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2011年3月12日土曜日

東北地方大地震の救援に全力を1

大地震の被害が甚大である。特に津波による被害があまりにもひどい。
胸が痛む。町ぐるみ壊滅したところもある。これからどうするのだろうか。犠牲にあった多くの人々、命は助かっても家も生活の基盤もすべてを失ってどう生きて行ったらいいのか途方にくれる。あまりのもの痛みが日本を覆っている。
今こそ全国民が総力を挙げて被災した地域や家庭を支援していかなければならない。
特にリーダーは国民の不幸を見てどう対処するのか、真価が問われる。
かって、わが備前の名君主池田光政公は熊沢蕃山の教えもあり、大洪水にあった領民のために藩の蔵を開いて食料を支援し、救援に当たった。領民もそのことにふかく感謝した。

地震前は政争に明け暮れた日本の政界であるが、一切の政争をやめて日本の復興に全力をあげる時である。
外国からも支援が寄せられている。
隣国韓国でも、他人の不幸を喜ぶ不謹慎なネットの書き込みに非難が集中していると聞く。国家間の争いもおいて、支援をしてくれる諸外国に感謝しよう。
わが郷土吉備の国は古来災害の少ないところ、このようなところにすめる幸いを感謝し、東北関東の被災者救援に最大限の支援をして行こうではないか。

2011年3月5日土曜日

岡山人物銘々伝を語る会3月例会案内 3月は横溝正史を

岡山人物銘々伝を語る会2月例会まとめと3月例会案内です


まず代表代行久井さんの2月まとめです

55回(218日)の例会は 近藤泰宏さんに、箕作阮甫について語っていただきまし
た。いつものことですが、近藤さんの資料作りにかける情熱はすごいです。内容の深みも、また その人物が生きた時代を捉えるときの地理的・時代的な広汎さも、ともどもに圧巻です。保存版 に相応しい資料です。ありがたいです。
 さて、箕作阮甫の人となりは、謹厳実直という性格に加え、いわゆる天才型の人間にあるよう に、広く且つ深く技能や知識を干上がった地に雨がしみ込むように吸収し、「個別」を「普遍」 にまで置き換えて考えることのできる人だったようです。しかも、ただの天才ではなく、知識 を学ぶにあたって、決して断片的なもので満足することなく、“彼らの発想の根源は何に由来す るのか※ にまで降りていって、その科学知識や技術の意義を確かめようとした点は、すでにして、西洋の思考法を大分取り込んでいたようにさえ感じます。
  ※「聖書にあり」と見抜いた点は慧眼といえましょうし、近藤さんが、聖書の句と辞書の   句の類似性の中で例証しているのは、とても面白い着眼でした。

 蕃所調所の書庫を通じて、彼や彼の同時代の人たちが西洋科学の方法論に馴れていたがゆえに、明治の近代科学への接近がスムーズにいったのではないでしょうか、そう感じました。

3月の例会は下記のとおりです。             
                記
 日時:平成23318()※ 午後6~8時  (※通例は第3金曜日です)
 場所:岡山県立図書館の2階
 内容:横溝正史
 講師:青山 融(あおやまとおる) (『タウン情報おかやま』の編集長を5年つとめたあと、現在、㈱アス出版企画部長)
  参加費:1,000
    横溝正史は戦時中疎開していた岡山を舞台にした作品を多く残しています。その疎開
     していた旧真備町岡田時代の横溝正史を、語っていただきます。


その後横溝正史の疎開宅に行ってきました。
旧真備町岡田で筆者の本家のすぐそばです。墓参に行った時撮りました。
横溝正史が疎開していた家 時間を決めて入館できます。この日はあいにく閉館後でした。

ちょっとしゃれた案内看板が立っていました

2011年3月4日金曜日

吉備の鯉喰神社に卑弥呼は眠る

「吉備の邪馬台国と大和の狗奴国」若井正和著 (歴研)
邪馬台国吉備説を大胆に述べている。著者は掛川市在住で掛川市立総合病院副医務局長・神経内科診療部長『歴史研究』に「邪馬台国吉備説の提唱」ほかを書かれている。

