが、これらは和気氏の力によるところが大きく、その中でも熊山は山林修行の場として、開かれて行ったのであろう。
仙田実氏は岡山文庫に「和気清麻呂」の本も書いているが、熊山をめぐって香登を中心とした秦氏との関わりと、さらに平安京造営に向けての秦氏との関わりの原点があることを示唆してくれている。

吉備楽土のテーマの一つである、「和気清麻呂と秦氏」のつながりがその後の中世から近世への歴史につながって行く、重要な場所が[熊山]であることがわかってくる。

吉備歴史探訪会の10月例会楽しみにして行きたい。

2010年10月19日火曜日

吉備歴史探訪会 10月例会 熊山に行きます

6月例会は坂越に、8月例会は児島熊野社に行きました。

10月例会は、児島高徳のつながりで邑久の上寺余慶寺と熊山に行きます。

10月23日(土)9時30分 上寺余慶寺9時30分スタートです。
参加希望の方は、上寺の駐車場にお集まりください。
岡山市内の方は9時ころ待ち合わせて乗り合わせて行きます。ご連絡をください。

上寺で、豊原北島神社と余慶寺、児島高徳、和田一族の顕彰碑をめぐったあと、香登の大内神社と鼻塚、福生寺を経由して熊山山上に向かいます。
[熊山]については様々な事実がわかってきています。秦氏とのかかわりなども明らかになってきています。楽しみにしてご参加ください。

参加費は実費です。

新規参加希望の方は吉備楽土にご連絡ください。
現地に直接参加してくれてもOKです。

2010年10月10日日曜日

熊山遺跡

熊山遺跡に行ってきました。
児島高徳出陣の地ということもあり、以前から一度行きたいと思っていたが、ようやく時間が取れ、香登の鼻塚に行ったあと、熊山に登った。
最初、香登の福生寺側からの登り口がよく解からなかったので、旧熊山町に回った。熊山駅から旧熊山町の「和気清麻呂墓」に行き、その後熊山公民館と図書館に寄り、少々情報を仕入れて、熊山山上に向かった。途中わき水のあるところでのどを潤し、山上には15分くらいで到着した。
駐車場から10分くらいと聞いていたので、熊山神社経由で山上に向かった。
熊山神社には[児島高徳挙兵の跡]という、岩がある。
児島高徳出兵の跡
かって熊山山上は「霊山寺」の山上伽藍が広がっていたと言われる。中世の時代は最も栄えた時代であったので、この地で戦勝祈願をして出発したのであろう。

熊山神社から熊山遺跡に通ずる道沿いに天然記念物の巨木がある。1000年の樹齢だそうで、児島高徳の活躍した時代からずっと立っていたと思うと、歴史をこの木も知っているのかと思う。
 山上辺り熊山遺跡の反対側に猿田彦神社がある。猿田彦と言えば比叡山の地主神と言われている。ここ熊山は、明治の神仏分離に遭うまでは[霊山寺]とわれ、神仏習合の権現信仰の地であったと言われる。その名残のように思う。
猿田彦神社
いよいよ熊山遺跡、三段の石積みの遺跡が忽然と現れる。誰が何のために作ったのか?
遺跡脇の看板には奈良時代初期の築造であろうと書かれている。一説によると鑑真和上が、熊山の開基でここにきて戒壇を設けたのではという説もあるようであるが、[戒壇]の意味からして違うのではないか。
墳墓でもないようであるし、どうも同じような石積みの遺跡が32も山中にあるそうである。
それらから考えて、熊山の麓の香登に住んだと言われる「秦氏」が、信仰を捧げるのに築造したのではないかというのが有力である。

本ブログでも紹介してきた。「秦氏」、そして秦氏と密接な関係を持って、平安京を造営した[和気清麻呂]はこの熊山の北の麓に生まれた。今回旧熊山町を訪れ、和気清麻呂の墓も訪れた。熊山は秦氏が開いた信仰の山だったのではとの、推測をする。
南側麓の香登には、秦氏の「秦大兄」についての記録が残っている。また今回香登を訪れ、大内神社の摂社に[大避神社]があることを知った。香登から長船にかけての、陶器や刀鍛冶など、殖産業を秦氏など渡来人が興し、その信仰の山が熊山であったと言えるのではないか。古来熊山は[隈山]と書いたらしい。吉備の国の「隅」の山という意味だろう。
熊山遺跡 三段の石積みの塔
熊山遺跡のすぐそばは展望台になっていて、眼下に吉井川が流れ、香登庄とその先にはかって児島高徳を生んだ和田一族が治めた「豊原郷」が見渡せる。

帰路、香登に降りる山道沿いには、大瀧山福生寺がある。ここも備前では第1の古寺だと言われる。
この地域の宗教性、秦氏との関わり、興味が尽きない。中世以降は[福岡]の市が栄え、そこから黒田家や、宇喜多の一族も出てくる。宇喜多家のお家騒動の元となった、キリシタンの長船紀伊や明石掃部などとの関わりも何かあるのではと、推測している。

2010年10月2日土曜日

WBSで岡山の注目企業を!

今日のテレビ東京系列WBS(ワールドビジネサテライト)は、岡山後楽園から、ライブで中継、
岡山の注目企業の紹介があった。先日は、両備の小嶋社長が[カンブリア宮殿]に登場したが、岡山の企業が、この時期、注目を集めるのは我々にとってもうれしいこと、要は、全国にあるいは世界に通用するブランドをどう育てるか?岡山人の心意気がそこにあることを感じる!
医療先端県として、先端医療技術を育てる企業や、児島のジーンズ、B-1グランプリで上位に入ったB級グルメなど、今全国からも注目の企業が岡山にはある。

根本にある[人間力]
今回はテレビ瀬戸内の開局25周年ということもあるが、日本ビジネス界に注目のWBSに登場、しかも舞台が後楽園からというのに、うれしさを感じた。様々な局面で行き詰まりの日本だが、岡山から元気を発信できるよう、ますます、磨きをかけて行こう!

