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2012年3月30日金曜日

永遠に語り告げられていくものもあれば、その時代、そのときに必要とされるものもある。


BOOKS吉備に投稿したが、・・・・

本にも・・・、永遠のベストセラーと言うものがあれば、一過的なベストセラーで終わるものもある。
時代と言うものは変化して行っている。そしてその中には変わるものと変わらないものとがある。
どちらが価値があるとかないとかということではない。いずれも必要だ!
その時代にあった、その時その場に必要なものもあれば、変わらない真理のように一貫して語り継げられるものもある。
どちらも必要!

宗教やいろんな企業や、団体もそうであろう。
特に宗教は、その開祖がその時代に必要な教えを説くことが多い。逆にその時代には受け入れられないが後の時代にその価値を発揮する場合もある。世界の主要宗教といったものはそうかもしれない。その代表格がイエスキリストかもしれない。
まあ、何処の宗教でも、自分のところの開祖が一番と言うだろうし、そう言わないと宗教団体は成り立たないだろうが・・・

さて、親鸞聖人は非常に聖徳太子を尊敬していたと言う・・・。これはある浄土真宗のお坊さんの書いた本の中にあったのだが・・・・、また法然上人はとても弘法大師を尊敬していて、讃岐に流された時、弘法大師の故郷に行けたと喜んで、善通寺に塔を寄進している。それを聞いた親鸞聖人は同じく善通寺にお堂を寄進している。
世界的にはマホメットは非常にイエス・キリストを尊敬していたと言う話である。聞いた話であるが・・イスラム教は偶像を排して、絵や像を廃棄したが、マホメットはイエスのイコンだけは廃棄させなかったという。
今では対立的な宗派のように思われているその各宗派の開祖たちは実は結構お互い尊敬しあっていて、共通の心の世界に生きていたのかもしれない。その後の継承者たちは、教団を守り拡大するために他の宗教を非難したり罵倒して宗教・宗派争いをしている。開祖の先生方がっかりしているのでは・・・とも思う。
人間の本質は永遠性を追求する。しかし人間は現実に生きている。このあたりにギャップが生まれる要因があるのか・・・?

2012年3月29日木曜日

分かち合いの文化

大震災の瓦礫を受け入れる、受け入れないといっているが・・・
日本には分かち合いの文化は無いのか。
喜びもそして苦しみも、ともに分かち合って生きていこうと言うのが日本人だったのではないのか。
権利ばかりが主張される時代になってしまっている。
筝曲家の大月宗明先生は、それを[格差の奴隷]だと言われる。
人が困っていれば・・恵んでやる・・・義捐金は恵んでやるが、傷みは分かたない
これってなんなんだ!
それに引き換え、天皇陛下が計画停電の時、皇居も電気を消して過ごされたと言うことを聞いて感動した。
本らに日本には分かち合う文化があったはずである。
それでこそ、世界から尊敬され、世界から崇敬され、頼りにされる日本になる。
本来日本にはそのような歴史的な使命があると思う。
それをどう回復していくのか・・・みんなの知恵を寄せ合って行こう。

2012年3月28日水曜日

宇喜多の別姓が秦だとすると・・・・


「黄蕨(きび)国と宝木伝説」 http://www.geocities.jp/ki_warabi/
を主宰しておられる丸谷氏の論文によると[宇喜多の本姓は”秦”」であるとのこと。