楯築遺跡は弥生式墳丘墓後期のもので、発掘した近藤義郎教授は出土した特殊器台と特殊壺を重要視していた。古代祭祀研究家の薬師寺慎一先生も楯築遺跡で行われたであろう祭祀を重要視して、魏志倭人伝に出てくる「卑弥呼」が行ったとみられる祭祀がここ吉備の地、楯築を中心とする地域で行われただろうと推論している。

著者の若井氏は魏志倭人伝における「邪馬台国と卑弥呼」の記述をさまざまに検証しながら、大和説、九州説共に不備な内容が多く、邪馬台国を吉備と比定してこそ、すべてがつじつまが合ってくると、詳しく論述している。
「やまと」とは何か?単なる地名ではない。若井氏の論によると魏志倭人伝に出てくる「狗奴国」を当時、大和(奈良盆地を中心とした地)の王国とし、邪馬台国は吉備にあって倭国をまとめた王権、女王国とすることで、古事記、日本書紀の記述と合わせ、すべての論理がつながるという。

結論、卑弥呼の墓は楯築遺跡に近い、「桃太郎伝説」にも登場する「鯉喰神社」であるとする。
「鯉喰神社」は楯築遺跡にほど近く、明治に楯築遺跡にあった楯築神社を合祀している。神社は楯築遺跡に匹敵する弥生式墳丘墓に建てられている。

造山古墳応神天皇陵説と合わせ、邪馬台国吉備説は、古代における吉備の位置づけが、単にこれまで言われてきたような大和に対抗する王国にとどまらず、「倭国」の中心地であった可能性を示唆している。
これらが秦氏や賀陽族など渡来の集団と、その技術や文化とのかかわりを見ていけば、古代吉備の真実の姿が浮かび上がってくるようである。
新羅の王子と言われた天日矛とのかかわりも注目に値する。
大和王権で祭祀をつかさどる同時に鉄の鋳造技術を持っていた物部一族との関係も見逃せない。
このあたりさらに整理してみることが必要。

それにしてもこの若井正一氏の「邪馬台国吉備説」はかなり説得力のあるもの。古代吉備王国の真相に迫る。

3月13日鯉喰神社を訪れました。

2011年2月28日月曜日

吉備歴史探訪会2月例会 楯築遺跡~造山古墳~秦廃寺~姫社神社

26日(土)9時30分吉備津神社の犬養毅の銅像前に集合、出発しました。
出発前に、話が盛り上がり、近くに妹尾兼安と栄西禅師の遺跡があるということで、栄西禅師の誕生の地を訪ねる。その後楯築遺跡と造山古墳を訪れる。

楯築遺跡では、先回来たときにはよく見れなかった、小さな倉に納められた波状に模様の刻まれた御神体石を小さな窓から見させていただいた。この日は天候に恵まれ遺跡からは北にははるか稲荷山竜王山を望み東には吉備の中山を見ることができた。破壊されたといわれる遺跡の突出部にドンと構える水タンクと、遺跡への順路の途中にある石積みでできた外壁の立派な公衆トイレに異質感を覚える。

造山古墳では古墳の上部にも登ってみる。造山古墳は来たことがあるが上まで上るのは初めてという方がほとんどで、「方部」の山上には荒神社が祀られ、そこに阿蘇の石でできた石棺が置かれている。
この造山古墳の被葬者が誰か?薬師寺慎一先生は「応神天皇ではないか?」と推論しておられる。ここに無造作に置かれている九州の石の棺が何を意味するのか?いろいろと考えることができる。
せっかくここに登ってきたのだからと「前円部」にも登ってみる。登るとタイヤにチェーンを巻いたショベル車があって作業をしている。何かと思うと木の伐採をしている方たちであった。よく見ると現在古墳の駐車場のある東側からは生い茂っていた木がそのほとんどが伐採されて古墳の原型がよくわかるようになっている。また古墳上に登ると稲荷山や周辺の山々がよく見える。鬼の城も遠望できる。その鬼の城を見れる円形部から西側にかかる部分の伐採が進められていた。

機内にある巨大古墳はそのほとんどが宮内庁の所管で木の伐採など考えることもできない。それに引き換えここ、日本第4の大きさの造山古墳では木が伐採され自由に登ることもできている。その造山古墳が薬師寺先生が推論されるように応神天皇の陵だったとしたらどうなんだろうと考える。
薬師寺先生は「考えながら歩く吉備路」という本を書かれ、今回もその本を教科書のように使わせていただいたが、本当に「考えさせられる」。