2010年9月29日水曜日

中国について思う 吉備真備は偉かった

中国とういう国には困ったもので、そんな中国の恫喝におびえて、みすみす船長を超法規的に釈放した、管政権の弱腰に、国民は怒っている。
世界の論調を見ると、今回の事件を通して、中国への警戒心が世界に広まったことと、日本の右傾化をあげている。
日本人の堪忍袋の緒が切れると怖いが、軍備増強してでも、中国の不法に対抗すべきとの世論が広がっている。
かって日本は多くの文化を中国から学んできたが、日本人は中国人以上に、その内容を吸収し、その内容以上のものを作ってきた。今は逆に、中国が日本を模倣している時代である。日本製品の違法コピーがいかに多いことか。
かって吉備真備は中国に遣唐使として赴き、その優秀さは中国人たちを驚かした。
弘法大師空海も、そして、吉備の国が誇る栄西師も、極めて優秀だった。
今中国共産党政権は、日本をいじめることを通して、自らの人気を得ようと躍起だが、それは彼らの政権が極めてぜい弱になってきているからに他ならないであろう。

今は経済成長に浮かれている中国だが、このまま行けば清朝の末期のような様相を呈していく。
何よりも道徳心が失われている。それは国民を指導するべき政権自体が、非道徳的な行為をほしいままにしているからである。
日本は弱腰と言われて、本当に悔しいが、人格で勝負すべきだ。今後アジアと世界、太平洋国家群の中で、本当に頼りになる、よくよく世界の面倒をみる、良き国を目指すべきであろう。
日本人は優秀な技術と技能を持ち、人格的にも信頼され、そして確固たる信念を持って、堂々と進む国際国家に生まれ変わるべきだろう。
毅然とした態度を取れる強さも必要である。それでこそ世界から信頼される。

2010年9月25日土曜日

中国船船長の釈放 釈然としない政府の対応

今、大部分の日本国民はとても不快な気分にさせられている。
拘留されていた中国船の、船長 不起訴で釈放。
何だったんだというのが国民大半の感想であろう。
おまけに、中国当局は、尖閣諸島が自国の領土で、日本の行為が不当だと。
何かそれをそのまま無理やり認めさせられたような、実に不快な気分である。
そんなことで、今後の日中間が、うまくいくはずもない。
今回の件で、日本1.2億の国民は、中国の態度と、それに対する日本政府の体たらくはあるが、やりきれない思いが続く。
帰りたいものは、帰してやったらいいが、あくまで不法行為であることを認めさせなければ、禍根が残る。極めてまずい、対応である。
まあ、中国共産党政権も、末期の症状が出ているとも見るが、細心の注意を払っての日本の対応、期待していたのだが。

2010年9月23日木曜日

あきれ果てること 世相を見て 尖閣諸島船長拿捕への中国の対応

尖閣列島で、海上保安上の艦艇に衝突、船長が逮捕拘留されたことへの中国の対応
実にがっかりする。毒入りギョーザ事件の時もそうだったが、今回はますますがっかりする。
中国共産党首脳部、少しは人格的な政治が出来るようになったかと、期待していたのに本当にがっかりである。
明確な自国領という資料も証拠もない尖閣諸島を一方的に自国領と強弁し、自国民に吹聴し、反日運動を盛り上げる。[何の益があるのか]と言いたい。
少しばかり経済力を持って、国力が付いて来たからと言って、全く大国らしからぬ偏狭な態度に、呆れてものが言えない。
まあ、日本は外交部下手ではあるけれども、ここはしっかり筋を通し、世界が「日本は立派だ」と言われるような対応を取るべきであろう。これからの時代[国家の信用]というのはますます大事になる。
そんなことから考えれば、今回みたいなヒステリックとも言える中国政府の大人げない対応は、中国という国に対する信用を失墜させる、将来的に中国自身が決定的なダメージを受けることをどうもわかっていないようである。
最近少し経済力も付いてきて、上海万博など、中国への好感が徐々に拡大して来ていたのに、勿体ことである。
それとも今の指導部、そんなことは結局どうでもよくて、今だけの国民人気を気にしているだけなら、それはそれだけの話である。
まあ、日本はこの機会に真の外交上手になり、国際社会での信頼と信用をますます高めるような対応を、国をあげてしていくべきであろう。
明治の時代には清を見くびって、日清戦争を起こし、戦争には勝ったものの、その後の日本は半島と大陸に踏み込みすぎで、多大な犠牲を出し、国の信用を失って敗戦という結果をもたらした。
今こそ世界が流石というような、国にしていかねば。

あきれ果てること 世相を見て 大阪地検特捜部主任検事逮捕

あきれ果てること
まず、大阪検察特捜部のデータ改ざん事件、あきれ果てる。[こうやって冤罪は作られるのか]と、実際にベスト電器に便宜をはかった村木局長の元部下が言っていたそうだが、検察のありもしない犯罪を犯罪として作り上げる、自白を作り上げるやり方。そしてデータまで改ざんして策を弄すなど。今回犯罪性が明らかになり、元主任検事が逮捕されてあからさまになったが、一歩間違えば、村木局長とんでもない冤罪で、無実の罪で収監されなければならなかったと思うと、ほんとうに唖然とする。
自らの実績にしか目がいかない、検察本来の使命は何なのかをまったく忘れた、恐ろしい根性である。
思えば過去の歴史にもどれほど同様のことがあって、無実の罪に問われた人々があったかと思うと、今の時代、そんなことが繰り返されていたことに、恐ろしさを感じる。
法律も、それによって取り締まる、警察や検察も、その本来の目的が、皆が幸せに暮らせる世の中にするためにあるという目的をまったく見失っている。取り締まりの実績を上げることに汲々として、それが、人々を苦しめることになって、それが何になる。
かって熊沢蕃山先生は、「役人政治は世の中を暗くする」といって、役人政治に反対したが、まさにその杞憂するそのままの実態である。
「すべてのことは人々の幸せのため」そのことの原則を、公職にあるものすべてに叩き込まなければならないであろう。

2010年9月18日土曜日

菅内閣 岡山出身の片山善博氏が総務相に

民主党代表選挙が終わり新しい菅内閣が発足した。目玉とも言える、総務相に岡山出身の片山善博氏が就任した。片山氏は鳥取県知事時代、情報公開を進めるなど、画期的な県政を施行して、全国から注目を集めた。地方重視の政治姿勢を取る民主党政権の、今回期待の人物である。各地方からも期待の声が大きい。
大安寺高校出身の59歳、大安寺高校が中高一貫校になり無くなるという話には残念がっておられたが、当ブログの筆者の娘も大安寺高校を出ているので、有能な先輩が出ていることには誇りを感じている。
石原都知事は[面白い人、鳥取県での経験が生かせるかはこれから・・」と語ったそうだが、そのこれからに期待したいと思う。
それにしても、郷土出身者、あるいはゆかりのある人々が、中央政界でも活躍の場が多い。有能な人材を育ててきた、郷土の誇りでもあろう。その真価を発揮してくれるよう期待したい。

