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2011年2月28日月曜日

吉備歴史探訪会2月例会 楯築遺跡~造山古墳~秦廃寺~姫社神社

26日(土)9時30分吉備津神社の犬養毅の銅像前に集合、出発しました。
出発前に、話が盛り上がり、近くに妹尾兼安と栄西禅師の遺跡があるということで、栄西禅師の誕生の地を訪ねる。その後楯築遺跡と造山古墳を訪れる。

楯築遺跡では、先回来たときにはよく見れなかった、小さな倉に納められた波状に模様の刻まれた御神体石を小さな窓から見させていただいた。この日は天候に恵まれ遺跡からは北にははるか稲荷山竜王山を望み東には吉備の中山を見ることができた。破壊されたといわれる遺跡の突出部にドンと構える水タンクと、遺跡への順路の途中にある石積みでできた外壁の立派な公衆トイレに異質感を覚える。

造山古墳では古墳の上部にも登ってみる。造山古墳は来たことがあるが上まで上るのは初めてという方がほとんどで、「方部」の山上には荒神社が祀られ、そこに阿蘇の石でできた石棺が置かれている。
この造山古墳の被葬者が誰か?薬師寺慎一先生は「応神天皇ではないか?」と推論しておられる。ここに無造作に置かれている九州の石の棺が何を意味するのか?いろいろと考えることができる。
せっかくここに登ってきたのだからと「前円部」にも登ってみる。登るとタイヤにチェーンを巻いたショベル車があって作業をしている。何かと思うと木の伐採をしている方たちであった。よく見ると現在古墳の駐車場のある東側からは生い茂っていた木がそのほとんどが伐採されて古墳の原型がよくわかるようになっている。また古墳上に登ると稲荷山や周辺の山々がよく見える。鬼の城も遠望できる。その鬼の城を見れる円形部から西側にかかる部分の伐採が進められていた。

機内にある巨大古墳はそのほとんどが宮内庁の所管で木の伐採など考えることもできない。それに引き換えここ、日本第4の大きさの造山古墳では木が伐採され自由に登ることもできている。その造山古墳が薬師寺先生が推論されるように応神天皇の陵だったとしたらどうなんだろうと考える。
薬師寺先生は「考えながら歩く吉備路」という本を書かれ、今回もその本を教科書のように使わせていただいたが、本当に「考えさせられる」。

さてここでお昼時が近づいたが、いったん秦廃寺に行ってからお昼にしようと行程を進める。
今回参加者のお一人Oさんがそのお母さんの実家が秦で、小さいころ豪渓駅で降りて渡し舟で来たことを覚えていると言われた。そして「秦」を「ハダ」と読むことも教えていただいた。
秦廃寺は吉備の最古の古代寺院だといわれる。これもやはり薬師寺先生の推論だが、今日山背が本拠地とされている秦氏が、実はその時代には吉備がその本拠ではなかったかという。考えるとうなづける。

聖徳太子のころ側近であった秦氏の頭領、秦川勝が百済の斉明王から贈られた仏像を引き受けて祀ったのが京都太秦の広隆寺弥勒菩薩像であるといわれる。その秦川勝が後見人となっていた山背大兄が蘇我氏に滅ぼされ、何から逃れて最後にたどり着いたのが赤穂の坂越であった。先日坂越にも行って来た。山背を逃れた川勝がなぜ赤穂に来たのか?それはその当時の秦氏の本拠地が吉備から播磨にかけての地域だったからではないのだろうか。
備前は幡多にも廃寺がある。備前、備中、美作、播磨と続く広大な範囲に絶大な力を持っていたのが秦氏だと言えるであろう。
さて、この後「姫社(ヒメコソ)」神社を最後に尋ねて今日の行程を終わろうと、出発した。
まず、豪渓駅方面に渡る橋の手前にある巨岩、盤座(イワクラ)を祀った岩畳神社を訪ねる。時間の関係もあり登ることはできなかったが高梁川にせり出した巨岩はすばらしい。古来この地域に住み着いた秦の民が信仰対象としたのであろう。


しばらく高梁川沿いに進むと福谷と言うところに姫社(ヒメコソ)神社はある。ヒメコソというのは鉄の祭神であり、新羅の王子天日矛の妻だったという姫のこと。新羅から渡来したという秦氏とのかかわりを連想させられる。