香川で歴史研究をしておられれる大井透氏からの情報として丸谷氏からいただいた情報です。

以下引用させていただきます。
2月23日に大井 透氏より秦氏関連の情報提供があった。吉備に多くの秦氏が入植していることからみて関係があると思いメールしました。

豊臣家の五大老の宇喜多家は本姓が秦氏です。この情報は観音寺じんねいん神恵院(香川県観音寺市八幡町1-2-7)に伝わる『弘化録』(弘化録 は、空、風、火、水、地の五巻からなり、同寺の第七十四代住職光遍法印が編集。703年(大宝三)から1845年(弘化二)までの寺歴や観音寺周辺の出来 事だけでなく、国家の歴史的な事象を歴代住職ごとにまとめている)に記載されています。この寺の別当には空海や足利尊氏の庶長子もおり、その為西讃では第 一の権勢を誇った寺社です。仙石秀久の讃岐侵攻の際、宇喜多一族は西讃地方で所領を与えられ「宇喜多」あるいは「浮田」と名乗り、大地主として農地解放ま で栄えていました。その宇喜多家の一人が江戸期に琴弾八幡宮(香川県観音寺市八幡町1-1-1)に奉納した際の名簿に載っているのです。ネットでは宇喜多 家は百済の末裔とか載っているのもありますが本当のところはよくわかりません。温羅も百済の王子という伝承も突厥の範疇の一部と理解できるのではないで しょうか。


宇喜多が秦氏とすると・・・・
児島高徳も秦氏・・・?
児島高徳が挙兵した熊山は有名な熊山遺跡の建造に秦氏が係わっていたことはすでによく知られている。そして児島高徳が船坂峠で戦って傷を負って治療のために匿われたのが坂越、ここの児島高徳の墓もある。坂越と言えば秦川勝が最後にたどり着き葬られた生島があり、大避神社がある。坂越は秦氏の故郷のようなところである。
吉備の秦氏と宇喜多家の血統的なつながりが明らかになれば、吉備の歴史の重要な部分がみな解けて来る。

[宇喜多騒動]というのがあった。家臣の中にキリシタンに改宗する者が出てきた。宇喜多秀家が重用した、長船紀伊守がその代表と言われれる。
日本にキリスト教を伝来したと教えられているフランシスコ・ザビエルの日記を見ると、日本人はすでにキリスト教伝来以前から、キリスト教と同じような信仰を持っていたことが伺われる。
秦氏=原始キリスト教徒あるいは景教徒との説がある。ケン・ジョセフ氏の[失われた十字架の国日本]などに明らかである。
丸谷氏は秦氏の元郷は中央アジア、シルクロードにあった弓月国であるとしているが、これは秦氏を率いてきたのが弓月王でるあるという日本書紀や新撰姓氏録に明らかである。
弓月国が原始キリスト教あるいは景教の国家であった可能性はきわめて高い。さらに魏志には秦始皇帝の時代に多くの難民が朝鮮半島南部に逃れ国を作ったとの記録がある。これが辰韓であり、新羅のもととなった。

秦氏の持つ宗教性から見ると、秦氏の少なくとも主力はユダヤ人原始キリスト教とであったとの推論はかなりの確立で正しいと言わざるを得ないであろう。

景教はネストリウス派とも言われ、一時はローマカソリックから異端視されキリスト教として扱われなかった時代があるが、近年和解した。
ある面、もっともキリストの教を忠実に受け継いだのが景教だったとも言われている。イエスの弟子の一人トマスがインドに宣教に行って殉教した話がケン・ジョセフ氏の本にもある。
そうすると、日本にはザビエルが日本にやってくるはるか以前、おおよそ2~3世紀ころには遅くも、その教が伝わっていたとしても間違いないであろう。
京都太秦の広隆寺も元は葛野にあって、それはまさに景教の寺院だったと言われている。秦川勝が側近を務めていたといわれる聖徳太子の伝説にキリストの誕生伝説に似通った話しが出てくるのも不思議ではない。

ザビエルが日本に来て、一挙にキリシタンに改宗したと言われるが、その土台がなければ何十万という人々が一挙に改宗などするはずが無い。それはその以前から名前やスタイルは違っていても同じ教えがこの日本に広まっていたからではないのか?
宇喜多が秦氏とすると、長船紀伊を始め家臣や領民の多くがすでにその以前から、キリストの教えに教化されていた人々であった。それは秦氏であった。と言うことになるのではないだろうか。