河本立軒と江戸期の町人文化

昨日は県立図書館で、「岡山人物銘々伝を語る会」の例会で、岡山県立記録資料館の副館長定兼学しによる、江戸時代、備前岡山の豪商であり、歴代の蔵書家で有名な「河本立軒」と、彼をめぐる町人文化についての話であった。
河本家は船着町で「灰屋」という肥料商を営んでいたが、立軒家督相続のころには、藩に献米や献金を多くし、30人扶持、惣年寄格、屋号書き下しなどの権利を与えられ、博多や函館にも支店を持ち、豪商としてならしていた。
浦上玉堂、斉藤一興、木村蒹葭堂、中山竹山などとの交遊が深く、浦上玉堂からは「玉堂琴」を送られている。
経誼堂書院という図書館を作り、集めた蔵書が文化8年の段階で4573部31672冊と言う、膨大な書物を集めていた。書物のほかにも多数の文物を収集していて、京で遊興の折、瀕して、岡山から船一艘、財物を積み込んで売ったが、土佐の山内家が買い取った。その中には殿様も驚くような宝があったとういう。河本家のこの数多くの財物は、大半が大戦末期の岡山空襲で焼失し、また、山内家が買い取った財物も失われてしまっていて、とても残念だと、定兼氏は語っていた。

岡山はきわめて多くの文化人を輩出しているが、岡山城下の町人文化の隆盛が大きく寄与していることを見ることができる。
江戸期は学問と言えば「朱子学」であったが、河本立軒は陽明学を立ったとも講師の話で、当時は徳川幕府に習い岡山藩でも異学禁止令が出されていた時代でもあり、その当たり興味深く聞かせていただいた。
いずれにせよ、岡山の膨大な文化的資料は、岡山空襲でその大半が焼失し、資料集めもきわめて困難であると聞く。そのような中でも岡山記録資料館では、歴史を解明する資料の収集と整理を行っているとのことで、そのような資料に基づきながら話して下さった話には興味が尽きない、時間であった。
岡山藩の歴代藩主も文化人が多かったが、郷土文化の興隆、歴史を通してどう生かすのか?全国、世界に発信する文化を創造していく岡山にしたい。それが結論のようでした。

2010年9月17日金曜日

日本と朝鮮はなぜ一つの国にならなかったのか

[日本と朝鮮はなぜ一つの国にならなかったのか」武光 誠(明治大学教授) 著 新人物文庫 を読んでみた。
紀元前10世紀~5世紀のころ、半島南部と日本列島は共通の文化を保有し、人や物の交流も自由に行われていた。ところが、新羅が半島を統一するようになると。半島と日本列島は完全に断絶、人や物の交流も少なくなり、それぞれ独自の文化と歴史を歩むようになる。そしてその後は、秀吉の朝鮮出兵や、明治の日韓併合のような不幸な歴史ばかりが目につくようになって今日まで来た。
半島南部特に伽耶諸国は、とりわけ日本列島との関係が深く、弥生時代の竪穴住居や、その後の製鉄技術など、伽耶の持った文化が日本列島の文化を作ったと言っても良い時代が続いた。
しかし、百済と新羅が強大化し、新羅が半島統一をするころになると、日本では聖徳太子が摂政となる時代であるが、日本は半島との関係よりも中国を重視するようになり、また半島では新羅が唐と組んで高句麗、百済を滅ぼして統一するようになり、中国を挟んで、半島(新羅)と日本列島(日本)は、一時は同盟や友好の関係もあるが、お互い微妙な対立と、牽制と、敵対の歴史を作ってきた。

元は、同族、同根とも言える両民族、両国家が手を組めば中国にも対し、世界にも対する力を持っていたし、文化の発展も見ることが出来た。しかし、そのことが十分出来ないままに今日まで歴史がたどってきてしまった。
こと日本に限ってみれば、武光教授の書を読んでみると、「聖徳太子」の野望があったという。
和を持って貴しとなす。と、17条憲法を定め、遣隋使を送った聖徳太子だが、半島との関係において、注意深く同盟をむすぶ関係を作っていたならば、両国にとって多大な利益がもたらされてただろうというのが、読後の感想である。
韓日両国が、同根、同祖の、同族国家として、共通の理想をもって、共生する関係を作れれば、今日、日本も韓国も抱える諸問題を解決する道がひらかれるであろう。ともに栄え、発展する道を実現できる。そのことを実感させる内容を読み取った。

2010年9月11日土曜日

日韓トンネル 東アジアの今後

旧知の知人が日韓トンネル、日本と韓国を結ぶトンネルのプロジェクトに携わっているということで、その話を聞きに行ってきた。
いま日本では、あまり話題になっていないが、韓国では、李明博大統領も積極発言をして、もうすでに、そのコースの一部になる、釜山から巨勢島という島までトンネルが掘られているらしい。最近では韓国の世論調査でも56%の人が日韓トンネル(韓国から言うと韓日トンネル)に賛成らしい。以前では考えられなかったことである。日本でも、九州福岡辺りでは地元のニュースにも取り上げられるようになって結構話題になっているようだが、ほかの地域ではまだまだである。
さて、日韓トンネル、すでに相当の調査が進んでいて、試算では10兆円、10年ほどの工期で完成できる。すでに技術的な問題も97%は解決済みで、出来あがったときの経済メリットを考えると、今が着工の好機と言うべきだそうだ。
わが岡山県は、夢が夢でなくなった[瀬戸大橋]を持つ。今や四国は陸続き、高い料金で、その経済効果も控えめだが、四国4県にとっては極めて大きな恩恵があったと思う。特に岡山と香川の人的交流は格段に進んだ。
かって半島と日本は、不幸な歴史もあったが、おおむね良好な関係を持ってきたと思う。もともと兄弟国家である。同族だから、仲良く協同一致すればお互いに発展する。同族であるが故の醜い争いや葛藤もあったが、その不幸の歴史を教訓として、今は一致すべきである。
吉備の国は古代から半島との密接な関係を持って来た地である。吉備の国の歴史と文化は、半島か来た、渡来人によって形成されてきた。今、この「吉備楽土」や、姉妹ページの「吉備の児島」にも書いてきているが、吉備津宮の神官を務めた賀陽一族や、戦国の梟雄と言われた宇喜多一族や、その名や出自に半島との関係を知ることが出来る。
アジアは今後一つの共同体を形成して行くようになるであろう。その中核は、島嶼国家である日本と半島国家である韓国(朝鮮)であろう。
今後の、日本、そして吉備の未来も、日韓トンネルのような広大なプロジェクトと関連して、考えていくべきだろうし、そのような歴史的背景をわが郷土[吉備]は持っていると感じる。
今日は、未来に希望を見させてもらった思いがする。

2010年9月10日金曜日

岡山人物銘々伝を語る会 9月は[河本立軒と岡山城下町の文化]

 岡山人物銘々伝を語る会9月例会案内です
どなたも参加できます。

日時:平成22917()※ 午後6~8時  (※通例は第3金曜日です)
  場所:岡山県立図書館の2階
  取り上げるテーマ:「河本立軒と岡山城下町の文化」
岡山城下町の豪商は、城下町経済だけではなく、文化活動でも大きな役割を果たしていました。今回は、経誼堂書院という図書館兼学問道場を設けて活動していた河本立軒を中心に岡山城下町文化について話したいと存じます。
  講師:岡山県立記録資料館 定兼学氏   
1957年勝央町生まれ 広島大学文学部卒 文学博士 岡山県立高校教諭、岡山県史編纂室、県総合文化センター資料室、県立記録資料館の開館準備を経て、2009年より同副館長
参加費:500