さてここでお昼時が近づいたが、いったん秦廃寺に行ってからお昼にしようと行程を進める。
今回参加者のお一人Oさんがそのお母さんの実家が秦で、小さいころ豪渓駅で降りて渡し舟で来たことを覚えていると言われた。そして「秦」を「ハダ」と読むことも教えていただいた。
秦廃寺は吉備の最古の古代寺院だといわれる。これもやはり薬師寺先生の推論だが、今日山背が本拠地とされている秦氏が、実はその時代には吉備がその本拠ではなかったかという。考えるとうなづける。

聖徳太子のころ側近であった秦氏の頭領、秦川勝が百済の斉明王から贈られた仏像を引き受けて祀ったのが京都太秦の広隆寺弥勒菩薩像であるといわれる。その秦川勝が後見人となっていた山背大兄が蘇我氏に滅ぼされ、何から逃れて最後にたどり着いたのが赤穂の坂越であった。先日坂越にも行って来た。山背を逃れた川勝がなぜ赤穂に来たのか?それはその当時の秦氏の本拠地が吉備から播磨にかけての地域だったからではないのだろうか。
備前は幡多にも廃寺がある。備前、備中、美作、播磨と続く広大な範囲に絶大な力を持っていたのが秦氏だと言えるであろう。
さて、この後「姫社(ヒメコソ)」神社を最後に尋ねて今日の行程を終わろうと、出発した。
まず、豪渓駅方面に渡る橋の手前にある巨岩、盤座(イワクラ)を祀った岩畳神社を訪ねる。時間の関係もあり登ることはできなかったが高梁川にせり出した巨岩はすばらしい。古来この地域に住み着いた秦の民が信仰対象としたのであろう。


しばらく高梁川沿いに進むと福谷と言うところに姫社(ヒメコソ)神社はある。ヒメコソというのは鉄の祭神であり、新羅の王子天日矛の妻だったという姫のこと。新羅から渡来したという秦氏とのかかわりを連想させられる。



うっそうと茂った社杜に囲まれて参道がある。鳥居の脇には黒地に白で「古代吉備之國波多波更郷鉄造之神社」と書かれている。反対側には「秦郷鉄造之発祥之地」とある。参堂を登ると山門がある。先のOさんが祝詞をあげられたので一緒に祈る。
山門の脇には「古代吉備國発祥之地」との柱、「ここが吉備の国の発祥の地か?!」とまた考えさせられる。
ここ秦郷が吉備国の発祥の地とすれば、吉備国を起こしたのが秦氏ということになるのでは?その後の秦氏の果たした役割や位置づけを考えると、吉備最古の寺院跡があることとあわせ、とてつもなく大きな意味があることが考えさせられる。考察を続けたい。
その後はお昼、今回は「横田うどん店」を訪ねました。総社で名だたるうどん店とか、かなり遅い時間にもかかわらず混み合っていて、人気のほどがわかりました。とてもおいしかったです。
歴史探訪も最後のこの時間が楽しみ。参加者一同また一緒に行きましょうと別れました。

2011年2月19日土曜日

吉備歴史探訪会の案内

主催している吉備歴史探訪会の案内をします。
来る2月26日(土)午前9時30分吉備津神社集合で、楯築遺跡と造山古墳、秦廃寺と 湛井(タタイ)堰、葉田の足守宮が元と思われる足守八幡を訪問の予定です。会費は実費、誰でも参加できますので参加お待ちしています。
今回は特に、以前にも紹介した薬師寺慎一先生の書いた「考えながら歩く吉備路」を参考に、吉備特に備中の中枢部の秦氏と関係が深いと思われるところを重点的に回ります。
特に応神天皇の時代、薬師寺先生の説によると「造山古墳は応神天皇の稜ではないか?」と言われる。応神天皇といえば八幡宮の祭神である。秦氏とのかかわりが興味深い。
今回こんなことを考えながらの史跡めぐりとしてみたいと思います。