それではなぜ、日本は仏教国なのに?
それは、日本に伝わった仏教はすでにキリスト教と仏教が融合した形で伝わっていた。それは弥勒という形で・・・。それと徳川300年の鎖国政策とキリシタン禁教の中で、完全にキリストの教えの本質は外形が仏教や儒教と言う形の中に融合され、外形的なキリシタンと言うものが故意に抹殺され続けられて来た結果であろう。
幕末期から明治初めにかけての新興諸宗教が、その教えの内容に係わりなく神道の形を取らざるを得なかったように、日本に伝わったキリストの教えは仏教の衣を纏わざるを得なかったのである。

このあたりもう少し今後整理していきたい。


2012年3月24日土曜日

歴史研究会

24日(土)10:00~大元公民館(大元小学校南側)で吉備歴史探訪会の主催で歴史研究会です。
テーマは[吉備の秦氏とおかやまの人物]です。ご都合の付く方ご参加ください。

2012年3月22日木曜日

秦氏の精神性

秦氏の持つ精神性とは何か?
残念ながら、秦氏の精神性を如実に示す文献にはこれまでお目にかかっていない。
秦氏が、日本の文化・伝統に深くかかわり、特に宗教分野では、日本の宗教の大半に秦氏が関わってきたことが様々な記録や事実を通してわかるのだが、ある教え・思想・文献としては、少なくとも私は目にしていない。
大和和雄氏の[秦氏の研究]など、数多くの秦氏に関すると思われる書籍にも目を通してみたが、秦氏が創設したと見られる八幡宮、稲荷社、松尾大社、白山信仰や妙見信仰、その他数多くの神社仏閣の開基に秦氏がかかわったと見られる記録がある。
京都は太秦の広隆寺に残る日本の国宝第1号の弥勒菩薩造。日本に仏教・弥勒信仰をもたらしたのも秦氏といわれる。そして日本最大の教派となった浄土宗の開祖法然上人も秦氏の出身である。
最澄や空海と秦氏とのかかわり、讃岐の金比羅山も秦氏の開基と聞く。その他枚挙に暇がない。
景教研究所を創設した佐伯教授や、それを相続したケン・ジョセフ氏などは、秦氏は景教徒だったとの説を唱えておられる。これはある面納得がいく話だが、それはあくまで状況的な証拠が多く、秦氏が明確に原始キリスト教とであるとか景教徒であったということが証明され、日本の宗教史、あるいは精神史の定説にはなっていない。
果たして[秦氏とは]?、日本精神の根本は何処にあるのか?この当たりを明確に出来れば、日本の持つ本来の精神の復興や、その精神が世界の今後の発展につながるものとなるのではないだろうか。
[日本教]とは何か?かって山本七平氏がイザヤ・ベンダサンのペンネームで[ユダヤ人と日本人]というテーマで本を書き、[日本教]というテーマが話題になったことがあるが、日本教という教団や郷里書があるわけではない。
新渡戸稲造が[武士道]という本を書き、西洋で有名になり、日本語にも訳されて多くの人が呼んでいるが、武士道も特定の教理書があるわけではない。
前にあげた多くの神社などに行っても、秦氏の開基とはなっていても、そこには教理書のようなものは見受けれらない。
たとえばユダヤ教やキリスト教には聖書があり、イスラム教にはコーランがある。仏教にも仏典があり、中国思想には儒学書がある。ギリシャの哲学書も数多く残っている。
ところが神社には教理書がない。
このあたりをどのように理解し、解決するのか。[秦氏]研究の一番の課題のように思う。

2012年3月13日火曜日

吉備歴史研究会

吉備歴史探訪会の、研究会バージョン
「吉備歴史研究会」
3月24日(土)10時~12時 場所は大元公民館(大元小学校の隣です)
吉備の秦氏Ⅱとして学びます。
最新の情報なども含め、あらためて、「吉備」と「秦氏」の歴史を探ります。興味と関心のある方はご参加ください。参加費は資料代として500円です。