参加希望の方は吉備楽土まで

2010年9月7日火曜日

カンブリア宮殿に両備の小嶋社長が [津田永忠]に学ぶと

昨晩、テレビ東京系列「テレビ瀬戸内]に、両備グループの小嶋光信社長が登場、今は郷土の誇るべき経営者の一人として、全国にその名が知られるようになった、両備グループと小嶋社長の考え方や、やり方が紹介されていた。
今や、不採算でつぶれかけた公共交通を引き受けて、再建し地域からも従業員たちからも感謝される社長の経営方針の原点が、郷土が誇る偉人の一人である、[津田永忠]にあることが紹介されていた。
岡山藩主の池田光政公が、家臣たちに、逼迫して財政も、農民も困窮している藩を、誰か救済する知恵はないかと言われたときに、「民に希望を与えなければならない」と、自ら大坂の商人に掛け合い、資金を調達して干拓事業を始めた。また庶民の学校としての閑谷学校を建設した経緯が紹介されていた。津田永忠が、民を愛する心で行った、その精神をもって経営者も事業していかなければならないと・・
そして、「信託経営」、社員を信頼して経営のすべてを任せる。「信じる」事の大切さを。
[カンブリア宮殿]は、全国の経営者や、志ある人たちが多く見ていると思うが、登場する経営者の理念や、信念には学ぶことが多い。
今回、津田永忠に学んだ、小嶋社長の番組も、全国に感銘を与えたに違いない。
司会を務める村上龍の、感想も面白い。「小嶋さんは生真面目な人かと思ったら、とてもユーモアに富んだ人だった。」心の広さ、豊かさ、暖かさに、心打たれるものがある。

改めて、わが郷土の精神性の高さに、心躍った。

2010年9月2日木曜日

国を愛する人間をどう育成するのか

最近の内外の情勢、多くの抱える問題を考えるときに、
結局のところは、どう、人材を育成するかと言う、根本問題に帰らざるを得ない。

わが郷土、吉備の国が有能な人材を多く輩出したのも、そのような人材を輩出する風土があったからに他ならない。
たとえば「法然上人」、浄土宗の開祖として、日本仏教に多大な影響を及ぼした。
その法然上人の出家の動機は、その父親の、高邁な精神から来ている。打ってきた敵に仕返しをするよりは、赦す道、信仰の道を選ぶようその子に諭したのである。そこから偉大な宗教家「法然」がうまれた。
普通の親なら、その子に、憎き敵を打ち取ってほしいと教えるところを、そうは教えなかった。
そのようなことが出来る、風土が、漆間氏の祖の家系にはあったということであろう。

かって、和気清麻呂公も、弓削道鏡に貶められそうになた時に、その信を曲げなかった。自らの、生や存在よりも「天」の前に正しきかどうかを問うた。このような清明な心を一朝一夕に持つことが出来るもんではない。深い精神的、宗教的天性と伝統があった。

人を育てるのは、もちろん学校があり、塾があり、施設も必要だが、何より、深い精神的、宗教性であったり、精神風土の歴史が必要である。

世が困難に直面した時に、その問題を超克できるのは、高度の人格性を持った人がそこにあるかということである。自らを顧みることなく、自らの命も利益もかなぐり捨ててでも、人や国を愛する「心」を持った人間がそこにいるかが問題である。
いまも国や社会を預かるべき人々が、かってなことを言っている。
困難に直面した時代に、自分の利益や、名誉や、ましてや個人の怨念を基準に行動するものは必要ない。
真に「愛する心」を持った人間が必要である。
そんな人間が多く輩出されれば、未来に希望がある。
そんな人間を多く輩出できる、地域が、家庭が出来ることを願う

そうして「楽土」を実現する。
先人の生き様にもっと多くを学んでいこう。

2010年8月30日月曜日

承久の変その後 頼仁親王の流された児島

承久の変の後、幕府方は戦後処理として、後鳥羽院を隠岐に配流するとともに、ほかの皇子たちも各地に配流された。その中で後鳥羽院の第4皇子、冷泉宮頼仁親王は吉備の児島に流された。ここは変(承久の変)の1年前に、都の騒乱を避けて、桜井宮覚仁法親王が、五流院の検校とやってきていた。
児島と言うのは、吉備の児島で、記紀の国生み神話にも登場する。子島である。
いまは児島半島と言われ陸続きになっているが、この時代までは、完全な島だった。源平合戦で有名な藤戸の闘いは、この児島に陣取った平家と源氏の闘いであった。
文武天皇元年、修験道の開祖役小角が伊豆に配流された時、5人の高弟が、難を避けるため、神輿を船に乗せ瀬戸内海に脱出、3年後の大宝元年に、児島に上陸、福岡村にご神体を安置し、十二所権現を祀って始まったのがはじまりである。
その後天平12年、聖武天皇の時に、児島全島が熊野社に寄進され、児島は社領となり、新熊野山と称された。五人の高弟がそれぞれに、5つの修法を相続し伝授し五院が設けられたので、五流院と称した。
さて、承久の変を前後して桜井宮が検校として、その後頼仁親王が児島に配流、26年をすごしたのち、薨られた。桜井宮には子がなかったので、頼仁親王の子たちが桜井宮の法統を継ぎ、今日まで五流の法統を守ってきた。
さて、後鳥羽院は延応元年隠岐で崩御、その翌年、一周忌に際し、御影塔が建立された。
写真は、児島の熊野社にある後鳥羽上皇の供養塔である。高さが5メートルほどもある立派なもので、国の重文に指定されている、後鳥羽院の供養塔である。
応仁の兵火で廟堂などが焼かれ塔のみが残った。その後の調査で骨が出てきた。塔に向かって右側には分骨を携えてきたであろう従者のものと思われる塚がある。

さて、児島五流尊流院の四世頼宴大僧正を父とし、邑久にあった、和田備後守藤原三宅範長の女を母とし3男として生まれたのが、太平記に記された、後醍醐天皇に忠誠を尽くした忠臣として誉れ高い[児島高徳]である。
児島の五流尊流院には[児島高徳誕生の碑]がある。
尊流院から1kmほどのところには頼仁親王の稜があり、宮内庁の所管になっている。

山田家の先祖、山田次郎重忠は承久の変で官軍方で戦い、最後は自害して果てたが、承久の乱で難を受けた皇子たちが、児島の地に眠り、児島の地から、忠孝の士が出ていることに不思議な縁を感じる。