岡山人物銘々伝を語る会2月例会「箕作 阮甫と西洋文明」

昨日ゆうあいセンターで岡山人物銘々伝を語る会2月例会が開かれました。
今回講師は津山歴史人物研究会の近藤泰宏氏、テーマは「箕作阮甫と西洋文明」と題して、箕作阮甫の人となりや業績を学んだ。
津山藩の藩医の家に生まれた阮甫は、父、兄を早くなくし幼くして家督を継ぎ、藩医になるが、江戸で町医者を開業していたときに火事に会い、それを機会に翻訳の仕事に専念するようになる。語学の才能を生かして蘭学や洋学を学ぶようになり、翻訳の仕事としてはペリーの来航時、米大統領の親書を翻訳するなど活躍した。
近藤氏の解説では、特に阮甫は洋学を学ぶに当たり、西洋文明の背後にあるキリスト教に関心を持ち、聖書を学んでいたという。
阮甫の生まれた津山は明治以降、キリスト教が盛んになり、内村鑑三も何度も訪れるなどキリスト教の普及したところであるが、今回は近藤氏の西洋文明の背後にあるキリスト教の歴史にも言及しての解説に感心させられた。
当ブログの主も、誕生寺や津山のキリスト教図書館などを尋ねたことがあるが、津山にはキリスト教を受容する風土が在ったことが感じさせられた。津山に来た内村鑑三が「法然上人」をとても尊敬していたとのことに感銘を受けた。法然上人といえば秦氏の末裔である。(以前書いた法然上人の項に詳述)秦氏は原始キリスト教とだったとも言われている。
さて、阮甫は漢訳の聖書を読んでいたとの話を今回聞いた。聖書といえば当時はまだキリシタン禁制の徳川の時代、少々驚きを隠せないが、一面そうだなあとの感想も持った。
いずれ私も秦氏と、キリスト教、日本文化の歴史をまとめてみたいと思っている。

2011年2月9日水曜日

岡山人物銘々伝を語る会2月例会

   「岡山人物銘々伝を語る会」第54回例会のご案内
                        
  53回(121日)の例会は 岡山に来たこともある与謝野晶子について、黒田輝一
 さんにお話をしていただきました。黒田さんの青春期の詩との出会いは、数人の友人とのめぐり合わせに始まるようです。披露のあった幾首かの歌は、感傷のうちにもおおらかさが伺えました。ちょうど同会のテーマ、与謝野晶子の滾るような熱情にも通じる思いがしました。
  皆さんからあった与謝野晶子評は中々に面白かったです。「従来、包み隠すべきとされていた
 男女の情感をまさに赤裸々に且つ高らかに謳い上げている」、「パリの夫鉄幹を追っかけていく
 行動力は、まるで恋する青年男女のよう」――とかく恋は人を熱くします。
  (ただ、昭和八年六月の岡山旅行中の歌には、そんな熱情は伺えません)  
 当日は、黒田さんの声掛けで詩歌愛好の女性が集まって下さいました。今後もご参加いただけ るとありがたいです。(代表代行 久井勲さんのまとめ)

2月の例会は下記のとおりです。             
                記
  日時:平成23218()※ 午後6~8時  (※通例は第3金曜日です)
  場所:ゆうあいセンター(きらめきプラザ2階) 県立図書館が休館のため今回はゆうあいセンターで行います
  内容:箕作阮甫と西洋文明
  講師:近藤泰宏 氏(津山歴史人物研究会代表)
  参加費:500
[箕作阮甫]  幕末の蘭学者、洋学者 津山藩の藩医をしていた箕作家に生まれる。幼くして父を亡くし、兄も亡くなり12歳で家督を継ぐ。京都にて漢方医を学び18歳で藩医となるが、翌年江戸に上がり蘭学を学ぶ。江戸で藩医を勤めながら開業し医院を開くが、火災もあり病弱なこともあり翻訳に専心するようになる。種痘館(後の東大医学部)の筆頭を務め幕府の蕃書和解御用を命じられ、ペリー来航の折には米大統領の国書翻訳にも当たる。彼の翻訳した書物は医学、語学、西洋歴史、兵学、宗教学など多岐にわたる。男子はなかったが娘に養子を迎え、その子孫からは多数の学者を輩出している。
問い合わせ先  kibirakudo@gmail.com
     090-1033-3327(山田)まで