このブログを検索

2011年7月21日木曜日

内田百閒の話を聞いて

7月15日 内田百閒の話を聞いた
講師は岡山ではその名の知られた岡将男氏
鉄道ファンでもある筆者は路面電車の環状化などに取り組む岡氏のことは良く聞いていたが、トラムの前に内田百閒ありと聞いて納得した。

最近、文学作品とはトンと縁のない当ブログの筆者にとっては、鉄道好きの作家の印象は持ちながらもその作品や人柄に触れる機会はほとんどなかったが、岡氏の話を聞きとても興味を持った。
有能な文章能力を持ちながらも、金には恵まれず、借金名人だったとの話には驚いた。
岡氏自信も会社倒産と言う悲惨な経験をして内田百閒と会い通じる世界を体験
経済的困窮の中で味わう人間らしさを内田百閒はその文章の中に秘めていると聞き、多くの共感を人々に与えたと聞く。

共感する世界を感じた!内田作品も読んでみよう!

2011年7月6日水曜日

岡山人物銘々伝を語る会6月まとめと7月案内



 「岡山人物銘々伝を語る会」
60回例会のご案内
                       代表世話人代行 久井 勲

 59回(617日)の例会は 、高橋義雄氏に「興譲館館祖阪谷朗盧と三島中洲、渋沢栄一との親交」について語っていただきました。
ペリー来航と正しく同時期の嘉永66月に創立成った興譲館の館祖、阪谷朗盧(ろうろ)を中心に、また鴻学、産業いまだ黎明なる中、後世、斯界のリーダーとなる三島中洲、渋沢栄一と、阪谷との親交について触れていただきましたが、いずれの人物も、新生日本を何とかしようとの熱い志を抱いていたことが、いまさらに知りえて、なかなか岡山の人国記も豊富なることを感じました。
彼らの事績はつとに有名ですが、人と人との出会いという面では、渋沢が幕末に井原に農兵の募集に来て阪谷朗盧と知り合い親交を結んだこと、阪谷の長男芳郎がのちに大蔵省に入省して渋沢の二女と結婚していること、は、初めて知りえたことでした。なるほどに歴史の影には“縁”が生きていることを思います。
 また、同日は興譲館出身の方や学校関係の方も参加しておられ、精神性に重きをおく伝統を懐かしむ声の聞かれました。
7月の例会は下記のとおりです。             
                記
 日時:平成23715()※ 午後6~8時  (※通例は第3金曜日です)
     場所:岡山県立図書館の2階  (元へ戻りました)
    内容:「内田百間の素顔」
      講師:百鬼園倶楽部会長 岡 将男 氏
      参加費: 1,000
内田 百間(うちだ ひゃっけん 1889年(明治22年)529古京町の造り酒屋「志保屋」の跡取り息子として生まれる。岡山中学在学中に生家が廃業、六高卒業後東京帝国大学に進み在学中に夏目漱石の門下となる。小説家、随筆家。本名は内田 榮造。
戦後は筆名を内田 百閒と改めた。別号は百鬼園(ひゃっきえん)という。「百鬼園」を「借金」の語呂合わせとする説もあるが、本人は一応のところ否定している。迫り来る得体の知れない恐怖感を表現した小説や、独特なユーモアに富んだ随筆などを得意とした。後輩の芥川龍之介に慕われたほか、師である夏目漱石の縁故から夏目伸六と親交が深かったことでも有名。


参加希望及び問い合わせは吉備楽土まで