ところで、当ページの筆者は母方が、佐々木氏である。佐々木氏の一党佐々木盛綱は源平の合戦、藤戸の闘いで功あり、児島の迫川庄をいただき、二男の佐々木信実がそれを継いだその女が頼仁親王の子道乗僧正の室となり6人の子を産んで五流を継いだとある。
わが佐々木氏は阿波の三好、晝間の城主であったとのことで、それ以前の家系の歴史は定かではないが同じ佐々木の一党として縁を感じる。

NHKFM 斎藤由貴が 渡辺はま子と加賀尾秀忍師のことを モンテンルパの・・

昨日、昼ころ、NHKFMをつけて走っていたら、斎藤由貴が登場
「モンテンルパの夜は更けて」の話をしていました。
今度舞台でやるそうで、[モンテンルパの夜は更けて]の歌が戦犯として収容されていた人々の解放につながったこと、そしてそれにまつわる渡辺はま子と加賀尾秀忍師の逸話を話していました。
渡辺はま子が、収容所に慰問に行って収容所の人々と一緒に歌っている[モンテンルパの夜は更けて]のライブの貴重な音や、渡辺はま子の、本当に感情のこもったレコードの歌も聴けて、[ああ、この歌が多くの日本人を動かし、また当時のフィリピン大統領、キリノ大統領の心を動かして、囚人の解放、釈放につながったのかと思うと、感慨深く聞かせてもらいました。
斎藤由貴のお母さんが、作曲をされた方の従姉妹だったという不思議なエピソードもあって、先日加賀尾秀忍師の話を「銘々伝の会」出来いた直後でしたので、さらに感慨深く聞かせてもらいました。

この物語(実話)を舞台でやることになったそうで、多くの人々に、この美談を聞いて、知ってもらえるいい機会だと、うれしく思いました。

2010年8月28日土曜日

熊野神社と児島高徳公誕生の碑 行ってきました

吉備歴史探訪会の仲間と熊野神社、五流尊衆院、頼仁親王稜と、行ってきました。
近くを通ることがあっても行ったことがなかった。と言う方もありましたが、熊野神社の由緒や五流山伏の歴史、児島高徳との関わりなど、日本史とも重要なかかわりのある、この地を訪れて、参加者一同感慨を新たにしました。
児島は、熊野社の社領の時代が長く、熊野社の盛衰とともにあったともいえる地です。
明治の神仏分離の影響がいまだ残っている、状況に、何かしら複雑な思いを少々感じながら、最後頼仁親王稜に参って、解散、恒例になりましたが、近くのうどん店でうどんを食して解散となりました。
吉備歴史探訪会次回は、邑久方面か吉備寺方面を予定しています。

2010年8月27日金曜日

吉備歴史探訪会 熊野神社に行きます

吉備歴史探訪会
8月例会で明日は熊野神社に行きます
五流尊流院 頼仁親王稜なども訪ねる予定です

当ブログをご覧の方で参加希望がありましたら、飛び入り歓迎です!
8月28日(土)9時30分 熊野神社 集合です
熊野神社は 水島インター近く 林と言うところにあります

はじめてのかたは[吉備楽土]で見たと言って声をかけてください。
一緒に回りましょう!

「和の心」を取り戻せ 民主党代表選挙に思う

いま世間では、民主党代表選挙の話題で持ち切り
うち続く政権の交代と、代表争いに、なんとなく不安と、苛立ちを覚える筆者である。
多くの国民も辟易としているのではないのかと思うがどうであろう?

肝心の政治がなされているのか?いまは日本国民全体がしっかり考えなければならない時ではないのか。少なくも指導的立場の人たちは、しっかりと未来を見据えて、行くべき方向を指し示してほしい。
右に左に、極論に振り回されて、国の方向性のかじ取りがなされれば、行くべき道は見えてこない。
場当たり的な政治が幅を利かせている。個人の怨恨が、方向性を見誤らせている。

団員募集中

コロポーニョの団員募集中です

昨日は、久しぶりにコロポーニョの練習会場を訪れました。
来年の初コンサートに向けて、準備中です。
指揮の高野先生の、ご縁で、「こーるゆうぶんげん」とのコラボが実現するそうで、
演奏曲目が[花に寄せて]混声合唱で、
以前、一緒に歌っていたので、ご一緒にどうですかと誘われました。
久しぶりに歌ったので、声は出ないし、音程は間違うし、ついていけなくて、却って迷惑を変えたような
、もう少し練習して行かないと、
それで、女声合唱の練習も見せてもらってきましたが、とてもいい歌を歌っています。
高野先生の指導で、のびのびと、声もよく、とてもいい合唱団に育っています。

惜しむらくは、団員が少ないこと。

現在団員募集中とのこと、
いい歌歌いたい方、児島の圏外からでも歓迎だそうで、
一緒にい歌ってみたいと思われる方、直接コロポーニョの団員か、
こちらの筆者
吉備楽土または山田までご連絡ください

2010年8月22日日曜日

加賀尾秀忍 渡辺はま子の「ああモンテンルパの夜は更けて」

岡山人物銘々伝を語る会 8月例会は 湯浅一郎氏による「加賀尾秀忍教誨師」の話であった。
湯浅さんの準備してくれた資料を参考に話の内容を紹介してみようと思う。

加賀尾秀忍師は、明治34年真庭郡落合町の寺に生まれ、京都にでて真言宗京都大学(現 種智院大学)で仏教を学ぶ。
昭和24年高野山京都別院副主管に就任中、連合軍総司令官の命により、半年間の任務でフィリピンに教誨師として派遣される。モンテンルパのニュービリビット刑務所に収容されていた日本戦犯救出に尽力した。
半年の任務が過ぎても[誰一人として頼るもののない哀れな環境にある人々を見捨てて、どうして日本に帰れよう。私はこのままモンテンルパに留まって、日本人受刑者と生死をともにする」との決意からフィリピンに留まり、戦犯兵とともに寝食をともにするなどしながら戦犯の救出活動を続けた。
滞在中14人の処刑者を出すことになったが、14人の処刑後に、渡辺はま子がその人たちのために千校とお香を送ってきたことが縁で、死刑囚の人たちの作による[ああモンテンルパの夜は更けて]の歌を作り、この歌が世間に広まりさらに戦犯の早期釈放を実現する大きな要因となった。
14人の処刑後は一人の処刑者も出さず、56人の死刑囚、52人の無期・有期刑囚を減刑、無罪に導き、昭和28年、108人全員の帰国を実現した。(死刑囚は無期に減刑、帰国が巣鴨に収容 その後全員減刑)
帰国後、米国関係の戦犯者の釈放運動に携わり、戦犯者全員の釈放を実現する。