うっそうと茂った社杜に囲まれて参道がある。鳥居の脇には黒地に白で「古代吉備之國波多波更郷鉄造之神社」と書かれている。反対側には「秦郷鉄造之発祥之地」とある。参堂を登ると山門がある。先のOさんが祝詞をあげられたので一緒に祈る。
山門の脇には「古代吉備國発祥之地」との柱、「ここが吉備の国の発祥の地か?!」とまた考えさせられる。
ここ秦郷が吉備国の発祥の地とすれば、吉備国を起こしたのが秦氏ということになるのでは?その後の秦氏の果たした役割や位置づけを考えると、吉備最古の寺院跡があることとあわせ、とてつもなく大きな意味があることが考えさせられる。考察を続けたい。
その後はお昼、今回は「横田うどん店」を訪ねました。総社で名だたるうどん店とか、かなり遅い時間にもかかわらず混み合っていて、人気のほどがわかりました。とてもおいしかったです。
歴史探訪も最後のこの時間が楽しみ。参加者一同また一緒に行きましょうと別れました。

2011年2月19日土曜日

吉備歴史探訪会の案内

主催している吉備歴史探訪会の案内をします。
来る2月26日(土)午前9時30分吉備津神社集合で、楯築遺跡と造山古墳、秦廃寺と 湛井(タタイ)堰、葉田の足守宮が元と思われる足守八幡を訪問の予定です。会費は実費、誰でも参加できますので参加お待ちしています。
今回は特に、以前にも紹介した薬師寺慎一先生の書いた「考えながら歩く吉備路」を参考に、吉備特に備中の中枢部の秦氏と関係が深いと思われるところを重点的に回ります。
特に応神天皇の時代、薬師寺先生の説によると「造山古墳は応神天皇の稜ではないか?」と言われる。応神天皇といえば八幡宮の祭神である。秦氏とのかかわりが興味深い。
今回こんなことを考えながらの史跡めぐりとしてみたいと思います。

岡山人物銘々伝を語る会2月例会「箕作 阮甫と西洋文明」

昨日ゆうあいセンターで岡山人物銘々伝を語る会2月例会が開かれました。
今回講師は津山歴史人物研究会の近藤泰宏氏、テーマは「箕作阮甫と西洋文明」と題して、箕作阮甫の人となりや業績を学んだ。
津山藩の藩医の家に生まれた阮甫は、父、兄を早くなくし幼くして家督を継ぎ、藩医になるが、江戸で町医者を開業していたときに火事に会い、それを機会に翻訳の仕事に専念するようになる。語学の才能を生かして蘭学や洋学を学ぶようになり、翻訳の仕事としてはペリーの来航時、米大統領の親書を翻訳するなど活躍した。
近藤氏の解説では、特に阮甫は洋学を学ぶに当たり、西洋文明の背後にあるキリスト教に関心を持ち、聖書を学んでいたという。
阮甫の生まれた津山は明治以降、キリスト教が盛んになり、内村鑑三も何度も訪れるなどキリスト教の普及したところであるが、今回は近藤氏の西洋文明の背後にあるキリスト教の歴史にも言及しての解説に感心させられた。
当ブログの主も、誕生寺や津山のキリスト教図書館などを尋ねたことがあるが、津山にはキリスト教を受容する風土が在ったことが感じさせられた。津山に来た内村鑑三が「法然上人」をとても尊敬していたとのことに感銘を受けた。法然上人といえば秦氏の末裔である。(以前書いた法然上人の項に詳述)秦氏は原始キリスト教とだったとも言われている。
さて、阮甫は漢訳の聖書を読んでいたとの話を今回聞いた。聖書といえば当時はまだキリシタン禁制の徳川の時代、少々驚きを隠せないが、一面そうだなあとの感想も持った。
いずれ私も秦氏と、キリスト教、日本文化の歴史をまとめてみたいと思っている。

2011年2月9日水曜日

岡山人物銘々伝を語る会2月例会

   「岡山人物銘々伝を語る会」第54回例会のご案内
                        
  第53回(1月21日)の例会は 岡山に来たこともある与謝野晶子について、黒田輝一
 さんにお話をしていただきました。黒田さんの青春期の詩との出会いは、数人の友人とのめぐり合わせに始まるようです。披露のあった幾首かの歌は、感傷のうちにもおおらかさが伺えました。ちょうど同会のテーマ、与謝野晶子の滾るような熱情にも通じる思いがしました。
  皆さんからあった与謝野晶子評は中々に面白かったです。「従来、包み隠すべきとされていた
 男女の情感をまさに赤裸々に且つ高らかに謳い上げている」、「パリの夫鉄幹を追っかけていく
 行動力は、まるで恋する青年男女のよう」――とかく恋は人を熱くします。
  (ただ、昭和八年六月の岡山旅行中の歌には、そんな熱情は伺えません)  
 当日は、黒田さんの声掛けで詩歌愛好の女性が集まって下さいました。今後もご参加いただけ るとありがたいです。(代表代行 久井勲さんのまとめ)