今回講師を務めた湯浅一郎氏は、とあることからこの加賀尾秀忍師のことを知り、現地訪問団に加わり、モンテンルパに行ってきた。その経験と、加賀尾師の著書[モンテンルパに祈る]を参考に語ってくれた。
モンテンルパで囚人とともにした加賀尾師のことや、14人の処刑の時のショッキングな様子、その後、渡辺はま子さんとの縁、[ああモンテンルパの夜は更けて]作曲の経緯、その曲が当時のフィリピン大統領キリノ大統領の心を動かし、死刑囚の減刑、釈放が実現した経緯などを話された。

山陽新聞に紹介されたことで多くの人が知ることとなったが、加賀尾師の自らを省みない、救出への取り組みは多くの人を感動させ、フィリピン大統領や、米国も動かして行ったことは本当に驚くべきことである。改めて尊敬の念を深く持つことが出来た。
より多くの人に加賀尾秀忍師の事を伝えて行かなければと思わされた。

2010年8月18日水曜日

受難の吉備人

まず、20日(金)18:00~県立図書館にて[岡山人物銘々伝を語る会]8月例会あり
ご参加あれ!
今月は「加賀尾秀忍」がテーマです。
紹介の以前の記事です

さて、
岡山の人物を見てみると、偉大な人が多いが、受難を受けている人も多い。
弓削の道鏡事件で大隅に流された和気清麻呂をはじめとして、浄土宗開祖法然上人も讃岐に流され、法難を受けている。ほかにも多くの宗教人を輩出しているが、安楽な道を行った人物はいない。
明治になり憲政の神様とうたわれた犬養毅元首相は凶弾に倒れ、平沼騏一郎元首相もあやうく命を落とすところであった。宇垣一成元陸相は、組閣を願いながら果たせず終わった。
どうも義なる道を行こうとすると、そこには様々な障壁があるもののようである。
和気清麻呂は「我独慙天地」と言う言葉を残しているが、天地にはづことのない、公明正大な道を行こうとすると時として、思わぬ反対や迫害を避けえないこともあるようである。
それでも真実、真実を貫いて生きた人物が多いことを、我ら吉備の人間は誇るべきであろう。


楽土創建の理想に、その精神伝統を引き継ぐ我らでありたい。

2010年8月16日月曜日

菅首相のルーツと最近の政策

菅直人首相の本籍地が岡山と言うことで、吉備楽土も無関心ではいられない。
聞くところによると、菅原道真の家系とか
先日、「私も菅家(菅原家)の家系ですよ」と言う方にお会いした。
菅原道真と言えば、「学問の神様」として有名である。あまりに出来すぎて、太宰府に左遷の憂き目にあう。
児島の唐琴と言うところに行くと、菅原公が立ち寄られたという伝承が残っている。
さて、管氏の人柄を見ると、菅原公の子孫だなと言うところをとても感じる。先に、紹介した方もよく似たところをお持ちである。
正直、管首相については首相に就任されるまであまり関心を持たないできたが、首相になってみると、これまでの立っては消えて行った数多くの方々とは、少しちがって、あまり期待していなかったのが、逆に何かを期待できるのかな、という思いになっている。まあこれからですが・・
菅原道真は極めて優秀かつ実直でそれが嫌われて大宰府に流される羽目になったが、どうやらそんな気風を受け継いでいるかのようである。
さて、最近のこと
日韓併合100周年に当たり、[首相談話]を発表し、韓国に謝罪の意を表し、文化財を引き渡すといういいことが話題になている。
賛否両論あるようだが、
[吉備楽土]」としては、どちらかと言えば、日本と韓国は同祖同根であると見ているので、日韓両国は同族国家として、協力一致することが一族として、すなわち日本にも韓国にも良い結果をもたらすと考えている。
ただ、日韓両国は同族だとしても、お互い怨恨の歴史を持っている。韓国側とすれば、日韓併合とその後の日本による植民地政策は、今回の首相談話にあるように、韓国国民の意志や意向を無視して行われていたことは否めない。当時の国際情勢として、ロシアの南下を防止するという大義名分があったとしても、韓国と日本が一つにならなければならなかったとしても、重い恨みを残すやり方を回避することはできたはずである。
秀吉の時代の朝鮮出兵も、大きな傷跡をいまだに残していいる。
一方日本側からすれば、日本は、新羅に滅ぼされた伽耶や、百済の末裔が多く移り住んで作った国だと考えれば、半島に対する複雑な思いも当然あったと言える。

さて、今回の首相談話、韓国側としては歓迎されているようだが、日本の中には快く思っていない人たちも多くいる。
かって岡山出身の政治家、明治以降でも、犬養毅、宇垣一成、平沼騏一郎、命を狙われたり、非難を受けたり、勤皇愛国でありながら、実直であるがゆえに、あらぬ憎しみを受けた人物が多い。
細心の注意を払うこと、国民感情の微妙なあやを推し量ることも必要かもしれない。

2010年8月9日月曜日

吉備歴史探訪会

史跡巡りの会[吉備歴史探訪会]のご案内です。
ゆかりの地を巡りながら、気楽に歴史を学ぶ集いです。
家族連れでご参加ください。

8月例会は、このブログでも紹介しいている、児島の熊野神社界隈です。
9時30分 熊野神社集合です。会費は500円(その他実費は各自)
熊野神社から五流尊龍院 頼仁親王稜 由加山も訪ねる予定です。昼食後解散の予定です。
希望の方は吉備楽土まで

2010年8月6日金曜日

岡山人物銘々伝を語る会8月例会

岡山人物銘々伝を語る会8月は以下の予定で開催します

参加希望があれば吉備楽土までメールください

 日時:平成22820()※ 午後6~8時  (※通例は第3金曜日です)
  場所:岡山県立図書館の2階
  取り上げるテーマ:「加賀尾秀忍」
  講師:浅川一郎氏   参加費:500

加賀尾秀忍 
明治34年真庭市落合町の寺に生まれた。京都にでて仏教を学び、昭和24年高野山東京別院副住職に就任していた時、連合国軍最高司令官の命令により、半年間の任期で、フィリピンに教誨師として派遣され、モンテンルパのニュービリビット刑務所に収容されていた日本兵戦犯の救出に尽力した。
半年間の任期を過ぎてもフィリピンに留まって、「日本人受刑者と生死をともにする」との決意から、戦犯と寝食をともにするなど、通常の人にはできない人間愛で4年間救出活動を続けた。滞在中14人の処刑者を出すことになったが、それ以後は一人の処刑者も出さずに、昭和28年残りの受刑者108人(死刑者56人)全員を減刑、無罪等で日本への帰国を実現した。

2010年8月3日火曜日

もう少しまともな国にならないものかと

最近思うのは
もう少しまともな国にならないものかと
続く政争や、不祥事を見ていると辟易とする。
人間の欲望が過度に刺激されて、様々な争いや混乱が世を覆っている。

清明な心で、豊穣な産物を適度に分かちながら、自然と調和し、他国とも調和して生きる。人々は協同の精神にあふれ、互いを思いやる心の豊かさが喜びを充ち溢れさせる。
政治に当たるものは、只に人々の幸福と未来のために奉仕する。人々は文化を重んじ、スポーツを楽しみ、自然と共に生きることを喜ぶ。
「楽土」をともに実現して行く。
今日社会の問題は、リーダーシップに真の人間性が欠如していること。人間性を育てる場が失われていること。宗教が本来の権威を失いその使命が果たされていないことにあるのではないだろうか。

2010年8月1日日曜日

吉備の国の宗教史

吉備の国からは実に多くの有能な宗教人を輩出している。日本仏教を代表する、浄土宗開祖の「法然」、禅宗をもたらした「栄西」を始め、幕末明治の新宗教「黒住教」「金光教」、その他にも実に多くの宗教的人士を輩出している。
吉備の国の文化、人物氏の背後に宗教的な天分を持った、吉備の国の人々の歴史があったことを無視することはできないであろう。
戦国期、キリシタン大名として名をはせた宇喜多秀家や小西行長もゆかりの人物である。
その他、福祉事業家として有名な石井十次や、救世軍の山室軍平、キリスト教に触れて福祉事業に力を入れた大原孫三郎も宗教的背景を持った人物である。
政治家も然りである。和気清麻呂は本人自身が信仰的人物であると同時に、平安京を造営するに当たり、宗教を重視した。その精神は、その子たちに引き継がれ、和気氏の支援で比叡山や高野山も開かれた。最澄や空海も和気氏の支援があって、宗教的活動を進めることが出来たのである。
その他にも挙げればきりがない。
要は、その吉備人の持ってきた宗教性をいまの時代に、これからの時代にどう生かしていくかである。
[吉備楽土]のテーマは、そのあたりにあるようにも思う。

2010年7月19日月曜日

鹿島史学

最近読んだとくに古代史関係の書籍で興味をそそられる本、何点か
そこで出てきたのが、「鹿島史学」
鹿島昇氏、明治天皇すり替え説で有名らしいが、この鹿島史学を熱心に伝えている松重揚江氏
それから中原和人氏
特に注目は、ユダヤの12部族が、日本にやってきて日本国家が出来上がったというもの
それぞれ部族名を挙げながら、中央アジアから中国、半島を経てどのように日本に来たのかも含めて論じている。
日ユ同祖論などと言うのが論じられているし、ユダヤ教ラビのトケイヤー氏やキリスト教のケン・ジョセフ氏などの論を見ても、明らかに日本にはユダヤ教、キリスト教が古代から影響を与えて来たのは間違いない。
この鹿島昇氏や、松重揚江氏の論は、これまでの日本史の常識からあまりにもかけ離れているので、すぐには信じがたい点もあるが、否定できるものでもない。
イスラエル民族は選民と言われ、人類歴史上聖人と言われる人の中でも、もっとも聖人と言われるイエスキリストを生み出した民族でもある。
現代、ユダヤ人とかイスラエルと言うのは、中東の1国家のことのように思われるがそうではない。
イスラエルが選民と言われるゆえんは、旧約聖書にある、神との契約である。
特にイスラエル民族の始祖である、アブラハム、イサク、ヤコブが神とかわした約束は、あなた方の子孫を、空の星のごとく、浜辺の砂のごとく増やすとある。その契約のゆえにイスラエル民族は、神に対する絶対的信仰を旨とした民族として生きてきたのであり、そのことのゆえに人類歴史に多大な影響を与えて来たのである。

吉備の国の歴史と人物を、紐解きながら、それらの人々に神、あるいは天との深いかかわりを感じるのは私ばかりではないと思う。特に宗教性に優れてきた吉備人である。
もしも、日本民族を形成したのが、あるいは日本国家を成立させた指導者たちが、イスラエル12部族の後孫であるとすれば、その疑問は氷解する。
失われた10部族には祭祀を担当したレビ族も含まれる。松重氏の本を読むと、物部氏がレビ族の子孫であるという。そうだとすれば、物部氏が日本の古代国家の祭祀を担当した氏族であったというのもうなずけることである。
秦氏は原始キリスト教の影響を受けたイスラエルとの説もある。わが郷土を代表する宗教家、法然上人が秦氏の子孫であることは明確なので、そのあたりの秘密も明らかになる。
鹿島史学、そのあたり、ことの真偽を確かめて、学んでみたいと思う。

2010年7月16日金曜日

山田方谷のメッセージ

県立図書館で毎月第3金曜日、岡山人物銘々伝を語る会
今月は、山陽学園元教授の太田健一先生による[山田方谷のメッセージ]
今日あった。
どちらかと言えば、賛美一辺倒の方谷像が一般に流布されているが、成功者の半面、きわめて人間的な一面も持っておられた。
太田先生の話は、資料に基づき、特に明治期になって起こった百姓一揆から山田方谷の実像に迫るものだ。
山田方谷の語録と言うか、5つの名言、から山田方谷の持つ、特に財政改革の内容を考察する。
山田方谷と言うと10万両の借財を、10万両の蓄財に変え、長州の奇兵隊、のもととなった農民兵を組織したり、軍艦を買ったりと、脚光を浴びているが、必ずしも100%成功したとばかりも言えないせさくもあった。方谷自身が苦悩していた記録もあるようである。残念ながら江戸期の資料の大半が、松山城明け渡しにあたり、岡山藩兵が来る前に焼却処分になり、多くが失われた。しかし数少ない資料の中から[山田方谷のメッセージ]を聞きとることを、太田先生はしている。
山田方谷の掛け値なしの真実の姿の一端を見ることが出来た。

がんばれ吉備人!

参議院選挙も終わり、政局は混乱の極みであるが、とりあえず一般庶民の生活は、大変ではあるが、何とか息をつないでいる。多大相変わらず疎外された人々がたくさんいるのは事実である。何とかしなければならない。そのためにもだれかが頑張らなくてはならない。政治家なのか、経済人なのか、それとも文化人、宗教家問わずである。
究極的、平和で豊かな世界の実現には、あらゆる分野の人々が必要である。
それぞれの分野で頑張って、全体的平和と豊かさのために貢献する人々が必要である。
そこに吉備人の活躍が待たれる。
歴史上多くの、義人や偉人を輩出した吉備の地である。今も吉備の国の人間が、日本のみならず、世界のために貢献する時ではないか!
がんばれ吉備人! いまの時代を切り開くのは我々しかない。
2代続けて、岡山に縁の首相が出たが、まだまだこれからである。もっともっと多くの吉備の人間が活躍することを願う。
純粋にただひたすら、人々の幸福を追い求め、世界の平和を求め続ける、真の吉備人の出現を待つ。
いや、自分がそうなろう!みんなそうなろう!
がんばれ吉備人!