2月の例会は下記のとおりです。             
                記
  日時:平成23年2月18日(金)※ 午後6~8時  (※通例は第3金曜日です)
  場所:ゆうあいセンター(きらめきプラザ2階) 県立図書館が休館のため今回はゆうあいセンターで行います
  内容:箕作阮甫と西洋文明
  講師:近藤泰宏 氏(津山歴史人物研究会代表)
  参加費:500円
[箕作阮甫]  幕末の蘭学者、洋学者 津山藩の藩医をしていた箕作家に生まれる。幼くして父を亡くし、兄も亡くなり12歳で家督を継ぐ。京都にて漢方医を学び18歳で藩医となるが、翌年江戸に上がり蘭学を学ぶ。江戸で藩医を勤めながら開業し医院を開くが、火災もあり病弱なこともあり翻訳に専心するようになる。種痘館(後の東大医学部)の筆頭を務め幕府の蕃書和解御用を命じられ、ペリー来航の折には米大統領の国書翻訳にも当たる。彼の翻訳した書物は医学、語学、西洋歴史、兵学、宗教学など多岐にわたる。男子はなかったが娘に養子を迎え、その子孫からは多数の学者を輩出している。
問い合わせ先  kibirakudo@gmail.com
     090-1033-3327(山田)まで

2011年1月12日水曜日

楯築遺跡を訪ねて

薬師寺慎一先生の「楯築遺跡と卑弥呼の鬼道」を読んで気になっていた楯築遺跡に行ってきました。
岡山大学名誉教授で亡くなられた近藤義朗先生が発掘調査をされて、「弥生式墳丘墓」と名前を付けられた、前方後円墳の原型ではないかといわれる墳墓である。
近藤先生は前方後円墳の研究で有名で、その著書の中で「前方後円墳は吉備から始まったのではないか」という事を示唆されている。
この近藤先生の発掘調査で、ここから大量の朱(水銀)が出てきたそうである。
薬師寺慎一先生はこの近藤先生の調査の資料を基に、古墳時代を迎える前の弥生末期の時代に、吉備には「卑弥呼」か、卑弥呼と同等の力を持った女性首長が支配していたのではと推論している。
この後、造山古墳を訪ねた。

薬師寺慎一先生は、この造山古墳は「応神天皇」の陵ではないかと推論している。
それはこの古墳がその造られた時代においては、本邦第1位の大きさの古墳であり。応神天皇が吉備の兄姫を訪ねたとの記紀の記録からして、その可能性を示唆している。
記紀には応神天皇がどこの葬られたとの記録はなく。畿内にある、応神天皇陵もそれが確定されているわけではない。むしろ記紀にその記録がないことが、不思議で、それは吉備にその陵があるとはかけなかったからではないかと、薬師寺先生は推論している。
造山古墳上には荒神様が奉ってあり、そのわきに阿蘇の石でできた石棺がある。この石棺が何を意味するのか?

前方後円墳の成立には諸説あるが、成立の時代、北部九州から畿内に至る諸勢力の連合政権が成立して、その中心地が吉備ではなかったのか、そこで吉備から連合体の象徴的な墳墓として前方後円墳が成立したのではとの考えが通説になりつつあるようである。
神功皇后から応神天皇の時代に北部九州から吉備大和に至る連合体が出来て行ったとすれば、その時代に吉備がその中心地になっていて、巨大な墳墓、造山古墳が作られた意味も分かる。その後畿内、大和にその勢力の中心地が移動していったのであろう。

岡山県人の美徳とその精神、思想のルーツについて

岡山は極めて多くの偉人を輩出している。その中でも特に宗教家や宗教に関連した人物が多い。
それらの人々の思想的、宗教的ルーツはどこにあるのか?
それを今年のテーマにして行きたいと考えている。

吉備の国岡山の美徳
まず第1に天(神)を敬い畏れること。道鏡事件で和気清麻呂のとった姿勢にそれを見ることが出来る。また法然や栄西のような日本を代表する宗教家を輩出してきた。
人を愛することに篤い。和気清麻呂の姉、広虫姫が孤児を養った話は有名である。江戸期の思想に多大な影響を与えた熊沢蕃山は「愛」を武士の美徳と説いた。また、明治以降、石井十次の孤児院をはじめ数多くの福祉事業化を輩出した。
忠孝に篤い人物が多い。和気清麻呂や児島高徳はその代表であろう。
先端技術への挑戦者を多く輩出古代には鉄の加工技術や陶器の製作に優れた技術を発揮した。また前方後円墳の築造に見られるごとく土木技術にも優れていた。江戸時代には鳥人幸吉という人がいた。幕末から明治以降も先端技術に優れた多くの人物を輩出した。

枚挙にいとまがないが、吉備の風土が豊かな人材を輩出した背景にあることは間違いないであろう。

2011年1月1日土曜日

平成23年辛卯の年を迎えて

あけましておめでとうございます。
辛卯の年を迎えました。
世相は困難なことが多いですが、こういう時こそ希望が大切な時でしょう!
吉備の国が、未来を拓くそんな時を迎えているようにも思います。

今年もよろしくお願いいたします。