2010年7月13日火曜日

参議院選挙が終わって

民主党の完敗で終わった参議院選挙
今後の政局はどうなるのか?ますます混迷を深めている。
行くあてのない混迷の時代が訪れた。部分的には、希望もあるのだろうが、少なくとも、政治状況だけは、行くあてを見ることが出来ない。民主主義体制自体の終末と言えるかもしれない。
もはやだれがなったとしても、どの政党が政権を取ったとしても、もはや希望を見ることが出来ない。
なぜ?どこへ行くのか日本丸?

2010年7月9日金曜日

岡山人物銘々伝を語る会 7月は[山田方谷のメッセージ]

岡山人物銘々伝を語る会7月例会は山陽学園教授の太田健一先生による[山田方谷のメッセージ]です。参加してみたいかた、関心のある方は吉備楽土に連絡ください

「岡山人物銘々伝を語る会」第47回例会のご案内
代表世話人代行 久井勲
 46回(618日)の例会は、私、久井が「国吉康雄」についてお話をさせていただきました。事前紹介でも申し上げましたが、“歴史半分+芸術半分”となりました。その 芸術論も、以前よく経験した、取引先さんへのおもてなしの中で、常套文句となっていたものを少しだけ恰好をつけた程度でした。汗顔の至りです。
国吉の絵画には、戦前、対日 排斥感がうずまいていた米国社会にあって、個人の鬱屈感や時代の閉塞感の中で、何とか 自己のアイデンティティーを保持しようもがく“市民”(米国市民となりえぬ自分)国吉という存在と、絵画技法が次から次へと生まれる20世紀前半、弱者への共感、憂愁と郷愁といったテーマをどこまでも追求し続けた画家国吉という存在が、色濃く出ているように思えます。皆さんはいかがでしたでしょうか。

    7月の例会は下記のとおりです。
                  記
  日時:平成22716()※ 午後6~8時  (※通例は第3金曜日です)
  場所:岡山県立図書館の2階
  取り上げるテーマ:「山田方谷」
  講師:太田健一氏(山陽学園大学教授)   参加費:500

「方谷先生は手ごわい相手である。自分が主体となって推進した政策の結果を[領民に何をもたらしたのか]の観点から、科学的に客観的に評価せよと迫ってきているのである。そこには、あらゆる賛美の言葉も、またいろいろな解釈も拒否しているのである。」(太田健一著「山田方谷のメッセージ」プロローグより)
山田方谷先生について、どちらかと言えば、一方的賛美と評価がされるなかで、客観的資料に基づき、その真の姿を研究された太田先生に、その研究の成果を語っていただきます。
太田先生より 以下の書籍をお持ちになっての参加をお勧めします。(一般書店にて販売)
【参考書籍】太田健一著「山田方谷のメッセージ」吉備人出版 1050

2010年7月8日木曜日

お母さんコーラス岡山大会

4日の午後、岡山市民文化センターで、お母さんコーラス中国地区岡山大会があり、知人の紹介で聞きに行った。あいにく、お目当ての合唱は聞けなくてがっかりだったが、それでも多くの演奏を聴くことができた。
今年が33回目だそうで、各団体とも趣向を凝らした衣装や演出が印象的だった。
長野で開かれる、全国大会には、浅口市の「コールあまくさ」と倉敷市の「大高小学校育友会コーラス部が選ばれた。大高小学校育友会コーラス部は黒のベストを着た男性イメージとピンク系柄のワンピースの衣装で傘を持ってのパフォーマンスが印象的で、コールあまくさは、白色の衣装が印象的でとても楽しく歌っている姿が印象的でした。
私もコーラスをやってきていて、いろいろ演奏会は聞きに行ったりしているが、お母さんコーラスは、舞台の演出や、衣装など、いろいろ楽しませてくれて、お母さんたちが楽しく歌ってる雰囲気がとてもいいなと思いました。合唱文化もっともっと広がるといいな。

2010年6月26日土曜日

熊野神社と児島高徳公誕生の碑

児島の熊野神社を訪ねました。
児島高徳誕生の地の記念碑です。五流尊龍院の境内にあります。
訪問記の詳しい内容は[吉備の児島」に書いていきます。

頼仁親王は後鳥羽上皇の皇子で承久の乱後北条泰時によって後鳥羽上皇は隠岐に、頼仁親王は児島に配流されました。同じく後鳥羽上皇の皇子桜井宮覚仁法親王が児島に来られ、頼仁親王の御子道乗大僧正を覚仁親王の附弟として五流尊龍院を継がれたという。
頼仁親王稜(大正7年より宮内省の所管)

2010年6月25日金曜日

宝珠山に登る


大避神社の裏山が宝珠山で散策ルートになっていて、景色が良いと聞いていたので登ってみた。
もとは大避神社と一つだった妙見寺があり、奥の院がある。妙見寺まではいい道が続いていたが、その先山上まではかなりの悪路で、舗装はしているが、路面が破損して、かなり注意深い運転が必要である。奥の院を過ぎて山上に児島高徳の義父和田範長一族の墓があった。
中世の時代後醍醐天皇に忠誠をつくした一族である。

山上からの景色は確かに素晴らしい、生島が眼下に見える。ただ樹木が生い茂って、写真を撮るのには苦労した。
宝珠山中腹から見た坂越浦と生島

2010年6月24日木曜日

生島(いきしま)

「河勝公が生きてお着きになられたので、生島(いきしま)と名づけられたとつたえられている。」と大避神社の由緒にある。
島内は神地であり、樹木を切ることはもちろん島内に入ることも恐れられてきたといわれている。そのため樹木が原始林のままに育ち国の特別天然記念物に、さらに国立公園特別保護区に指定されている。
島内西側には河勝公の墓所、神水井戸、東側には浜辺に石鳥居、御旅所と祭礼船を格納している船倉が建っている。

2010年6月23日水曜日

児島高徳の墓

児島高徳の墓を目指す。
鳥居の脇の道を登っていくと、急な坂道が続いて、児島高徳の墓に至る。まず忠魂碑が迎えてくれる。さらに進むと、高徳の墓があった。
妙見寺は、熊山の戦いで重傷を負った高徳が療養した寺と伝えられる。明治の神仏分離で別れてしまったが、当時は妙見寺が大避神社の別当であり、16坊5庵の大伽藍、2~300人の僧侶に、寺男、数百の僧兵を抱えたていたという。高徳の義父和田範長は妙見寺の良覚上人と旧知の間柄であったので、高徳をかくまったのであろう。山上には和田範長一族の墓がある。
備前児島の熊野社、五流尊龍院には児島高徳の誕生碑が立っている。児島と赤穂をむすぶつながりを思い、しばし思いを巡らす。
児島高徳については[吉備の児島」に記事を書くつもりであるので、見てほしい。